第10話 ありし日の記憶~僕らの紹介~
真雪の姉、美冬さんと初めて会ったのは、仲直りしてから一週間後の放課後だった。
いつもと変わらない(喧嘩以前と変わらない)帰路の途中だった。
「恋人作ったら、親とか家族に挨拶するのが当然だよな」
真雪は急にそんなことを言った。正しいことだが、なにせ急だったので驚いた。そしてさらに驚いたのは次の言葉だった。
「今から行こう」
「は?」
つい、少し怪訝な顔までしてしまった。
別に僕からしてみれば関係のないことだし、真雪がいきなり何かを言い出すのはいつものことだが、恋人――否、初恋をした身としては、こんな勇気のいることをさらっと言えて行動しようとしていることは、尊敬の域に値した。
「今から行くの?」
「そう言ってるだろ。まずは咲良を呼ばなきゃな」
「いきなり電話して大丈夫? 用事とかあったりしないの?」
「今日は何もないって言ってたから、多分大丈夫だろ」
真雪は携帯電話を操作して、電話した。二言三言、話すと通話ボタンを押して切った。
「大丈夫だって」
「そ、そう。よかったね」
驚くほど事態が進んでいく。まさか思いつきからこんな数分で話がまとまるなんて思わなかった。あまりにも行動が早すぎる。
そして、想定外のさらに想定外をゆくのが彼、河北真雪という男であることを僕は次の言葉で知ることになる。
「よし、お前も来い」
「僕も? 僕は関係ないよね」
「お前にも会ってほしいんだよ。挨拶のついでだ」
ついで。
捉え方には少しがっかりしたが、真雪の家族に会えるのは嬉しいことだった。
「分かった」
急に決まった河北家訪問だったが、僕は心の中にワクワクを抱えながら十字路をいつもとは逆方向に進んだ。
咲良ちゃんとは河北家の前で合流した。突然の招集だったにも関わらず、嫌な顔をせず、むしろ楽しそうにやってきた。服装は制服のままだった。やはり親御さんに挨拶するのなら正装の方がよいと判断したのだろうか。
咲良ちゃんは着くや否や、制服を着崩した真雪に言った。
「ちゃんと制服を着た方がいいわよ。挨拶するのは大事なことなんだから」
全く、彼女はよくできた子だ。真雪とは正反対だ。だからこそ二人は惹かれ合ったのかもしれない。
彼らにとっての大きな節目ともいうべき出来事を目の前にそんな仮説を立てていると、制服を着直した真雪はインターホンを押した。呼び鈴が鳴ってから出たのは、女性の声だった。ここでは普通に開錠を頼むだけで、詳しいことは言わなかった。通話が終わってからすぐに扉が開いた。
顔を出したのは若い制服の女性だった。さっきの声の主だろう。とても物腰の柔らかそうな人だった。
「おかえりなさい。あれ、お友達?」
「友達と、恋人だ」
真雪はそんな風に答えた。僕と咲良ちゃんははじめまして、と言いながら頭を下げた。
「あら、そんな改まらなくていいよ。さあ、上がって」
僕らは制服の女性に招かれて、河北家の中へ入った。
河北家は二階建ての一軒家だ。玄関を入ると、白い壁と同じ色の靴箱があってその上には観葉植物が置いてあった。靴を脱いであがると、すぐに二階へ続く階段があった。
「真雪、先に二階へ行ってて。お茶とかお菓子とか持ってくるから」
「分かった」
制服の女性は廊下を奥へ進んで突き当りの扉の向こうに消えた。一方、僕らは階段を上がり二階へ上がった。
二階には四つの扉があった。真雪は階段に一番近い扉を開けた。そこはどうやらリビングのようで、テーブルとテレビが置いてあった。しかし、その他には背の低い棚が一つ置いてあるだけで、とても殺風景な部屋だった。
「まあ、適当に座ってくれよ」
とりあえず荷物を降ろして真雪の隣に座った。するとすぐに制服の女性がお盆にコップを四つとお菓子を乗せてやって来た。
「今日は来てくれてありがとう。女の子が咲良ちゃんで、男の子が湊くんね。真雪がよく話してくれるわ。私は真雪の姉の美冬。中学三年生。みんなとは違う中学だけど、よろしくね」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「二人とも、そう
美冬さんは優しく笑って言った。
隣を見ると、珍しく真雪の顔が
「……真雪、肩の力抜いて。深呼吸して。落ち着いたら言えばいいから」
「うん」
彼でも緊張することがあるらしい。真雪は一度大きく息を吸って吐き出すと、美冬さんの方を向き直した。
「湊、ちょっと席外してくれねえか」
「え?」
「三人で話したいんだ。すぐ終わるから」
「分かった。頑張ってね」
僕は席を立って、部屋を出た。
だが、ずっと耳をそばだてていた。野暮なことだと思ったが、親友がこんなことをするとなれば気になってしまう。僕はなるべく気配を消して、扉に耳をくっつけた。
「……今日は、実はこいつを、俺が付き合ってる子を紹介したいから連れてきたんだ。名前は、宮内咲良、隣のクラスの子で、部活でマネージャーをやってる」
「改めて、はじめまして。宮内咲良です。真雪くんとお付き合いさせていただいてます」
丁寧に挨拶をすると、美冬さんと思われるすすり泣きが聞こえてきた。
「……姉ちゃん?」
「な、なんでもない。ちょっとお茶を取ってくる」
ダンダンという音がこっちに近づいてきた。まずいと思って、すぐに扉から離れた。それとほぼ同時に扉が開いて、美冬さんが出てきた。彼女のまつ毛は少し濡れていた。
「あら、ここにいたの」
「はい。真雪に出ていけと言われてしまったので」
「そう、ごめんなさいね。あの子、自分勝手で。私、今から下に行くんだけど、付き合ってくれない?」
「いいですよ」
僕は美冬さんについていく形で階段を下りた。
階段を下りて廊下を進み、突き当りの扉を開けた。家に来たとき、美冬さんが入っていった部屋だ。入ると、そこはリビングだった。ソファもテレビもダイニングテーブルもある、リビング兼ダイニングだった。ついでに言うとキッチンもあった。
「あの……美冬さん、さっき僕らがいたのは何の部屋なんですか?」
ついそんなことを質問してしまった。なんとなくタブーな気もしたが、それを思ったのは言葉を言い終わってからだった。
しかし、美冬さんは特に変わった様子もなく、リビングだよ、と答えた。そして、私と真雪のリビング、と付け加えた。
「え?」
無意識にそんな声が漏れた。すると、美冬さんは薄っすらと、しかし切なげに笑った。
「間違ってないよ、その反応。普通、リビングは一家に一か所だから。あなたのお
「……はい」
「私、初めてお友達の家に行ったとき驚いた。リビングもダイニングも一か所しかなかったんだもの。そして同時に知った。私の家が――河北家が普通じゃないことを」
美冬さんは僕の手を引き、キッチンに入った。一般的なカウンターキッチンだった。広くも狭くもないキッチンだが、少し物が多い気がした。特に調理台の隅には籠が二つ置かれていて、一つには調理器具、もう一つには食器が
美冬さんは全ての収納を開け始めた。調理台の頭上と足元、冷蔵庫まで開けた。そこには端から端まで料理に使うものが収納されていた。
「よく見て。ここにあるものは全部、私たちのものじゃないの。
「一雪さんと冬子さんは……お手伝いか何かですか?」
「違う――男親と女親」
つまりはお父さんとお母さん。
「なぜ、そんな言い方を?」
「親ではあるけど、家族ではないから。私の家族は真雪だけなの」
「血縁がないご両親なんですか?」
「そうじゃない。血縁はあるし、戸籍上も家族だけど……家族としての関係は終わってる。同じ家に住んでるけど、生活は全く違う。ただ一緒の家にいるだけの他人。話すこともない」
――壊れている。
いろいろ言っていたけれど、僕はたった一言、それだけが頭に浮かんだ。
河北家は完全に崩壊している。嘘かもしれない、なんていうことは思わない。この完全に分離された収納が、答えだ。
「一雪さんと冬子さんは互いが大好きなの。愛の結晶のはずの私たちよりも、互いが好きで好きでたまらない。愛というよりも執着、いや依存かもしれない。互いがいないと生きていけないの。毎晩、二人が愛欲に溺れる声が聞こえてくる。私たちは肩を寄せ合って、耳をふさいで、眠りにつくの。あの人たちは私たちのことなんて考えてない。ただ家にいる人、とも思っていないかも。住みついた野良猫か野良犬とかかな」
「どうしてそんなことを僕に?」
「だって、真雪と仲良くしてくれてるんでしょ」
「そうですけど、僕は幼馴染とかそんなんじゃないし……」
「でも、真雪にとっては
また僕は、え、というのが漏れた。
「でも、小学校では友達も多そうだったし、僕なんかに比べたら……」
「友達はいたみたいなんだけど、あんまり話してくれなかった。そうだなあ、友達の話を、湊くんと咲良ちゃんの話をし始めたのは中学に入ってからだった。毎日すっごく楽しそうなの。だから、話しておこうと思っただけ」
「どういう意味ですか?」
「深い意味なんてない。ただ真雪のことを知ってもらいたいだけ。こういう家庭事情だから気にしてほしいとか、その件には触れないでとか、そんなことじゃない。ただ知っていてほしい。真雪がこういう家で育った、こんな子だってことを。私みたいなお姉さんがいるってことを」
「そう言われると、なんか深い意味があるんじゃないかと思っちゃいますよ」
「そうね。まあ、簡潔に言うと、真雪とこれからも仲良くしねってことと私ともちょっとだけ仲良くしてほしいなあってことかな」
「そんなの、お願いされるまでもないですよ。僕は真雪とこれからも仲良くしたいと思っています。彼と出会ってから僕も毎日が楽しいですから。もちろん美冬さんとも、仲良くさせていただきたいです」
「ありがとう」
突然決まった河北家訪問だったが、僕にとってはとても有意義な時間だった。何より真雪のことを少しでも知れた。初めての親友がどんな人物で、どんな人が周りにいるのか。真雪からすれば知られたくなかったのかもしれないが、僕は美冬さんと話せてよかったと思う。
――この日、この時間がなければ、僕は大好きな二人を失う羽目になっていたかもしれないのだから。
事件が起こったのは、河北家訪問から数日が経った夜だった。
あの日以降、僕は美冬さんとも繋がりを持ち始め、実際に会うことはなくともメールや電話で連絡を取っていた。内容は特筆するほどのことではない、他愛ない会話だ。学校では真雪と咲良ちゃん、家では美冬さんとの時間を過ごす日々が流れていた。
そんなある日、僕はいつも通り真雪と下校して帰宅した。そしてご飯やお風呂を済ませてからベッドに横たわり、携帯電話で美冬さんにメールを打った。
『こんばんは。今日、咲良ちゃんが新しいパンケーキ屋さんを見つけたって話してました。「エミエール」って店なんですけど、知ってます? 南雲湊』
送信ボタンを押して返信が来るのを待った。美冬さんの場合、忙しくなければすぐに返信が来る。最近はスマートフォンを持って、打つのが楽になったらしい。
僕はいつものように返信を待った。しかし、三十分経っても一時間経っても携帯電話が反応することはなかった。忙しいのかもしれないと思ったが、時刻は午後九時だ。中学生がこんな時間に出かけているとは考えられないし……でも中学三年生ともなれば受験勉強で塾に行ったりするものか。そこで僕は思い出す、数日前のメールを。一応、受信フォルダを確認した。
十月二十三日。二十一時三分。差出人 河北美冬。宛先 南雲湊。
『塾はね、行ってないんだ。っていうか行く余裕がない。だから一般受験はしないよ。学校の成績で推薦が取れそうなんだ。……以下略』
塾には通っていない。
だったら、家で勉強中なのだろうか。だとしたら邪魔をしてしまっていることになる。申し訳ない。明日、真雪経由で謝ってもらおう。
そんなことを考えながら、僕は部屋の窓を閉めた。寝る準備だ。歯を磨いて、明日の準備をして、布団をかぶった――そのときだった。
ようやく携帯電話に着信があった。
メールをしたはずなのに、なぜか電話だった。画面に表示された名前は美冬さんだったから、わざわざ電話をくれたのかもしれない。僕はすぐに手に取って耳に当てた。
「もしもし、湊です。忙しいのにメールしてしまってすみま――」
「……湊か。助けてくれ」
聞こえてきたのは美冬さんではなく真雪の声だった。
一度、画面の名前が河北美冬であることを確認して、もう一度携帯電話を耳に当てた。
「真雪? どうしたんだよ。こんな時間に、しかも美冬さんの携帯で」
「姉ちゃんが……姉ちゃんが大変なんだ。今すぐ来てくれ」
「全然状況が見えないよ。何があったんだ」
「頼むから早く! 早く来てくれ……や、やめろ! 触るな!」
だんだん声が遠くなる。その代わりに声ではない音が聞こえてきた。鈍くて、耳障りな音。そして誰かが肌を叩く、パチンという音が聞こえた。
「むかつくんだよ! 黙って言うこと聞いてろ!」
「あんたらの分際で邪魔しないで!
僕は遠くに聞こえたその言葉で、一部を理解した。
あの他人たちはちゃんと自分の子供たちとして認識している――自分たちのサンドバッグとして。
携帯電話を握りしめたまま、格子柄の寝巻のまま、僕は家を飛び出した。靴も履かず、とにかく走った。背中の方で僕を呼ぶ声がしたが、それを気にしている余裕はない。とにかく河北家へ、あの狂いまくった家へ走った。外は僕の嫌いな雨が降っていて、深まる秋の風を伴ってとても冷たかった。地面も冷たい。寝巻が濡れる。それが肌にぴったりとくっついて気持ち悪い――早く着かなきゃ。
河北家まではたった数分で着くはずなのに、いつまで経っても着かない感覚がした。
ちょうど十字路まで来たとき、真っ暗な住宅街で唯一明かりのついた家があった。あれがこの前行った河北家だ。真雪と美冬さんが何やらやられている、狂った家だ。
僕は扉を開ける前に、あるところに電話を掛けた。雨に濡れたからか、僕は少し冷静だった。援軍を呼ぶことにした。
援軍の名は宮内咲良。彼女以外に選択肢はなかった。
「もしもし、宮内です」
「夜遅くにごめん。今から真雪の家に来てほしい」
「え? えっと、え?」
「ごめん、緊急事態なんだ。とりあえず今すぐに来てほしい」
「え、うん、分かった。でもちょっと着替えなきゃ……」
「いいから、早く! 今すぐに家を出て!」
最後は怒鳴るように言って、電話を切った。
そして援軍を待つのを惜しんで、ついに河北家に突入した。
明かりがついているとはいえ、廊下は真っ暗だった。実際にはリビング――真雪と美冬さんのではなく、一雪さんと冬子さんのリビングの明かりが漏れていた。ついでに声も。
だから、すぐに突入した。
「黙れ、小僧が!」
「あたしたちの何が分かるの!」
「子供が大人に逆らうな!」
「あんたらはあたしたちに従ってればいいの!」
「使えないガキども!」
「消えろ!」
「クズが!」
「死ね!」
……なんだ、こいつら。
……こいつら、なんだ。
「やめろ!」
僕はそんな有り体な感じのことを叫びながら、僕は大きな大人二人を
さっきまでの騒々しい風景が消えて、それぞれが冷静に状況を捉えたとき、僕はようやく助けを求めた二人を見た。
二人とも寝巻ではなかった。制服だった。だが、制服と判断できるまでに時間がかかるほど汚れに汚れまくっていた。明らかに
「湊……来てくれたな」
「湊くん……」
雷に打たれたような姿だった。ところどころに切り傷と
さて、ここでようやく玄関の扉が開いた。咲良ちゃんだ。あの電話のあと、すぐに出てきてくれたらしい。
「湊くん!」
僕の姿を見つけた咲良ちゃんは、すぐに僕の方に来て真雪たちのそばにしゃがんだ。服装は淡い花柄の寝巻のままで、手には携帯電話を握っていた。
僕は真雪の手を掴んだ。ぶるぶると震える手をぎゅっと握った。
「――逃げよう」
僕はたった一言、それだけを宣言して立ち上がった。ボロボロな体を無理やり引っ張って立たせるのは、実は親切じゃないことなのだが、そこまで考えられるほど、冷静でも大人でもなかった。
僕は真雪の手を、咲良ちゃんは美冬さんの手を取って走った。家から逃げた。あの二人から脱出した。
向かう先は決めていなかった。とにかく遠くへ、見つからない場所へ、走った。
結局、負傷した左足が悲鳴を上げて、南雲家の前で立ち止まる羽目になった。脚を引っ張って、呼び鈴を押した。うちは父と母と弟の四人家族だが、この時間、弟は寝ている。きっと両親のどちらかが出てくれると思って待っていると、母が出た。
「もうこんな時間に中学生が外に出るものじゃないわよ。もうどこ行って……」
家の前で倒れこむ四人を見て母が絶句したのが分かった。
「……ごめん、母さん。こんな遅くに出かけたりして。これにはちょっと事情が……」
「とりあえず、みんな中に入りなさい。お風呂とタオルを貸してあげるから」
母は傘を差して河北姉弟を支え、僕は咲良ちゃんに支えられて家に帰宅した。
僕と咲良ちゃんが順番にシャワーを浴びた後、河北姉弟がお風呂場に入り、僕の部屋で手当てをすることになった。
真雪はようやく落ち着いたようで、いつものような元気な感じではないが、緊張は
「真雪、服脱いで」
「……」
まだ会話できるほど回復できていないのだろうか。
「変なことはしないよ。傷を見て消毒するだけ。ちょっと痛いかもしれないけど、なるべく気を付けるから」
「……」
まだ怖いのかもしれない。あんなことをされてすぐに立ち直れと言う方がおかしい。いや、そもそもあれだけのことをされておいて、今まで隠し通してきた方が異常だ。
「真雪、脱ぐだけだよ。すぐ終わらせるから」
「……そうじゃない。そうじゃないんだ」
真雪は声を震わせて、ぼそっと言った。そして続けた。
「――お前、絶対引くから。俺の体なんか見たら、お前が傷つくから」
こいつ、なんてことを考えてやがる。
この状況で――傷ついたこの状況で、僕のことを気にしてやがる。
僕は傷ついた彼を、彼の手を握った。手の甲にも傷があって、血が固まっていた。
「傷ついてるのは君だよ。僕のことなんて気にするな。もし本当に傷つくとしても、君ほどじゃないんだから。僕のことを、こんなときに気にしなくていいんだよ」
「……そんなんでいいのか?」
「そんなんでいいんだよ。今は自分のことだけ考えて。それでも、やっぱり僕のことが気になるなら、今度何か奢ってよ。それでチャラってことで。だから、今は服を脱いでよ。手当しよう」
真雪はこくんと頷くと、ゆっくり服を脱いだ。
切り傷。擦り傷。
そんな傷が、
「えっと…消毒するから」
「おう」
僕はなるべく痛くないように、ティッシュに消毒液を染み込ませて血液が固まった
「終わったよ」
「ありがとう。ごめんな。夜遅いのに、ここまでやってもらっちゃって」
「だから気にするなって。当然だから。それよりも……」
「一雪さんと冬子さんのことだろ」
真雪は僕の心を読んだように言った。
「うん、まあ。二人のことは、というか河北家の事情は美冬さんから聞いてた」
「そっか。まあ、見れば分かるところもあるけどな。今日のあれはちょっとひどい方だった。いつもはちょっと叩かれて終わりとか、蹴られて終わりとか、
「そんなんって……」
「そういう家なんだよ、俺んちは。そんな中で俺も姉ちゃんも育ってきた。だから、今更どうにかしようなんて気にはならない。修復なんかできないんだ。な、姉ちゃん」
真雪が美冬さんの方を見たので僕もそちらに視線を向けると、そっちでも手当てが終わっていた。
「バカは死んでも治らないって言うでしょ。あの人たちの場合、病気は死んでも治らないんだよ。でも、あの人たちの場合は死ねば終わるわけだから、私たちが我慢すればいいの。あの家を離れるまで。あの人たちが死ぬまで。我慢をすれば終わる――」
パチン。
パチン。
咲良ちゃんは目を潤わせて二人の頬を思い切り叩いた。頬は赤い痕がくっきりと残った。
「あんたらがいつまでもそんなんだから、こんなことになるんでしょ! なんで今も我慢してるの? 真雪は我慢できなかったから湊くんに電話したんじゃないの? ちゃんと助けてもらったのに、どうしてここでどうにかしようとしないの? こんなの続けたら、二人とも傷だらけのまま生きていくことになるのよ。それでいいの?」
姉弟は顔を見合わせて、それから美冬さんが咲良ちゃんを睨みつけた。
「……いいわけないでしょ。でも、私たちに何ができるっていうの? ただの中学生の私たちが大人にかなうわけないじゃない。よりによって相手は一雪さんと冬子さんだよ。何か言ったら、また何やられるか分からない」
「怖いんだよ、俺たちは。怖いからこそ抜け出せないんだ」
「――ほら」
咲良ちゃんは二人の手を握った。
「私たちがいる。中学生がいくら束になったって大人にはかなわないかもしれない。でも、知恵くらいは浮かぶわ。あそこにいるよりマシな方法を考えてあげる。だから、もう我慢しないで」
咲良ちゃんは泣いていた。自分のことのように泣いていた。不謹慎にも、僕は彼女のこんなところに真雪は惹かれたのかもしれないと思っていたが、実は僕も泣いていた。感動してなのか、真雪たちに同情してなのか、分からないけれど、真雪も美冬さんも咲良ちゃんも僕も泣いていた。
ついには互いに肩を抱き合い、泣いた。
僕らは互いにそれぞれ傷ついた。僕は助けを求められたのに何もできなかった自分に傷ついた。逃げて、逃げて、手当てすることしかできなかった。一発殴ったっていい相手なのに、僕はただ逃げた。真雪の手を引いてひたすら走った。
逃げは助けたうちに入らない。あの二人をどうにかしない限り、彼ら姉弟は傷つき続ける。
真雪は僕がちゃんと助ける。親友からのSOSなんだから、ちゃんと助ける。だから――
「だから、もう傷つかなくていいよ」
そんなことを言うのが、今の僕の限界だった。いつか少し大人に近づいたら、きっと助けられる。あの人たちを倒せる剣になれる。それまでは盾になる。
絶対に傷つけない。
中学生の僕はそんな決意をした。
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