第7話 ありし日の記憶~僕らの初恋~

 僕が咲良ちゃんと初めて出会ったのは、怪我が治りかけていた中学一年の秋だった。二学期の生活にも慣れて、ようやく部活に顔を出した日だった。

その日は長らく続いた雨が上がって、グラウンドでの練習だった。もちろん治りかけなので、練習をするわけにはいかないけれど、部活に行くことが練習をすることと同義ではない。練習する部員たちのサポートも大切な仕事だ。つまりマネージャーの仕事である。休憩のときに水筒を渡したり、タオルを用意したり、選手ほどではないにしても、とてもハードだ。顧問からは怪我が悪化するから無理はするな、と言われているが、選手たちが練習している時間はベンチに座っているだけのなので、無理をしすぎることもない。今の僕には最適な役割だった。

グラウンドでは場所を半分に分けてサッカー部と野球部が練習している。サッカー部はグラウンドの端から端まで走って、ウォーミングアップの最中だ。

「あなたが南雲くん?」

 ベンチに座っていると、ジャージ姿の女の子が話しかけてきた。

「私、夏休みに入部した一年三組の宮内咲良。マネージャーよ」

「はじめまして、僕が南雲湊。えっとクラスは……」

「真雪と同じでしょ。あいつ、よく話してくれるもの。本当はお見舞いに行くつもりだったんだけど、真雪と予定が合わなくて」

「仲いいの?」

「うん。入部したときにいろいろお世話してくれたの」

 咲良ちゃんは隣に座った。身長は僕より少し小さめだ。少し大きめのジャージらしく、ダボっとしている。

「夏休みの試合で怪我しちゃったって聞いたけど、大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫。今は普通に生活できてるから。まあ、サッカーはまだできないけど」

「サッカーやってる南雲くん見たいなあ」

「見るなら真雪の方がいいよ。あいつの方が上手いし、僕は下手だし」

「下手なら人一倍練習すればいいんだよ。努力は裏切らないから」

 咲良ちゃんはグラウンドでの練習を見ながら言った。

「早く復帰したいよね」

「……どうだろう」

「え、違うの?」

 実は悩んでいるところであった。足も完治するかどうか微妙なところで、一応完治すると言われているが、やっぱりスポーツを再開するのは難しいだろう。腕が(サッカーだから足といった方がいいかもしれないが)鈍っているのもあるが、一番は怪我の再発だ。一度怪我をすると、怪我しやすくなると聞いたことがある。

 正直、何人もの人と走ってボールを追いかけるのが怖くなってしまったのだ。

「サッカーは好きだけどね」

「じゃあきっと復帰できるよ。私が保証する」

 咲良ちゃんは満面の笑みを浮かべた。

 怪我のせいで少々弱っていた心に、その笑みがじりじりと染み渡った。そして彼女の顔を見るだけで胸がドキドキして、熱くなってくる。まともに顔が見られない。

 こんなのは初めてだった。最初は久しぶりの部活に疲れが出てしまったのかと思ったが、体の異常とは少し違う。しばらく考えても、十分な答えが出なかった。


 それから数日間、僕はサッカー部に通い続けた。選手として復帰したいからというのもあったが、どちらかと言うと、咲良ちゃんとお話ししたいという欲求の方が上回っていた。部活は僕と咲良ちゃんが会える、唯一の時間と言っても過言ではなかった。ベンチに隣り合って座り、いろいろな話をした。クラスのこと、先生のこと、彼女が入部する前のサッカー部のこと、小学校のこと……思いつく限り、たくさんのことをとにかく話し込んだ。とても楽しかった。この時間のために学校に来ていたのかもしれないと思うほど、楽しかった。

 そんな毎日が続くある日、僕は真雪と帰路きろを歩いていた。中学に入ってからは毎日一緒に登下校していた。怪我をしてからしばらくは部活に行っていなかったから、二学期が始まって久しぶりに二人で下校した。

 とは言っても、前と何ら変わらない帰り道だった。この二、三か月、ずっとイレギュラーな日常を送っていた身としてはこれ以上に安心できることはなかった。

 しかし、変化のない毎日なんてそうそうないわけで、数か月もあれば人の心も少しは変わる。

「俺、好きな人ができた」

 そんなことだって、ありえるのだ。

「……えっと、好きな人?」

「そう、好きな人」

「へえ、好きな人……は?」

 そんな曖昧な会話をしたのを、よく覚えている。好きな人ができたという事実よりも、真雪にそういう感情があったということを認識できなかったのだ。

 数メートル歩いてようやく、彼の言葉を理解した。

「ああ、好きな人か」

「サッカー部の子で、クラスは違うんだけどめっちゃ優しいんだよ」

「僕の知ってる人?」

「絶対知ってる」

 サッカー部の女の子は全員で四人、一年生と三年生が一人ずつ、二年生が二人だ。ここで学年を聞いてしまえば、ほとんど答えが分かってしまう。僕は、誰だろうな、と言うにとどまった。

「あれ、名前とか聞かねえの? 聞くと思ったんだけどな」

「いや、まあ、そんな答えを急ぐことでもないかなって」

「急ぐ? 何を?」

「いや、ほら、告白とかしくじったら恥ずかしいとか、あると思うから。ちゃんと全部終わってから聞こうかなって」

 実は彼と同じ状況である僕にとって、こんな理由はこじつけでしかなかったのだが、真雪はそれをバカにするように笑った。

「それを言うなら、俺はもう全て終わってるぜ」

 真雪は携帯電話を操作して、ある画像を突き付けてきた。それは真雪とあの新しいマネージャー、咲良ちゃんが並んで写っている写真だった。

「俺と咲良、もう付き合ってるから」

 真雪の無意識の嫌味で、僕の初恋は一気に散ってしまったのである。


 しかし、初恋が実るどころか芽すら出る前に摘み取られてしまったのは、いささか認めがたい現実であった。もちろん二人の仲を認めてはいた。とはいえど、三人でいるときは仲良し三人組のような感覚だし、咲良ちゃんも真雪と同等に扱ってくれた(ような気がしただけかもしれないが)。

でも、初恋の相手と普通に仲良くできるほど、僕は器用な人間ではなかった。他愛ない会話をしている二人を、羨むと同時に心の奥底で憎んでいたのかもしれない。否、真雪の告白(僕に対しての告白)以降の僕の行動からすれば、『かもしれない』というわけではないのだろう。

僕は、僕でも怖いくらいに、真雪の消滅を心から望んだ。咲良ちゃんを欲しいと思った。真雪と咲良ちゃんをなるべく自然に近づかせないように、話させないように、会わせないようにして、とにかく接点を削ろうとした。

咲良はどこにいるかと聞かれたら、嘘の場所を教え。

咲良に伝えといてくれと言われたことは、永遠に口を閉ざし。

咲良と遊びたいと話すなら、その日はダメらしいと言った。

結果から言えば、僕がとった全ての策は失敗した。

 そうでもすれば真雪と咲良ちゃんの心は離れていくと、未熟な僕はそんな風に思い込んでいた。でも、人間の心と関係性はそう簡単に崩れない。今の時代、僕に隠れて連絡を取ったり会ったりすることなんて容易だ。つまり、彼らはそんな風に繋がりを維持していた。そして、そんな繋がっていていれば、僕がどんなことをしようとしているのかなんて、なんとなくでも理解できる。

 二人をバラバラにしようとして、結局僕は二人とバラバラになった。小学校の頃のように一人になった。親友になりかけた真雪はただのクラスメイトに、仲良くなった咲良ちゃんはただの憧れの女の子になった。あれだけ楽しみにしていたサッカー部のベンチは、ただのベンチになった。

 しばらくして、具体的には復帰して一か月半後、僕はサッカー部を退部した。怪我のこともあったが、やはり大きな要因は真雪と咲良ちゃんに会いづらくなってしまったからだ。真雪とクラスで顔を見るだけでも気まずいのに、咲良ちゃんと隣り合ってベンチに座ることなんできなかった。先生には、お前が辞めるなんて惜しい、なんて言われたが、そんなことを言われるほどの部員じゃなかった。むしろ辞めた方が部のためになるだろう。強い選手に練習時間を割いてやれる。やはり運動部なんて柄じゃなかった。僕はこれからも大人しく教室の隅で読書でもしていよう。そうして卒業までの時間を過ごすんだ。

 これが僕という人間なんだと自覚して。

 部を辞めたら、一気に暇ができた。心にもぽっかりと穴が開いた。僕はそれを勉強で埋めようとした。帰ったらまず授業の復習をして、余裕があったら予習もして、眠って起きたら学校に行って、休み時間は読書をして……そんな生活を送るようになった。もちろん、成績は右肩上がりになった。小テストは毎回満点。二学期の中間テストは順位を一気に四十位も上げて、総合成績は学年五位になった。

 それでも、心の穴はふさがらないままだった。成績を取ったって何も変わらない。友達だって増えない。成績なんて少し将来に役立つだけで、現在には役立たない。

 友達が欲しい――僕は初めてそう思った。真雪がサッカー部に誘ってくれなかったら、こんなことは思わなかっただろう。

 失って初めて、僕は新しいものを得た。

 本当は失いたくないものだったのだと、初めて気付いた。

 こんなつもりじゃなかった。ただ咲良ちゃんを取られて、否、何もかもを得られなくて八つ当たりしていただけなんだ。でも、大切なものを失ってまでやることじゃなかった。

 僕はようやく後悔した。遅すぎる後悔だ。もう何をするにも遅い。

 僕は泣いた。声をあげて泣いた。誰もいない教室でうずくまって泣いた。もうそれしかなかった。

 僕はまだ真雪と仲良くしていたいんだ。

 咲良ちゃんとももう少し仲良くなりたい。

 ごめん。

 僕が全て悪いんだ。

 だから、せめて謝りたい。

 許さなくてもいいから一言だけ――

「あれ、人、いたのか」

 声がした。それが誰なのか考えるより早く涙を拭いた。

「す、すみません。もう下校時間ですか。帰ります」

 鞄を肩にかけて、人がいない方の出口に歩いた。しかし、出ようとしたとき腕を掴まれて立ち止まった。

「離して下さい。下校時間を守らなかったことは謝りますから……」

「こっちを見ろ」

 僕は目を伏せ気味に、腕を掴んでいる人を見た。

「――俺だ、湊」

 そこにあったのは真雪の顔だった。

 僕はすぐに手を振り払って、顔をそむけた。

「僕に何の用? 帰らなきゃいけないんだけど」

「どうしたんだよ。急いで帰らなきゃいけない用でもあるのかよ。まあ、それなら明日でもいいけど」

「君と話すことなんて僕にはない。さっさと帰らせてくれ」

 一言だけ、と思いつつもいざとなって話すとなれば、怖気づいてしまうほど僕は弱い人間だった。きっと話す決意をしてもきっと逃げてしまうのが僕だ。

 しかし、こんな僕と大きく違うのが真雪だった。

「俺にはある。急ぎじゃないけど、絶対話しておきたいことがあるんだ」

 彼は真っ直ぐとした目で、珍しく真面目な顔でそう言った。まあ座れよ、と半ば強引に僕をその辺の椅子に座らせて、真雪は目の前に座った。

「今更何の用? 僕は君に――」

「――悪かった」

 唐突にそう言った。

「え?」

「ごめんな。俺、お前のこと、少しは分かってるつもりだったのに。全然分かってなかった。本当にごめん」

真雪は深々と頭を下げた。それはおふざけなんかではなく、誠心誠意、謝っているのがよく分かった。

「真雪、頭を上げてよ。悪いのは僕なんだから。謝るのは僕の方なんだから」

「俺はちょっと感づいてたんだ、お前が咲良のこと好きなんだろうなって。だから俺、取られたくなくて、お前より早く告白して、自慢してやろうって思った。俺、こんなの初めてだったからちょっと舞い上がっちゃって……本当に悪いことをした。ごめん」

「……僕は咲良ちゃんが他の誰かに先取りされて、悔しかっただけなんだ。それが真雪だったのが、さらに悔しかったんだ。真雪と咲良ちゃんが別れれば告白できるって思って、いじわるした。僕は自分のために君と咲良ちゃんに悪いことをした。ごめんなさい、ごめんなさい」

 僕はまた泣いていた。これがなんの涙なのか、よく分からなかった。涙は止まらない。

 嬉しかったのかもしれない。とにかく、心のもやが晴れてちゃんと真雪と向き合えて、すっきりした。

「明日、咲良に告白しろよ」

「いいの?」

「いいよ。あいつが誰を選ぶかなんて、あいつにしか決められないんだから。お前を選んだら、俺はその程度だったってことだ。だから、ちゃんと言え。砕けたら俺が慰めてやるから」

「……それはちょっと複雑だけどね」

「慰めさせろよ。俺、お前の友達なんだからさ」

 真雪は笑った。笑ってくれた。

 僕らに仲直りの言葉なんていらなかった。ちゃんと素直な気持ちを伝えれば、やり直せる。いつの間にか、そんな仲になっていたらしい。


 結局、告白に至ったのは三日後のことだった。理由は、勇気が出なかったというだけだ。人生初めての告白だ、それなりの勇気が必要だ。僕の場合、それを出すのに三日かかった。実際には三日目の放課後に、無理やり教室に残らされて告白するシチュエーションを作られてしまったのだが、僕は無事に告白を実行することができた。

 まずは今までやってきたことを謝った。そして、真雪と話してこういう場を設けたことも伝えた。その上で、自分は咲良ちゃんが好きだということを伝えた。

 結果は、砕けた。

「嬉しいけど、私には他に好きな人がいるの。だから、付き合うとかはできない」

 そう言われてしまった。

 予想はしていた。僕よりも真雪の方が、咲良ちゃんにはお似合いだ。

「でも、お友達として仲良くしてほしい。真雪と私と南雲くん。――今まで通り・・・・・、仲良くしたいな」

「でも、僕は……」

「ずっと仲良くするなら、ちょっと距離を置く期間だって必要だもの。私は気にしないし、真雪だって気にするタイプじゃないでしょ――図々しいかな?」

 とても嬉しかった。

 フラれてしまったが、とても清々しい気分だった。僕のもやもやは完全に晴れて、少し前の僕らに戻れることになったから。否、以前の関係ではいられないだろう。だが、以前みたいにみんなといられる楽しい毎日をまた始められる。

「ありがとう」

 結果は散々だったはずなのに、僕はそんなことを言っていた。

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