第6話 消え去る初恋
家に帰ったのは、七時を過ぎてからだった。いつもより遅めの帰宅だったから、夕飯を食べてお風呂に入ったら、あっという間に就寝時間が近づいていた。今日は勉強ができなさそうだ。しかし、時間があったところで落ち着いて席に座っていられないだろう。
僕は真雪の記憶に関して悩んでいることがある。もっと正確に言うならば、やった方がいいことを
とりあえず僕は携帯電話を操作して、電話番号を打った。耳に当てて、相手が出るのを待った。
「もしもし」
スピーカーから咲良ちゃんの声がした。
「こんばんは、湊です。夜遅くにごめん」
「気にしないで。ちょうど勉強が進まなかったところだから」
咲良ちゃんはそんな風に言った。
「で、何の用? 湊くんが電話かけてくるなんて、珍しいじゃない」
「いや、まあ……」
電話をかけておきながら、もごもごしてしまった。
「まさか、告白? 無駄よ、私は真雪一本なんだから」
「わ、分かってるよ。そんなの、僕が一番分かってる」
「そうよね。湊くんは私より真雪とべったりだもんね」
「うん……」
「もう、煮え切らないわね。できれば早くしてほしいんだけど」
「え、ごめん。時間ない?」
「そういうわけじゃないけど、あんまり長話してると嫉妬されちゃうから」
「真雪は嫉妬深いもんね」
「まあ、いい感じの嫉妬深さだからいいんだけどね。プレゼントもマメにくれるし、一緒にいて楽しいし……って、何言わせるのよ!」
照れる咲良ちゃんだが、とても嬉しそうだ。
やっぱり、あのことを話すのは――
「……ねえ、咲良ちゃん。もし……もしの話だよ。もし明日、真雪が咲良ちゃんのことを『知らない人』とか言ったら、どう思う?」
「え?」
咲良ちゃんは少し戸惑いながらも、うん、そうだなあ、と考え始めた。そして、忘れないでしょ、と結論を出した。
「そう、かな」
「絶対忘れない。だって、忘れちゃいけないことをたくさんしたもの」
「そういうものかな」
「そういうものでしょ。それに、もしの話なんでしょ。じゃあ、これが私の答えだから」
電話の向こうでふふふ、と笑い声がした。
もしこれが本当に『もしの話』で終わったなら、きっと平穏な日々が流れることだろう。消えた今日の記憶は周りをあまり傷つけずに済む記憶だ。今日会った城戸くんは真雪の他にも先輩がいて後輩にも囲まれている。だから、彼が詳しい状況を知ったとしても、彼は以前と変わらない生活を送るだろう。彼にとってはたくさんいる部員の一人にすぎないのだから。
しかし、咲良ちゃんは違う。彼女にとって真雪はオンリーワンな存在だ。彼女の恋人はたった一人、真雪だけだ。だから咲良ちゃんと真雪の記憶は彼女らだけのものだ――それが消えたら、彼女と彼は一体どんな風に変わってしまうのだろう。
「もう十時ね」
「あ、ごめん」
「いいの、いいの。楽しかったから。あ、真雪に通話履歴見られないようにしてね。本当に嫉妬深いんだから」
「分かってる」
「じゃあ私はこれで。また明日」
「また明日」
僕が先に電話を切った。
さっきの話が『もしの話』なのかは、明日が来なければ分からない。それをどうこうしようなど、できっこない。
僕はベッドに寝転がった。目を閉じて開ければ、朝になっている。
僕は部屋の電気を消して、目を瞑った。
雨の音で目が覚めた。
僕は雨が嫌いだ。靴も靴下も濡れるし、くせ毛がますますひどくなるし、傘を差さなければいけないし、行動が制限されるし……いいことがない。
それでも学校はある。いつものように登校しなければならない。いつも通り十字路で真雪を待った。今日は六分遅れで合流した。
「よ、湊」
「遅い。早く行こう」
「なんだよ、お前。機嫌悪いな」
「……そんなことない」
「嘘つけ。お前、昔から雨嫌いだろ。雨の日はいつも機嫌が悪い」
「じゃあ早くしてよ。僕はもうここで六分も待ってるんだから」
そんな会話をして、僕らは学校へ行った。
校舎に入るとすぐに靴と一緒に靴下も脱ぐと、それはぐっしょりと濡れていた。持ってきたビニール袋に濡れた靴下を突っ込み、裸足のまま上履きを履いて、教室に行った。教室には半分くらいの人が来ていたが、ほとんどが裸足のままでいた。
とりあえず席に座る。
雨はまだ降っている。朝から降っている雨がこんな数分で止むわけがない。今日の帰りには止んでいてほしいものだ。
「やべえ、教科書とか濡れちまったぜ」
「傘差すのが下手なんじゃないの?」
「次からはカッパとか着てこようかな」
「大学からはカッパとか着られないよ、年齢的に」
「マジか。じゃあ大事なものは入れないべきだな」
「え、何か大切なものを持ってきてるの?」
「大切なものっていうか……」
真雪は濡れた鞄の中から、包装紙の模様が滲んだ包みが出てきた。僕には見覚えがあった。昨日、雑貨屋さんで買った咲良ちゃんへのお詫びのプレゼントだ。
「あーあ、せっかく可愛いやつで包んでもらったのに。もう、気を付けて持ってきてよ」
「ああ、やっぱり大事なものなのか」
真雪は手に持ったそれをまじまじと見た。
「真雪……?」
二日間連続で感じた嫌な感じを、今度ははっきりと感じた。
もう少し早ければ――そう思ったことすら、すでに遅かった。
急に教室の扉が開いて、真雪を呼ぶ声が響いた。
「会いに来たよ、真雪!」
もちろんそれは咲良ちゃんだった。中に入るやいなや、真雪の方に走ってきて抱きついた。いつもと同じ、普通の光景だ。
「おはよう、咲良ちゃん」
「おはよう、湊くん」
「咲良ちゃん、僕らこのあと予定が……」
早く――早く追い返さないと。
「湊、こ――」
「さ、咲良ちゃん、一時間目、何の授業?」
「現代文だけど」
「そうなんだ! そろそろ漢字テストだよね。もうやった?」
「ええ、昨日やったわ」
「じゃあ今日返ってくるかもね。咲良ちゃん、頭いいからきっと満点だよ」
「そうだといいけど……急にどうしたのよ」
ダメだ、ここで終わらせては、気付かせてしまう。それは絶対にダメだ。
今日失ったのが、
「真雪、今度のお休みに隣町のパンケーキ屋さんに行きたいの! パフェじゃないけど、一緒に行こう!」
咲良ちゃんは真雪を真っ直ぐに見て、言った。
まずい、このままじゃ――
「――お前、どこかで会ったことあるっけ?」
ついに言ってしまった。
「ま、真雪? 何を言っているの?」
「さ、咲良ちゃん、これはちょっとした冗談で――」
「まさか湊の友達か? 俺、湊の友達の河北真雪だ」
「もういいよ、真雪。ね、ごめんね、咲良ちゃん。ちょっと悪ノリが過ぎ――」
――パチン!
教室に響いたのは、咲良ちゃんが真雪の頬を叩いた音だった。頬にはくっきりと手形がついていて、咲良ちゃんは手を押さえていた。
「てめえ、何しやがるんだよ!」
「最低!」
咲良ちゃんはクラス中からの視線も気にせず、教室を出て行った。真雪は頬を押さえて痛がるだけで追いかけない。彼にとって
「真雪! なんてこと言うんだ!」
「普通見覚えのないやつに親しげにされたら、会ったことあるかないか、聞くだろ」
これ以上言っても無駄だ。彼は間違っていない。
僕は咲良ちゃんを追いかけて教室を出た。
僕がもう少し気を付けていれば、もっとマシな対応ができたはずなのに。
僕がなんとかするしかないのに、真雪にあんなことを言わせてしまった。
僕が――僕のせいで、咲良ちゃんを傷つけてしまった。
僕はとにかく廊下を走った。
僕がもう少し気を付けていれば、もっとマシな対応ができたはずなのに。
僕がなんとかするしかないのに、真雪にあんなことを言わせてしまった。
僕が――僕のせいで、咲良ちゃんを傷つけてしまった。
僕はとにかく廊下を走った。すぐに追いかけたわけではないから、廊下に姿はなかった。しかし、行きそうなところに覚えがある。伊達に真雪の幼馴染をやっているわけではない、彼の恋人がどこに行きそうかくらい、予想がつく。
僕は走った。そして、電気も点いていない教室の扉を開けた。
そこにはやっぱり、咲良ちゃんがいた。
「……咲良ちゃん、さっきはごめん。ちょっと悪ふざけが――」
よく見ると肩が少し震えていた。
「……ごめん」
「なんであんたがここに来たのよ」
「咲良ちゃんってよく誰もいない教室に行くから」
「よく見てるのね、私を」
「まあ、真雪のそばにいればそれくらい分かるよ」
「じゃあ、最近の真雪がいつもの真雪じゃないことくらい、あなたも気付いているんでしょうね」
咲良ちゃんは言った。
「――気付いてたの?」
「気付くわよ、それくらい。私も、あなたほどじゃないにしろ、真雪のそばにいるんだから」
咲良ちゃんは雨の降り続く窓の外を眺めて、呟いた。
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