第4話 ありし日の記憶~僕らのはじまり~

 僕と真雪は最初から仲がよかったわけではない。初めて会ったのは小学校のときだったが、当時はほとんど話さないような同じ教室で授業を受ける人でしかなかった。

 当時の真雪は、今とそんなに変わらない。とにかく真っ直ぐでスポーツ少年。野球、サッカー、水泳……小学生の男子がやるようなスポーツは一通りやっていた。もちろん足は速くて、男子の中でも二本指に入る運動神経を持っていた。

 ちなみに僕はというと、ずっと教室の隅で本を読んでいるような暗い子だった。眼鏡もしていたから、随分と暗いやつに見えていただろう。実際、人と話すのは苦手で、友達と呼べる人もいなかった。

 小学校六年生のとき、僕は真雪と同じクラスになった。もちろん、彼から話しかけてきたり、また僕が話しかけたりはしない。ただのクラスメイトだった。卒業まできっと何もなく終わるのだろうと無意識のうちに思っていた。

 だが、卒業も近づく二月の頭だった。中学受験で休む人が多かったある日のこと、教室に入ると僕の席で真雪が座って待っていた。

「え、えっと……そこ、僕の……」

「お前、さくらおか中学行くんだろ!」

 キラキラした目で言った。

「そ、そうだけど……」

「マジか、仲間じゃん! このクラス、受験組が多いだろ。みんな私立行っちゃうから。でもよかった! 同じクラスに仲間がいて」

 真雪は馴れ馴れしく肩を触ってきた。極度の人見知りだった僕は話すことさえできなかったのに、触られることなんて虫唾が走るほど嫌だった。しかし、いやだ、とさえ言えずに僕は固まっているしかなかった。

「俺、中学は行ったらサッカーやるんだ。俺、サッカー好きだし。絶対楽しいと思うんだよ」

「そ、そっか……」

「だから、お前も入れよ。同じクラスになれるか分からないけど、同じスポーツやれば絶対会えるだろ! だから、な! やろうぜ!」

 断るつもりだった。スポーツなんて柄じゃない。中学に入ってもあまり変わらない生活を送るつもりだ。目立たず、ひっそりと過ごしていくつもりだった――のに。

「う、う……」

 断る言葉さえ出てこない。

「よっしゃ、決まりだな。中学入ったらサッカー部見に行こうぜ。一緒にな」

 真雪が強引に決定してしまい、この不本意な約束は数か月後に果たされることになる。


 数か月後、僕はサッカー部に入部した。真雪に誘われたから、ではない。もちろん誘われたが、それが直接の理由ではない。単純に楽しそうだったからだ。今まで一人で遊ぶことが多かった僕は、みんなでグラウンドを駆け回る姿に心を惹かれた。

 今までスポーツの経験がなかったので、練習は人よりずっと大変だった。ハードだし多いし、先輩は怖いし、見学したのが嘘のようだったけれど、同輩たちに支えられながら楽しい毎日を過ごせた。

 しかし、そんな毎日が長く続くことはなかった。

 あれは土曜日の練習だった。試合が近づいていた時期だったから、近くの中学と練習試合をすることになって、いつもとは違うグラウンドで練習をしていた。場所が違うだけでやることはいつもと変わらない。準備体操から始まって、ランニング、フットワーク、パス……一連の練習を終えると、練習試合が始まった。

 実はこのときが初めての出場だった。さきも言ったが、僕はスポーツ経験がなく、運動神経もいい方とは言えない。真雪や他の新入生は少しずつ試合に出させてもらっていたのに、僕はずっとベンチで応援だった。だが、なぜ今回試合に出ているかというと、それはこの練習試合が新入生強化のために設けられたものだったからだ。今年の新入生は全員で七人、全員出ても四人も足りない。二十人もいたら出られないだろうが、運よく出られたというわけだ。

 僕はとにかくボールを追いかけた。走るのは別に苦手じゃない。ボールだけを見てとにかく取る隙を窺った。

「こっち! こっちパス!」

 たくさんの声が入り乱れる。その中でチームメイトだけの声を拾い、場所を考えた。

 今は少し劣勢だ。自分のゴールが近い。どこかでカットしないと、逆転できない!

「へい、パス!」

 敵の声が僕の後方から前方に流れた。

 こっちに来る! 今しかない!

 僕は頑張って一歩を踏み出した。このまま行けばちゃんとボールを阻止できる!――と自信を持ったそのときだった。

 一瞬にして景色が変わった。緑色のグラウンドがあったはずなのに、目の前が真っ暗になって、気付くと青い空が視界を埋めていた。響く笛の音、こちらに寄ってくるざわめき、じんじんと痛くなる左脚――

「南雲、大丈夫か?」

 チームメイトの一人だった先輩が声をかけてくれた。汗を拭きながら、僕を覗いた。

「は、はい……」

 少し声が震えた。左脚が鉛のように重くて、痛みが全身を駆け巡っていたのだ。

 少し遅れて先生とコーチが来て、先生が左脚を少し触った。

「……これはまずいな。早く、救急車だ、救急車を呼べ!」

 先生の命令で誰かが携帯電話を操作した。

 しばらくして、僕は人生ではじめて救急車に乗った。


 運ばれた病院で、僕は人生で初めて入院した。怪我の名前は靭帯じんたい損傷。しかもとてもひどいものらしかったので、手術をする必要があった。そのために入院する必要があったのだ。サッカー部はもちろん、学校まで休まなければいけなかった。

 入院の日々はひどく退屈だった。来るのは母さんや父さんだけで、たまに先生も来たりしたが、基本的にベッドの上で過ごす毎日だった。手術してからはリハビリも行ったが、やはり新鮮味のない日々だった。

 八月に入ってしばらく、約三週間の入院期間が終わった。帰ってからもやることがなくて、退屈の日々だった。簡単に外に出ることはできないし、家にいても自由に動けるわけではない。基本的に座っていたり横になっているだけなので、体力も落ちる。リハビリもしているが、それだけでは体力の維持は難しい。少しづれた話になったが、とにかく少しも変わらない生活だった。

 ところが、あれは八月の、母さんが仕事でいなくて、一人で留守番をしていたときのことだった。ある程度、一人での行動もできるようになっていた時期だったが、まだまだ不自由なことも多かった。そんな中、頑張って母親の用意した昼食を準備しようとしていたときだった、玄関のチャイムが鳴ったのは。チャイムが鳴ってもそれに応えるまでに時間がかかるから、大きな声で、はい、と返事をした。松葉杖を持ち、それを器用に用いて玄関まで行く。扉は手が空いていないといけないので、近くに松葉杖を置いて、扉のノブに――

「よっ、南雲!」

 こっちが開ける前に扉が開いた。すると現れたのは、運動着を着た真雪だった。

「か、河北くん」

 当時は互いに苗字呼びをしていた。部活くらいしか接点がなかったからである。

「どうしたの? なんか連絡があるの?」

「いや、お見舞い。ほら、お花持って来てやったぞ」

 真雪は柄にもなく小さな花束を持っていた。

「僕のために……」

「おう。最近、顔見なかったからな。今、お母さんとかいるか?」

「いや、仕事でいないよ」

「そっか」

 そう言うと、真雪は勝手に上がり込んできて、適当に腰を落ち着けた。

「いろいろ大変だろ。何か手伝ってやる」

「え?」

「だから、足が使えねえっていろいろ不便だろ。俺、時間あるし。何でもやってやるぜ」

 屈託のない笑顔だった。

「いいの?」

「おう! だって俺たち、友達だろ!」

「ありがとう」

「いいってことよ! で、何をすればいいんだ?」

「今からお昼ご飯のつもりだったんだ。冷蔵庫に母さんが作ってくれた料理があるんだ。花柄のお皿だ。それをレンジで温めてほしい」

「よし、すぐにやるからな」

 真雪は立ち上がると、すぐに冷蔵庫を開けて言ったとおりのものを出した。そして、それをレンジの中に入れた。本当に言ったことをやってくれるらしい。しかし、レンジに入れたあと、なぜかその場で動かなかった。

「……河北くん? どうしたの?」

「いや、レンジが動かないんだよ。ちゃんと皿入れたのにな」

 真雪はレンジをよくよく覗いていた。入れただけじゃ動かないよ、と心の中で突っ込みつつ、動かない足で台所に歩いた。

「こっち来なくていいって。座って待ってろよ」

「君に任せてたら、いつまで経ってもご飯が食べられないよ」

 真雪を押しのけてレンジのボタンを押した。

「レンジはボタン押さないと動かないんだよ。そんなことも知らないの?」

「料理とかしねえんだよ」

「しなくても常識だよ――向こうで待ってるから」

「おう」

 真雪はレンジの中をじっと見て、僕に返事した。


 こんなことがあってから、真雪は毎日うちに来るようになった。母さんがいてもいなくても毎日欠かさずやってきて、僕のために働いてくれた。お茶がほしいと言えば取ってきてくれたし、トイレに行きたいと言えば連れて行ってくれた。

 そして夏休み明け、僕の足は日常生活には支障がない程度に治ってきた頃だった。朝、いつもの十字路に行くと、珍しく真雪が先にいた。

「河北くん、おはよう。今日は早いんだね」

「ちょっと言いたいことがあってな」

「言いたいこと?」

 もったいぶる言い方をする真雪だったが、その顔は満面の笑顔で、きっとまたバカなことでも言うのだろうと思った。

「俺たち、下の名前で呼び合おうぜ」

 真雪が言ったのはそんなことだった。やっぱりいつものような言葉だったが、同時にとても嬉しかった。単純に友達ができたみたいで、嬉しかった。


 そんな記憶もきっと消えているだろうか。サッカーは、僕らにとって欠かせない要素であり、今の彼を作るものだというのに――

 大切なものだけ残るなんて、そんな都合のいいことは起こらない。

 あれから年齢と経験を重ねた僕は、それを知ってしまっていた。

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