第3話 失われる記憶

 朝が来た。今日も真雪と待ち合わせて一緒に学校に行った。他愛のない会話をし、校門を抜け、教室に入る。二日目だからか、昨日ほど囲まれたりはしなかった。

 八時十分。僕らは席についた。クラスの半分以上がもう来ていて、いろんな会話が聞こえてくる。

 が、僕はやっぱり真雪のことが気になって仕方ない。毎日記憶がなくなると聞いて、初めて迎えた朝だ。今日も何かを忘れているはずだ。

 こういうのは本人と話してみるのが一番なのだろうが、僕にその勇気はない。何を忘れていようとも、だんだん記憶が消えていく姿を見るのは辛い。僕はただ、彼をじっと見つめることしかできなかった。

 そんなことをしていると、教室の後ろの扉から女の子が入ってきた。とても険しい顔をしてこっちに来た。

「真雪!」

 女の子はこっちまで来るやいなや座っている真雪に抱きついた。僕の席からだとよく見えないが、どうやら彼女は泣いているらしい。

「おいおい、どうしたんだよ。みっともねえぞ」

「なんで昨日来てくれなかったのよ! 心配してたんだからね、バカ!」

 彼女は肩を震わせながら、叫んだ。

 まあ、そうなるのも無理はない。彼女は真雪の恋人、宮内みやうち咲良ちゃんなのだから。

「メールも電話も寄越さないで、心配かけるにもほどがあるわよ」

「悪かったって。ちょっと忙しかったんだよ。ほら、泣くなよ、咲良。今度の週末、買い物とか付き合ってやるからよ」

 頑張って慰めているが、泣き止まない。

「真雪、これは君が悪いよ。彼女なんだからちょっとくらい連絡あげてもよかっただろう」

「だから、悪かったって言ってるじゃねえかよ。お前も買い物付き合ってほしいのか? 俺は嫌だぞ。咲良だから行くんだよ!」

「そんなこと言ってないだろうが!」

「もう、パフェ三つ奢ってくれなきゃ許さないんだからね!」

 ようやく泣き止んだようだ。顔を見ると目が真っ赤だった。

「分かってるって」

 さっきまでモヤモヤしていた僕だったが、彼女が来て、少し安心した――咲良ちゃんは覚えている。相変わらず仲が良いし、普段通りだ。

 こうして、少々騒がしいいつもの朝は過ぎて行った。


 今日も、何事もなく学校生活の一日が過ぎた。帰りのホームルームが終わり、帰り支度を済ませ、真雪と一緒に教室を出た。

 結局、真雪が何の記憶を失ったのか、分からずじまいだ。失った記憶について知りたいが、知ってしまいたくない気持ちもある。だから、会話するのが怖い。知らなくていいことを知ってしまいそうでとても怖い。

「……と、みなと、湊!」

 そんな真雪の声で我に返った。

「あ、ごめん。なんだっけ」

「咲良に迷惑かけたお詫びをしたいから、プレゼント選びに付き合えって話だよ」

「ああ、そう」

「なんだよ、その反応。冷めてるな。で、どう思う? 何がいいかな」

「具体的にどんなのがいいの?」

「女子受けがよくて、実用的なやつ」

「じゃあ雑貨屋さんに行こう。この前、駅前のデパートに新しいお店がオープンしたんだよ」

「お前、女子かよ」

 そんなどうでもいいような会話をしていた、そのときだった。僕でも真雪でもない声で、僕らは足を止めた。

「河北先輩、こんにちは」

 その声に振り向いてみると、スポーツウェアに身を包んだ男の子だった。顔には見覚えがある。真雪の部活の後輩だ。僕は何度かしか面識はないが、名前は知っている。確か、二つ下の城戸くんだ。

南雲なぐも先輩もこんにちは」

「こんにちは、城戸くん」

 南雲というのは、僕の苗字だ。

 城戸くんは僕にも挨拶をすると、真雪の方を見た。

「真雪に何か用なの?」

「はい。河北先輩、今度の日曜日、部活のみんなでご飯に行きませんか? 復帰祝いをしようって話になっているんです」

「俺の復帰祝い? お前が?」

「ええ、コーチも呼んでみんなで。どうでしょうか?」

「嬉しいっちゃ嬉しいけど、お前に祝われてもな……」

 どうも煮え切らない答えだ。僕は、どうしたの、とこっそり聞いた。すると、真雪は城戸くんを指差した。

「俺、こいつと面識ないんだよな」

 特に変わったことを言うでもなく、そう言った。

「冗談やめて下さいよ、先輩。確かに先月は骨折して休みましたけど、面識ないなんてひどいじゃないですか。まさか、事故でおかしくなっちゃったんですか?」

 城戸くんは冗談半分で真雪のことをからかっているつもりなのだろうが、少し敏感になりすぎていた僕には笑えないジョークだった。

「まあ、冗談言えるくらいに元気になってよかったです。今日はもう部活の時間なんで、都合のいい日、メールで教えて下さいね。セッティングしますから」

 じゃあ僕はこれで、と城戸くんは軽い足音を立てながら去って行った。

「さて、さっきお前が言ってた雑貨屋に連れてってくれよ。早くしないと遅くなっちまうぜ」

 真雪は何もなかったように歩き出した。

 いや、実際彼にとってはなんでもないのだ。記憶がなくなったことさえ分からないのだから、こんな会話は日常の一コマに過ぎない。

 これが非日常であるということは、きっとこんな風に徐々に表れていく。やっぱり本人に言った方が――

「そうだね」

 一瞬、悩んだ挙句、僕は答えを出せずにそう言った。

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