第2話 学校復帰の日
真雪は頭を強く打って気絶していただけで命に別条はなく、傷も右足を軽く打撲しただけで済んだ。不幸中の幸い、どころかとてもラッキーだった。治療を担当した医者も、しばらく安静にすればすぐに学校に行ける、と言っていた。
目が覚めた真雪はあとからやってきた姉に連れられて、結果あまり
一週間後、真雪は自宅療養をしたのちに学校に復帰した。電話でもう大丈夫なのか、と聞いたが、打撲も学校生活に支障がないくらいに回復した、事故のショックも特にないし、大丈夫だ、と言われた。
そういうわけで、僕は一週間ぶりに真雪と待ち合わせた。時間は七時五十分。場所は七日前、僕らが別れた十字路。きっと少し遅刻するだろうな、と思いながら腕時計を眺めて待っていた。
「おう、湊。待たせたな」
約束より五分遅れて、真雪が走ってきた。事故前となんら変わらない光景に、僕は胸を撫で下ろした。よく見ると、右足の包帯は取れている。本当に治ったようだ。
「おはよう、真雪」
「よし、行こうぜ」
一週間ぶりだからと言って、特別なことはしない。僕にとっても真雪にとっても、何も変わらない朝なのだから。
約十五分の道のりを普通のスピードで歩いて、学校まで着いた。校門には先生が立っていた。担任の森山先生だ。通る生徒に挨拶をしている。若いおっとりした女の先生なので、とても穏やかな雰囲気が漂っていた。僕らも先生に挨拶をした。すると先生は目を細くして、おはよう、と返すと、真雪だけに話しかけた。
「河北くん、久しぶりだね。ちょっと悪いんだけど、ホームルーム終わったら職員室に来てほしいんだ。お休みしていた分のプリントを渡したいんだよ」
「ありがとうございます。行きます」
「うん、じゃあまたあとでね」
先生に見送られて、僕らは校門を通過した。
さて、靴箱で上履きに履き替えて、校内を歩く。僕らの教室は階段を二階まで上がって一番右のところにある。その間、真雪はとてもたくさんの人に声を掛けられた。学年に関わらず、先生にまで、事故は大丈夫だったのか、と言われた。仕方ない、真雪は部をインターハイまで連れて行ったスーパースターだ。顔と名前が全校に知れ渡っている。真雪は話しかけてきた全ての人にちゃんと対応し、五分もかからずに着く教室まで倍の時間をかけてようやく扉をくぐった。
教室に入っても、スーパースター河北真雪に人が集まった。聞くことはみんな同じようなことだが、やはりここでもちゃんと受け答えしてホームルームが始まるぎりぎりに着席することになった。僕らの席は窓際の一番後ろで、僕の右隣に真雪がいる。
「まさか囲まれると思わなかった。久しぶりの登校って結構大変だな」
「まあ、真雪は有名人だからね」
「あとで部の人たちに挨拶しに行かねえと」
「ホームルーム終わったら職員室に行くんでしょ。先生に呼ばれてたじゃん」
「あれ、そうだっけ。知らない先生だから忘れてたぜ」
「もう、しっかりしてよ。復帰初日でこれじゃああとが心配……」
ん、となった。言葉を出した後で、よくよく真雪の言葉を
聞き間違い、なのだろうか。
「真雪、今、なんて言った?」
「え、『忘れてた』」
「違う、その前」
「『知らない先生だから』?」
――聞き間違いではなかった。
担任の森山先生を『知らない先生』と言ったのだ。
しかし、そのことを尋ねる前に森山先生が教室に入ってきた。隣を見ると、特に何の変わった様子もなく、ただ教壇に立つ先生を見ていた。
ホームルームは五分ほどで終わり、真雪はさっきのことがなかったかのように森山先生と教室を出た。一応、ついて行こうか、と言ったけれど断られた。
僕は二人が出て行ってすぐに、携帯電話であるところへ電話を掛けた。真雪の二つ上の姉、
「もしもし、湊です。こんな朝早くにすみません。今、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。どうしたの? あ、真雪が初日になんかやらかした?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど」
僕はホームルームの直前にあったことを話した。すると、美冬さんは、うん、そっか、とだけ言った。
「……真雪、本当に元通りなんでしょうか。なんか変、っていうか……ふざけてるとは思えなくて」
「そうねえ。おふざけではないね」
「じゃあやっぱり、何かあったんですか?」
美冬さんは、ううん、と何とも曖昧な声を出して、しばらく黙った。そして、実はね、と重々しい感じで一言ずつゆっくり言葉を発した。
「実はね、真雪、記憶障害があるらしいの」
「記憶障害?」
「そう。事故で頭を打ったせいで真雪の記憶がおかしくなっちゃったみたいなの」
「おかしくなったって……」
「具体的に言うと、なくなってる……の。毎日少しずつ記憶がなくなってるみたいなの。学校をお休みしてた一週間で、私のことも、学校も、お友達も、いろいろなことを着実に忘れてる」
美冬さんのことも……。なんだか実感の湧かない話だが、実際担任の先生のことを知らなかった。きっと本当に記憶が消えているのだろう。
「お医者さんはね、事故で記憶に一時的な障害が起こるのは珍しくないんだって言ってた。そういうときは大体すぐに治るものなんだって。でも、確実に治るとは言い切れないとも言っていた。お薬なんてないから、放っておくしかできないんだけど……」
「本人には?」
「言えるわけないじゃない。忘れてることを言ったって、意味がないもの。でも、とりあえずお母さんとお父さんと私は知ってる」
「そう、ですよね」
まあ、そうだよな、と聞いてから思った。一緒に登校した雰囲気だといつもと変わらない感じだったから、本人は気付いていないのだろう。それに、君の記憶は少しずつ失われる、なんて言ったら、真雪はショックを受けるかもしれない。美冬さんたちがした選択はきっと正しい。
「ねえ、湊くん。真雪のこと、頼むね」
「え?」
「記憶がないと、多分不便だから。何も言わずにサポートしてあげて」
「はい、もちろん」
「ありがとう」
じゃあ、私は大学に行くから、と美冬さんは電話を切った。
ちょうど携帯電話をしまった頃に、プリントの束を抱えた真雪が教室に戻ってきた。
「先週、どんだけテストだったんだよ。四枚もあるぜ。全部解いて今週中に提出しろってさ」
真雪は面倒くせえなあ、と顔で言いながら席に座った。
僕はさっき言われたことをうっかり言わないように、にこっと笑ってみた。すると、笑ってんじゃねえよ、と言われただけだった。
何事もなく一日が過ぎた。一時間目から四時間目の授業を受け、昼食を食べ、五、六時間目の授業を受け、下校した。下校前に真雪は部室によって部員たちに挨拶をした。僕は外で待っていたのだが、部活はとりあえず一週間休ませてもらえることになったらしい。一週間の穴は結構大きいが、事故に遭ってすぐに部活に復帰するのは幾分ストレスになるだろう、とのことらしい。僕としては納得する反面、早く復帰した方がよいのではないか、という気持ちもあった。
――『毎日少しずつ記憶がなくなってるみたいなの』。
部活も忘れないうちに行ってほしい。忘れてしまったら、名誉も全部なくなってしまうから。
僕らはとりあえず普通に帰った。何でもないような話をして、十五分の道を歩き、十字路で別れた。その中で、事故のことは覚えているか、と聞いた。すると、
「何が何だか分からなかったけど、とりあえず痛くて、気付いたら病院で寝てた」
と返答された。気絶していたから、この答えで正解だろう。
僕は家に帰ってから、一人で考えていた。
もし、この記憶障害が治らないなら、彼は全部を――自分自身の存在さえも――忘れてしまうのではないか、と。
それはない、と頭を振る。これは事故のせいで発生した一時的な障害だ。いつかきっと治る。それまでゆっくり待てばいい。
僕は自分に言い聞かせるように、布団を頭からかぶった。
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