第21話
アーケードからそれた小さな路地にオレンジ色の子象の置き物を発見、薬局だ。子象は雨にさらされたり、年月が経ったせいか塗装が剥げてみすぼらしかった。それでもクリッとした瞳で遠くを見つめ、笑っていた。満面の作り笑顔……には共感できないが、こいつはスクラップになるまでずっと笑顔のままなんだと思うと哀れに思い、抱きしめてやりたくなった。照れ隠しに頭を軽くしばいてやると子象はコミカルに揺れた。うっかり右手を使ってしまったので、またナツミに怒られた。
薬局に入るとナツミは包帯と消毒薬を手にとった。
「湿布薬を探して!」
彼女は険しい顔をしていた。バツが悪い、この場の雰囲気をやわらげよう。
「湿布エレキバン」
オレはピップエレキバンをかかげながら堂々と言った。
「おもろないわ!」
またナツミに怒られた。
彼女は包帯、消毒薬、湿布を買うと、店のおばさんにハサミとテープを借り、その場ですぐに処置してくれた。その手際のよさに少し感動した。
「もうあんな無茶したらダメだよ」
ナツミはオレの右手を軽く叩いた。
鴨川の夜風で頭を冷やそうよ。
ほとんど会話もしないでオレたちは歩いた。手をつないで。正確には包帯から出た指の第一関節を、彼女はつまむように握っていた。ケンカの後だというのにオレは図々しくも勃起していた。だけどなぜか心は穏やかだった。河原もとても静かだった。
ナツミに膝枕をしてもらう。地面の石がゴツゴツとして背中が痛かった。
「ねぇ……コントはもうやらないの?」とナツミ。
「うん、やらない」
「他になにかやりたいこととかはないの?」
「君と寝たい」
もう少し彼女に意地悪を言ってみたかったのだ。
「あぁ、右手が痛い」とオレ。
「私が殴られればよかったんだ。あなたが傷つくことはなかったのに」
「今日はオナニーできひんわ。なぁ、お願いやからオレの右手のかわりにしごいてやってよ」
「え? 私が? う〜ん、困ったなぁ……」
ナツミは笑った。薬局で見た象の置き物のような笑いかただった。
「前に泌尿器科にいたって言ってたやん。てことは触るのくらい慣れてるやろ? だからさ、別にオレの触ってもええやん」
「あれは仕事でしょう」
「それでも悔しいねん、恋人でもないのに触られたことのある奴がいるっていう事実がさぁ。だからさ、しびんに入れる時の要領で、たのむ!」
オレはナツミの膝から身を起こした。Tシャツの上のアロハシャツを脱ぎ、自分の股の上にかぶせる、そしてナツミの手首をつかんだ。最初は少し抵抗していたが、やがて彼女の手はオレの股間に行き着いた。
ナツミは顔を反対側に向けている。彼女のうなじがよく見えた。なんとかジッパーを探し当てた彼女の指が入ってきた。ガチガチに勃起して堅くなってたので、社会の窓から出すのに彼女は苦労していた。そしてペニスを握るとゆっくりと動かしてくれた。オレの位置からは顔の表情はよめない。たぶん無表情なんだ……そんな気がする。
三十秒ほどでナツミの指は動きを止めた。
そして彼女は自分の手をゆっくりと元に戻した。オレのペニスは全然満足していない。
無言。遠くでロケット花火の音が聞こえた。そしてまた無言。
「気にせんでええよ」
別にナツミがオレの射精に協力する義務などどこにもない。
「うん」
オレにうなじを見せながら彼女は小さく頷いた。
嵐の前の静けさ。ではなく嵐の後の静けさ。二人の心の中は静かだった。ナツミはなにを考えていたかわからないが、少なくともオレはなにも考えていなかった。そう、なんにも。具体的に説明できる感情なんてなにもなかった。幸せとはこんな時間のことをいうのかもしれない。奇跡的な時間だった。
平らな石を拾い、右手に握ってみた。やっぱり痛みが走ったので、それを左手に持ち替えた。ジャンプしろ! 石を水平に投げた。上手くいかない。石は一度も跳ねずに、コポンと地味な音をたて、暗い川底に吸い込まれていった。
静かだ、実に静かだ。
ナツミが突如、踝を叩いた。彼女の手には血まみれの蚊があった。
「薬局で虫除け買えばよかったなぁ」
「うん、オレも刺されてるみたい」
「ストップ! そのままそのまま」
ナツミはオレのオデコをチョップした。
蚊。気づけば腕やら足やらあちこちがかゆい。
「帰ろか?」とオレ。
「帰ろう」とナツミ。
彼女はバッグを肩にかけ、立ち上がった。
オレはアロハシャツを羽織りながら立ち上がった。
そして、丸裸のペニスに気づき、慌ててしまいこんだ。
その後の日は特にこれといってなにもなかった。ナツミも仕事が忙しいらしいし、会うことはなかった。電話もかけなかった。オレは地元の友人たちとだらだらレンタルビデオショップを冷やかしに行ったり、酒の肴にふれワードで知り合った女の子の話をしたりした。ナツミのことは話そうか話すまいか迷ったが、結局やめておいた。
月曜日から仕事だったので、日曜の夕方に京都を発った。下りの時は座れたのに、上りの新幹線はとても座れなかった。バッグを椅子にして窓の外を見た。疲れはてた自分の顔が映っている。とても映像的にかっこいいものではなかった。オレはもう一人の自分に心の中で語りかけた。映画なら画面下に字幕が出るイメージで。
なぁ……ユウジ。もうナツミのことは忘れろよ。彼女のことを忘れるために、いや、忘れないでも一人で生きていけるための思い出が欲しくて性行為を求めたけど無理だった。せめてハッキリとした別れが欲しい? 彼女から『サヨナラ』なんて言えるものか、八方美人なんだぞ。オレの口からもそれは言えない、辛い決断は下すよりも下されたほうが楽だ。しまらない。なんともしまらない。オレたちはこういうキッカケで別れました……そういうキャッチコピーが欲しい。オチのない恋、出口のない恋。それでいいのか? 胸を張れるのか? そうだ。フェードアウトだ、それしかない。ステレオ全体の音が小さくなっていき、しまいには途切れてしまう曲の終わりかた、夢の中へ堕ちていくあの感覚。ラブソングのバラードにはフェードアウトはお似合いだ。もうナツミにはけして依存しない。彼女は遠い存在……文字どおり、新幹線で二時間四十五分の遠い存在なんだ。この新幹線が東京に着くころには彼女のことを忘れていますように……どうでもよくなってますように……そんな願いを込め、オレは祈った。冗談で両手をあわせてみると、右手がまだ痛かった。
ようやく自分のマンションにつき、ドアをあける。
真っ暗だ。当たり前だ。急いで電気をつけた。なんだか自分の部屋じゃないみたいだった。この部屋はナツミとの要素は全くない。接点はない。東京での暮らしにはナツミの存在はほとんど影響がない。京都のオレ、東京のオレ。二つのオレはまるで、同じ漫画家が描いた別々の漫画みたいだと思った。
疲れたのでシャワーを浴びた。オレは決心した。京都でかいた汗は洗い流す! 明日からは東京のオレにもどる。くよくよすんな。手に入らないものもあるんだ。かわりにもっといいものを手に入れろよ、なぁ。
体を拭きながら、布団の上に置いた携帯電話に目をやる。メールが入っている。ナツミからだ。
『このあいだはありがとう。いろいろあったけど楽しかったよ。そろそろ家に着いたころかな? 私は今、レポートに追われながらメールを打ってます。ちゃんと食べなきゃダメだよ。余計なお世話だね。悪い女につかまっちゃダメだよ。私が言えることじゃないよね。いつでもどこでもあなたらしく生きてね、私は時々くたびれてしまってます。笑ったり、泣いたり、怒ったり、悲しんだりするあなたを想像すると、私は涙が出そうになります。ひんやり冷たい涙じゃなくて暖かい涙です。おたがい素晴らしい人生を生きようね、やりたいことをちゃんと見つけてね、あなたらしく……。じゃ、お体気をつけて』
なにが京都のオレだ? 東京のオレだ? 彼女にとってはオレはオレなんだ。
でも『あなたらしく』の意味はいくら考えてもわからなかった。
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