第20話
居酒屋を出て新京極通を歩く。アーケードの中は九時だというのにほとんどの店がシャッターを下ろしている。古着屋や修学旅行生相手の土産屋が多いからだ。昼間は賑やかだけど夜になると人の数もまばらになってくる。
オレは彼女に手を繋ごうと言った。彼女は少し困った顔をしてからオレの腕に軽く腕をまわした。
今日を逃せば、彼女と性行為する機会はそうそう巡ってこない。簡単にはあきらめてはダメだ。今日は真剣にぶちあたれ!
いわばナツミはラスボスなのだ。魔王よりランクが上の大魔王といっても過言ではない。出会ったその日にヤらせてくれる女の子とはわけが違う。一年以上も交際していたというのに、その間にキスすらさせてくれなかった女だ! そのことがまた彼女を神格化させ、オレの中で忘れられない存在にしていた。
「にしてもナースって大変そうやなぁ、明日も仕事?」
「うぅん、今日が夜勤明けだったでしょ、明日は休み」
よし! ラブホテルに宿泊……なんてこともあるかもしれないぞ!
そもそもナツミはもう24才なのだ。そろそろ性行為をおぼえるべきだ。頑なに拒むのはおかしい。だから一年前より経験を積んでレベルアップしたオレが彼女に性行為の素晴らしさを教えてやる!
『ここで給食のトマトを残していたら、この子は一生食べれないかもしれない。だからここは心を鬼にして放課後に居残りをさせてでもトマトを食べるまでは家に帰してはならない!』そんな小学校の先生のような使命感、義務感に近いものがオレにはあった。オレがやらなくて誰がやる?
作戦を考えよう。おそらく、ふれワードの女の子たちのようにムードでもっていくのは無理だろう。ナツミは警戒心の塊のような存在だ。というより、ふれワードガールズたちがおかしいのだ。電話で数十分話しただけの男とすぐに会う……警戒心など限りなくゼロに近いじゃないか。その子たちと性行為したからといって、それはお前がモテるわけでもなんでもない、毛穴からフェロモンを垂れ流しているわけでもない。そのことはきちんと認識しておけ。ナツミは繊細な女の子、しかも処女なのだ。
敵を知り、己を知れば百戦あやうからず。
まずは情報収集だ。ナツミは今、オレのことをどう思っているのか? 関係をウヤムヤにしたままオレは東京に出てしまったんだ。
オレへの感情、それをどう聞けばいいのだろう?
「あのさぁ、オレのことどう思っている?」
「どう思っているって?」
ナツミはきょとんとした表情をした。オレの質問の真意をわかってるくせに、一呼吸おくために聞き返したんだ……ずるい。
「オレのこと好きかぁ?」
単刀直入。二人の間では隠し事はなし、その約束がオレを極度の駆け引き下手にしていた。彼女は少し黙った。たぶん、オレを怒らせないであろうべストの答えを考えているところだ。彼女はオレの腕をぎゅっと掴んでこう言った。
「うん、大切なお友達だと思っている」
この答えもお約束だ。今までに何度も聞いた返答だ。普通に考えればわかるはずだ、オレの質問の『好き』はlikeではなくloveだということくらい。
友達以上恋人未満? 気持ちの悪い言葉だ、中学生じゃあるまいし……お互いになんらかの好意があればウダウダ考えずにヤッちまえばいいんだよ! オレたちは人間である前に動物なんだ!
ダメだよ、ユウジ君! 彼女の言動にいちいち感情的になるなよ、今日しかチャンスはないんだ。
「友達……ですかあ。友達、ねぇ。はぁん……ふぅ〜ん、へぇ〜、ほぉ〜」
明らかに不満気な顔を作り、彼女を困らせるオレ。
「でも好きは好きなんだ?」
オレは小声で言う。彼女はわずかに聞き取れる程度の声でうんと言った。もはやオレの腕をつかんでいるというより、軽く手をそえている程度になっていた。少し速歩きをすれば彼女をふりきることができそうだった。
高校生くらいのカップルとすれ違った。ほとばしる性欲を『恋』という二文字に置き換え人目もはばからず今この瞬間生きている命を燃やせとばかりにイチャイチャとしていた。バカだこいつら、バカ! そう思いながらも内心は羨ましかった。オレたちのカップルもはたからはセックスしてるように見えるのだろう、あぁ悔しい。
オレは急に立ち止まった。ナツミは鼻っ柱をオレの腕にぶつけた。
「オレはナツミのことが好きや。いい友達なんて思ってない。それ以上の仲になりたい。こんな言葉、恥ずかしくて使いたくないよ。でも他に適切な言葉が出てこおへん。だから言うよ。愛してる。この世の中で呼吸してるすべての生き物の中で一番大切な存在や」
振り返ると彼女は少しうつむいていたので表情は読み取れなかった。ペコリと御辞儀した照明灯にさらされて、石畳の上に巨大な影法師が二つ伸びていた。
「涙が出るくらい嬉しい……」
オレは人指し指で彼女の目の下をゆっくりとなぞった。
「出てないやん、涙」そして意地悪に笑う。
「ユウちゃんのおかげで涙君はさようなら」とナツミも笑う。
こっ恥ずかしいセリフのやり取りをしている……そういう自分とナツミを気持ち悪いと思うと同時に酔っていた。酒に? 二人が造り出す雰囲気にだ。
今のこのムードの中、誠心誠意お願いしてみよう。
君の中にペニス入れさせてくれへん?
簡潔に言い表すとこうだ。だが世の中は社会の発展とともに複雑化している。簡単な言葉をわざわざ難しい言葉に再構築するのも時には必要だ。
「ずっと一人で淋しかったんや。だから今夜は一緒に寝よう。同じ布団の中で二人とも裸になってさ……頬をくっつけたりして寝ようよ。冷房をガンガンに効かせた涼しい部屋の中で暖めあおう。呼吸のリズムをあわせよう。二人で絡まって眠ったら怖い夢も見いひんよ。夜中にふと目が覚めて、水道をひねり水を飲むときにも孤独を感じひんよ。一緒に寝よう。君のぬくもりがあればまた東京で一人で生きていける。だから肌を重ねあおう!」
オレはかすれた声でささやいた。ナツミの少女漫画的趣味にあわせて、ネバネバグチョグチョベトベトズコバコな性行為の本質ともいえるグロテスクな部分を見事に隠蔽したセックスのPRだ。今月中にあと一件契約をとらなければクビになる営業マンの気分だった。必死だった。とにかく彼女とセックスしたかった。決定的な歴史が欲しかった。
「う〜ん……気持ちはとても嬉しいんだけど……」
ナツミが困ったように笑う。自己を犠牲にして他人のために作る笑顔だ。
やはり無理か。そりゃそうだよなぁ。そして二人は友達以上恋人未満のまま。チャンチャン! それでいいのか? よくない! オレたちは確実に年をとっていく。四年後にもこんなやりとりを繰り返している自分たちを想像すると恐ろしくなる。こんなことを繰り返すくらいなら赤の他人になってしまったほうがマシだ。SF映画で未来からやってきた主人公が時空間が歪んでしまわないよう自分と接触した記憶だけ消して未来に帰っていくように、最初からナツミのことなんてなにも知らなかったほうがまだマシだ。オレたちはそんじょそこらの即席カップルよりも魂で繋がっている。なのに性行為をしていないというのはおかしい、矛盾している。どのカップルもあたりまえにしていることをまだしていない。クラスで一人だけ自転車に乗れない気分だ。次にいつ会えるかわからない。もしかしたら一生会えないかもしれない、今日だけは簡単に引き下がれない。
「心配しなくてもちゃんとコンドームは持ってきている。そこんとこは安心してくれ!」
なんてかっこ悪いセリフをかっこいい口調で言っているんだ、オレは。彼女は黙っている。
「ナツミが怖がるんやったら無理に挿入したりせえへんし! 一緒にくっついて寝てくれるだけでええし!」
………。
「恥ずかしいんやったら、上半身だけ脱いでくれるだけでもええし!」
………。
「それさえ嫌なんやったら、ただ、ただ隣で添い寝をしてくれるだけでいい!」
………。
まるで競りだ。どうしてもナツミを落札したかった。とりあえずホテルに連れ込んで、あとはムードに頼り本番までもっていこう。そうも思っていたし、本当に添い寝だけでもオレは満足するかもしれないとも思っていた。
「ごめん。私はユウちゃんの気持ちには応えられない」
「なんで? オレのことを嫌いなんか?」
「嫌いだったら、忙しいのにわざわざ時間を割いてまで、あなたに会いに来るわけないでしょ!」
ナツミは激昂した。それも標準語のドラマ口調で。ムキになると彼女はこうだ。真剣に怒ってくれた、そのことで嬉しくなりオレは気持ちよくなる。精神的なSMプレイみたいだ。現実感がまるでなかった。
「じゃあ……なんでダメなん?」とオレ。
「好きな人が……他にいるから」
嘘だ。ナツミはオレとセックスするのが怖いために、話をでっちあげてる!
「好きな人って、誰それ?」
「前に言ったことあるよね? 外科医の先生……」
「なにそれ? もう連絡とってないって言ってたやんけ!」
「……悪いとは思ってる。でもね、二まわりも年上の立派な先生がね、泣きながら電話をかけてくるのよ! 彼も人間なの! 落ち込むこともあるの! でも私くらいしか弱音を聞いてあげれる相手がいないの!」
そんな感情的にのろけられても……。感情的になりたいのはオレの方だ。
「ふ……ふぅ〜ん、そうなの。んでさぁ、その先生とはもうヤッたん?」
結局、一番気になるのはそれかよ……最低かオレは。
「やってないわ! 私と先生はそんな無責任な仲じゃない!」
「かわいそうになぁ、たまっとるでぇ先生も。減るもんやないし好きなだけヤラせてあげえやぁ。いい年したオッさんがオナニー奉行ってのもかわいそおやん!」
ニタニタしながらオレは言った。堕ちてやる! とことん下衆な野郎になってやる! そしてナツミに嫌われてやる。
でも彼女はただ悲しそうな顔をしてこう言った。
「だからさ……私みたいにずるくて卑怯な女なんかじゃなくって、ユウちゃんはもっといい人を探して」
そうやってヒロインぶる。
「わかった、君のことはあきらめる。だから最後に思い出が欲しい。一緒に寝よう」
もう惨めさなどとっくに麻痺していた。
「ごめん。つきあってる人に悪いからそれはできない」
つきあってる人?
「それってさっき出てきた先生?」
「……うぅん、それとは別の人」
ハァ?
「なにそれ、頭おかしいんとちゃう? なんでつきあってるの?」
「だって淋しかってんもん」
オレはそばにあった電信柱を思いっきり素手でぶん殴った。ゴッ! と鈍い音が走った。ナツミは心底おびえた顔をし、オレから距離をとった。
「待てへんかったん? オレのこと待てへんかったん?」
彼女との関係を続けるのが怖かったくせに、オレはなにを言ってる?
「あなたには夢があるからいいじゃない! でも私には支えになるものがなにもないのよ」
「夢? もうオレ、コントなんか全くやってないで! それよりさぁ、その馬の骨くんとはセックスしたの?」
「するわけないじゃない! 好きじゃないんだから……」
三人の男がいて、そのいずれともセックスをしていない。これじゃあ真昼のメロドラマとしてさえ成立していない。気持ちの悪い関係だ。
「確かに八方美人やわ、最悪やな!」とオレ。
ナツミは黙っている。
「わかったよ、君のことなんか忘れるよ。そしてヤリたいときに好きなだけヤラせてくれる女の子を恋人にするよ」
「やらせてくれる人……じゃなくて、抱いてあげれる人とかそういう言い方はできないの?」
またそんなことを言っている。
「綺麗な言い方をしてもやることは一緒や! あ〜あ、ほんまナツミ以外の女の子といろいろセックスしといてよかったわ! 律儀に君のことを待ってたらペニス君がかわいそうやもんな……」
オレは人指し指で自分の股間をはじいた。
「私がユウちゃんと同じことをしてたら、あなたはどう思うのよ……」
ナツミの肩が震えてきている。ヤバい、そろそろ泣き出しそうだ。
「今の状態よりそっちのほうがええわ、いろんな男とヤッていようが、オレもセックスできるわけやしな!」
もう止めようがなかった。自分でもなにを言ってるかわからない。彼女は激しく鼻をすすった。そしてオレに背中を向け、ゆっくりと歩き出した。その背中を見てオレは思った。悔しいけどオレはナツミのことを死ぬほど好きなんだ。
オレは彼女を追いかけ、肩をつかんだ。
「いってぇ!」
右手に激痛が走り、オレは声をあげた。さっき電信柱を殴ったのが原因だ。虫歯の痛さをそのまま手にうつしたような痛みだ。灯りの下で確認すると、拳の出っぱった部分がなくなるほどに腫れていた。まるで赤ちゃんみたいな丸い手じゃないか! どうしよ? そんなに強く殴るつもりじゃなかったのに、アホかオレは。
「バカちゃうか、アンタは! ほっといたらよくないで! 薬局探そう!」
ナツミはオレの左手をとって歩き出した。彼女はもう泣き止んでいた。さっきまで泣いていたことも完全に忘れてるみたいだった。
オレは母親に心配ばかりかけるヤンチャな子供のような気分だった。事実、ナツミの前ではずっとそうだった。そしてもう少しのあいだ彼女と一緒にいれることが嬉しかった。
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