第3話 そしてひとつのフェイドアウト
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ラブホテル『ハートのクイーン』302号室。
オレたちは豹柄のソファにならんで座った。
マイはバッグからポッキーを取り出したので、それを一緒に食べた。よし、彼女の表情が少し明るくなってきた。オレは彼女の肩に手をかけ、頭と頭をくっつけた。そしてキスをしようとした。
「やっぱりあなたも私とヤリたいだけなんでしょ?」とマイは顔を背けた。
クッ! この期に及んでどうしたものか……。
「ヤリたいだけだなんて、そんなこと思ってへんよ! なんていうか、こう、君を見ていたら抱きしめてやりたくなってん!」
それを聞いてマイは黙った。
ヤリたい。抱きしめたい。結局はいずれも性行為に繋がるものだ。日本語って面白い。言葉を少しいじるだけで、ずいぶんとニュアンスが変わるものだ。
そしてオレ達はベッドに移動して照明を暗くした。
やっと念願の性行為にまでたどりついたのだ。だが、この時はドラマがまだまだ続くとは思わなかった……。
★
休憩タイムが終わりホテルを出ると、外はほんの少し黄昏れていた。
「よし! じゃあそろそろ帰ろうか?」
などと言うと、まるでオレは彼女とセックスをしたかっただけの男……なんて印象を与えてしまう。まぁ実際にセックスがしたかっただけなのかも知れないが、そう思われるのは嫌だ。
デート、会話、セックス。全てを含めて女の子が好きな人、そう思われていたい。本当は第一の目的はセックスなんだが、それだけだと人間的にあまりにも貧しい……。
さて、ホテルに入る前にアメ横はぶらついた。不忍池も満喫したし、これからどうしたものか?
上野といえば西郷隆盛像。そこに着いてから何をするかも考えもせず、とりあえず西郷さんに会いに行こう。
「どこにむかってるの?」
「あ、うん、まぁ、内緒」
ふたたび、オレたちは不忍池を通っていく。池の水面はオレンジ色に染まり、さっきとは違う表情をしていた。オレンジという色は不思議だ。明るくて優しい色なのに淋しい。いや、たぶん優しいと淋しいというのはどこか似てるんだろう。夕日が陸と池の輪郭をぼやけさせていく。
オレがマイより先を歩いていると、彼女はオレの腕に手をまわしてきた。
う。これってもしかして?
鳥のヒナは、生まれて初めて目に入った動物を母親と認識するらしい。
マイの場合は、最後に性行為をした男を彼氏として認識するタイプなのではなかろうか?
……いや、考えすぎだ。うぬぼれるな、オレよ。安心しろ、彼女は単に機嫌がよくなってるだけだ。断わる理由も困る理由もない、このままにしといてやろうじゃないか。たかだか腕を組むのにたいした理由などないさ、きっと。
大通りに出て、上野方面に歩く。交番を越え、上野駅が見えてくる辺りで左に大きな石の階段が見えてくる。似顔絵を描いて生計を立てている老人たちの横を登っていく。マイの足が遅くなったのでペースを落としてやった。頑張って、もうすぐやで。
「ほら、これが西郷隆盛。実物と同じサイズらしいで」
「絶対嘘だよ! 三メートルはあるでしょ、これ」
「いやいや、なんといっても幕末の男やからな。でっかい男やで!」
「でっかいの意味が違うよ!」
二人して笑う。西郷さんと犬はぴくりとも動かない。羨ましいか? オレたちは今この時代を生きているんだぜ。マイはまだオレの腕に手を回している。はたから見るとオレたちはきっと恋人同士に見えるんだろう。
オレたちは石の塀にもたれかかり、下界を見下ろす。上野駅前の交差点では小さくなった人々が蟻のようにあくせくと動いている。中央通では尻を赤く光らせた車たちがゆっくりと走っている。走っているというよりは、なにか超自然的な力に押しながされているように見えた。
「あー、明日からは月曜日かぁ……嫌だなぁ……」
ラブホテルを出て、初めて彼女の表情が翳りを帯びてきた。
「このまま時間が止まったらいいのになぁ」とマイ。
「うん、働きたくないよなあ」
ねえ……。
「つきあおっか? 私たち」
え?
「いや、でも、あんまり君のこと知らんし」
あんまり知らない。だけどよくわかっていることがひとつある。マイは恐ろしく情緒不安定な性格だ。ただでさえ人にあわせてしまう性格のオレは、間違いなく振り回されるであろう。
「まだ一日しか見てないから知らなくて当然でしょ? つきあってからお互いのことわかっていけばいーじゃん」
それは確かにもっともな意見なんだけど……。
「う〜ん、ごめん」
しばらく沈黙が続く。
「あー、なんか死にたいな……」
マイはぎりぎり聞き取れるくらいの小声でつぶやく。
「そんな、死にたいとか言わんと……いろいろと楽しいことあるやろ? 自殺も挫折もいつでもできるんやからさ、希望を持とうよ、希望を」
マイは恨めし気な顔でオレをにらんだ。
「別に彼氏でもないのにえらそうなこと言わないでよ! 私が死んでもあんたには関係ないでしょ!」
彼女は顔をそらし石階段を降りていく。
「関係ないことないよ! 君が死んだらオレかって嫌やって!」
嘘ではなく、それはオレのまごうことなき本心だ。
「じゃあ私とつきあってくれるの?」
「……えっと、それとこれとは別の問題かなあと」
「やっぱ死のうっと」
マイはふたたび早歩きになる。
「あぁー、ちょ、ちょっと待って!」
オレは交差点の前でマイをつかまえ、説得を再開する。
オレたちはこんなやり取りを一時間ほどくり返していた。
わがままを言ってオレに甘えてるということぐらい、バカなオレにもわかっていた。だけどマイのいろんな話、潰れるとわかっている銀行での仕事、妹のことは好きだけど、妹をひいきする両親が嫌いで家に帰りたくないということ、二回セックスしただけの男と連絡がとだえて、あれほど落ちこんでいた彼女の表情などを思い出すと、彼女は生きていても楽しいことが少なそうだ。
万が一、はずみで自殺することもありえるかも……そう思うと、突き放した態度がとれなかった。だがオレの精神力も徐々に磨耗していった。
「もぅいいよ、気ぃ使わなくても。興味ないんでしょ? 私のこと。家にちゃんと帰るよ。もしかしたら電車に飛び込むかも知らないけどさ……」
ついに彼女は、信号が青になった瞬間に駅にむかって渡り出した。途中で一度だけオレの方を振り返り、そして消えていった。
ふう、疲れた。やっと帰る気になってくれた……。
って、おい待て! 電車に飛び込むかもって言ってなかったか? いや、あり得ないだろう。でも万が一ってことは? ゼロとは言い切れないぞ!
気がつくとオレは一番安い切符を買い、改札内に飛びこんでいた。
えっと、松戸方面は? 階段を駆け上がる。万が一、マイが電車に飛びこもうとしたら、その瞬間に背後から現われ抱きついて止めるのだ。そんなことを脳内でシミュレーションしていた。
ホームに上がるとすでに電車がきて停車していた。
ひと安心……。
いや! もしかしたらオレの裏をかいているかもしれない。この電車が行った後に別の電車に飛びこむ。なんてことも?
オレは急いでマイを探した。が、あっさりと見つかった。やはり電車に乗っていた。つり革を持ちながら音楽を聴いているようだった。
これでひと安心……。
いや、きっちりと最後まで、ドアが閉じて電車が発車するまで安心できない。
オレは大きな柱の陰に隠れて、マイをじっと見守っていた。
そのとき、ジーンズの中の携帯電話が震えた。だれだよ、こんな時に! 液晶を見ると『マイ20銀行員』とある。
おそるおそるオレは電話に出た。
「なにしてるの? そんなとこで?」
「いや、もし電車に飛びこんだら嫌やなあ、て思って、そんで一応、まあ」
快速電車、取出行き、まもなく発車します。
「ありがとね」
マイはオレの言葉を遮ってくれた。
そして電車は走り出した。オレから彼女にあげれる言葉を探してみたが、なかなか思いつかなかった。そうこうしてる間に電波が届かなくなり、電話は切れてしまった。
そして電車はどんどん小さくなり、消えてしまった。
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