魂のいと軽き土
私には兄がいた。
いいえ、私には兄はいない。
「おはよう露草。調子はどうだい?」
目を開けると、眼鏡をかけた柔和そうな男性が私の顔を覗き込んでいた。
彼はノースポールの人形師だ。楽団の少女たちのメンテナンスを一手に引き受けている。もちろん私の兄などではない。
「特に変わりはありません。……あ、右腕の動きが少し軽いです。これは『せんせい』が調整して下さったんですね」
「関節が少し固くなっていたから、ついでに触っておいたよ。定例演奏会も近いしね」
「ありがとうございます」
私は身を起こすと、籠の中に畳んでおいた自分の衣服を下着から順に身に付けた。
「露草、君の……ああ、話を聞くのは服を着ながらで良い。君の身体を調べた限りでは、どこもおかしなところはなかったよ」
「そう……ですか」
私の身体以外で『おかしなところ』。それは私の記憶にあった。
普通の人形が教わらない、神を讃える歌を知っている。
そうして人形である私には存在しないはずの、人間の兄の夢を見る。
「ただ、君は随分と古い型だからね。現在の人形技術とは異なる仕組みの部分があるから、もしかしたらそれが原因かもしれない。そうなると今いるほとんどの人形師の手に負えないだろうね」
「私は、このまま壊れてしまうのでしょうか」
あまり感慨を込めず思いついたままを口にすると、『せんせい』は驚いたように目を見張った。
「まさか、そんなことはないよ! どうしてそう思うんだい?」
「この楽団には、ほかにそんな
「安心しなさい、今僕がちゃんと確認したから。ほかの部分はみな綺麗なものさ」
『せんせい』は私をなだめるように優しく声をかけてくれたが、そもそも私自身はこの不思議な状態を特に問題とは思っていなかった。
ただ夢の話をすると友人がひどく心配するので、今日は彼女を安心させるために『せんせい』に診てもらっただけのことだ。
「……これで梔子が安心してくれるといいのだけど」
「君の付き添いに来ていたあの子だね。彼女は友達想いの良い子だ」
『せんせい』の眼鏡の奥の目が柔らかく細められる。
「それで、君の記憶のことだけどね」
「はい」
形の崩れたカフスを直しながら私は頷く。
「君の言っていた『兄の夢』のことだが、そういった『間違った記憶』が混入した形跡はないんだ。勿論、君の記憶処理自体にも異常は見受けられない。こうなると後は……」
その続きは、私にも予想が付いた。
「君が作られた時点で、すでにその記憶があったと考えるのが妥当だろうね」
おそらくこの『記憶』は私の本来の製造目的に関わるものなのだろう。
ここにいる子達は皆ほとんどが演奏用だ。だがそうでない目的で作られた子が、特別な事情でここへ送られることもある。
例えば、
そう考えると、いろいろなことが腑に落ちた。
「それでは私は、何か別の仕事をするための人形だったんですね」
「仕事、と言うのだろうかね。君は、誰かの妹の代わりになるために作られた子だったのかも知れないな」
「いもうと……。……あに」
会った事もない、そして今ではこの世に存在さえしていないであろう『兄』。
神様は、人形の私にさえ気まぐれに妙なものをご用意される。
「分かっているだろうけど、あまりこの話は口にしない方がいい。仲の良い友達にもだ」
「はい」
人間と人形の境を曖昧にしてはならない。そういう秩序の元で私たちは庇護を受けている。
高給を受け取っているとされる『せんせい』の仕事さえ、人の中では軽んじられているのだと聞く。人間の妹になるはずだった人形など、どんな扱いを受けるか私には想像も付かない。
「露草は口の堅い子だから心配はしていないのだけどね、あの梔子は少し心配だ」
時に友達想いが過ぎるようだから、と『せんせい』は笑った。眼鏡の奥の瞳は笑っていない。
その時ふと私は、どうして『せんせい』がこの仕事をしているのか知りたくなった。
「せんせい」
「うん?」
「……ありがとうございました」
「ああ、気をつけて行きなさい」
結局理由を聞くことをせずに、私は部屋を出た。
『せんせい』はひとつだけ見込み違いをしていた。私は口が堅いのではなく、話を切り出すのが下手なだけなのだ。
それは夢の中の『兄』の本当の妹に似せて作られたせいなのか、人形の私の性質なのかは分からない。
「――露草、大丈夫なの?」
私を待っていたのだろう。廊下に座りこんで壁にもたれていた梔子が、立ち上がってスカートをはたいた。
そう言えば彼女は初めて会った時も床に寝そべっていた。随分と床が好きらしい。
「梔子、貴女また床に座っていたのね」
そう口にすると私は急に日常に引き戻され、夢の中の兄もその妹のことも瞬く間に薄れていく。
「今はそんなことより露草のことが大事じゃない。どうなの。せんせいは何て?」
「異常はないそうよ」
「本当に何ともないの? 良かった!」
梔子が私の手を取って引く。だが私はそれをそっと押し返した。
「私、元は演奏用ではなかったみたい」
「ふうん」
梔子は興味がなさそうに私の手を軽くつかんだまま小さく前後に振る。
「露草は、歌い手の人形だったの?」
「さあ、どうかしら。分からないわ」
「思うんだけど、きっと天使の人形じゃないのかなあ」
「そんなこと」
あるはずがない、と言おうとしたが、『妹』の人形だって充分おかしなことだ。私は曖昧に微笑む。
「でも良かった」
「ええ、何もないことが分かって良かったわ」
「うん、それもだけど、露草が楽団に来てくれて良かった」
にこにこと、本当に嬉しそうに梔子が言う。
「だって演奏用じゃないのに楽団に来るなんて、ちょっと珍しいことだよね。でもそのおかげで私は露草に会えたんだから、すごいことだよ」
「……本当に、そうね」
「露草はすごいね」
梔子が再び私の手を引く。私は今度は逆らわなかった。
「折角だからゆっくり戻ろう。こんな時だから白橡も怒らないと思うよ」
「梔子はいつもそんなに白橡に怒られているの?」
「ううん、たまに」
おそらく私は『兄』とその妹のことを知ることはないだろう。
それでもいつか一度だけ、『兄』と妹のために祈りの歌を歌ってみようと思った。
けれどたぶん、二度目はない。
梔子に手を引かれながら、私はそんな気がしていた。
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