落下する -fall in love-

「ねえ紫苑、その本に猫は出てくる?」

 埃臭い夕暮れの図書室で本を読んでいると、唐突に蔓薔薇が声をかけてきた。

「私、猫が好きなんだ」

 彼女はそう言って、何の確認もせずに私の隣に座る。

 訊ねられて何となく気持ちが浮き立ったことは確かだ。読書を邪魔されるのは好きではないが、書物に興味を持つ同胞は少ない。

 訊ね方が多少不躾であったことにはこの際目を瞑ろう。蔓薔薇という子は誰にでもこの調子なので、今更腹を立てるほどのことではない。

「猫は……少しなら出てくるけれど」

 私はここで初めて本の頁から目を離した。

「でも、ほんの少し。話にはあまり関係ないわ」

「じゃあ今度、猫がたくさん出てくる話があったら教えてね。読んでみるから」

「猫の話なら有名なのがあるわよ。確かそっちの棚に……」

 私は本を伏せて立ち上がりかけたが、蔓薔薇に腕を掴まれ引き止められた。

「その有名な本って面白かった?」

「ごめんなさい、まだ読んだことはないの」

「ならいいや」

「そう?」

「うん。紫苑が読んだのと同じ本が読みたいだけだから」

 蔓薔薇のその言葉に、まるで動揺しなかったわけではない。

 だがこれで自分だけが特別な態度を取られていると思ってはいけない。彼女はいつでも誰にでも同じようなことを言うのだから。彼女の思わせぶりな態度に落胆させられた少女たちを、少なくとも三人知っている。

 私は冷静さを失わぬよう、ゆっくりと言葉を選んだ。

「……でも私にとって面白くても、蔓薔薇はつまらないと思うかも」

 例えばそこに落とし穴があると分かっていて進む者を見れば、愚かだと笑うだろう。わざわざ穴に落ちるような真似をするのは愚か者のすることだ。

「別にいいよ」

 しかし蔓薔薇はそう言って、不意に真剣な顔で私の目を見つめた。

「私、紫苑が何を面白いと思うのか知りたい」

 今ならば分かる。落とし穴の底に宝があると唆されれば、誰でも簡単にそこへ飛び込むことが出来るのだ。

 私はその時、穴に落ちる愚か者になった。

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