機械人形少女楽団ノースポール

八億児

天のいと高き所

 礼拝堂の天井に描かれた天使の絵が好きだった。

 弦楽器キャバリアの練習の合間に暇を見つけては、床に仰向けに寝そべって延々と天使を眺める。それを楽しみにしていた。

 冷たいタイルにごろりと寝転がると黒髪が床を掃き、制服であるびろうどのワンピースも同じように汚れる。それが悪いことをしているようで少し愉快だ。

 かつてこの場所が学び舎だった頃には生徒たちが足しげく通っていたはずの礼拝堂だが、現在では祈りを捧げに来る者など一人もいない。せいぜい月に一度の演奏公演に使われるだけの場所だ。

 何故なら今、ここに住まう少女たちはみな機械で出来ていた。

 神ではなく人の手によって作られた私たちは、祈りで救われる魂を持たない。


 私たちは楽器演奏用に作られた機械人形であり、ノースポールと呼ばれる楽団の団員だった。演奏の練習と楽器のメンテナンス、そして時折行われる公演や慰問が私たちの日常の全てだ。

 その日はいつもより早く練習が終わったので、私は普段と異なる時間に礼拝堂へと入った。

 天井の天使が一番よく見える祭壇の足元に寝そべると、うっとりと目を瞑る。もう見なくても天使の顔を思い出せる程になっていたが、この場所が私の隠れ家のように思えてとても気に入っていた。

 程なくして、礼拝堂の扉が開く音がした。珍しくこの場所へ誰かが入って来たらしい。

 足音の数は一人。靴音からしておそらく職員ではなく、楽団の少女の誰か。

 放心していたせいで反応するのが遅れたが、運良く私のいる場所は祭壇のこちら側に回らないと見えない。そこでいっそ身を潜めてじっとしていることに決めた。

 今動くと祭壇で寝そべっていることがばれ、相手によっては面倒なことになる。万が一厳しいことで有名な白橡にでも見つかったら、練習時間を増やされて当分ここへは来られなくなってしまうだろう。そんなのは嫌だった。

 だが客人はこちら側へとやってくる様子もなく、礼拝堂の中心辺りで足を止めた。

「あー……」

 突然発せられた伸びやかな声に、私は驚いて身を縮ませた。気付かれた? まさか。そんなはずはない。

「あ、あ、あ、あ、あー……」

 だがすぐ後に続けられた声を聴いて、私は身体の力を抜いた。これは発声練習だ。彼女はどうやら歌の練習をしにここを訪れたらしい。

 この礼拝堂を使っているのが自分だけではなかったことを残念に思うのと同時に、私は彼女に対して共犯者めいた共感を持った。

「あああああああ……」

 念入りな発声練習はまだ続いていた。それにしても綺麗な声をしている。落ち着いて聴いてみると、この声には聴き覚えがあった。

 彼女は確か露草という名の少女だ。楽団では合金製小琴シュナウザーを担当しているが、あまり目立つタイプの子ではない。

 ただ髪の色と長さが天井の天使に少し似ていると思って、以前からなんとなく記憶に残っていた。

「…………は」

 露草が小さく息を吐く。練習が終わったらしい。

 このまま終わるのかと思いきや、彼女は朗々と歌い始めた。


  ぐろおおおおおおおおおりああ


 思わず私は、彼女の声で自分の身体がかき消えてしまうのではないかという愚かな杞憂を持った。

 私の身を貫いたのは、それ程までに透き通った声だった。


  いん えく せる しす で お


 目を瞑る。途端に、世界が彼女の声で満たされる。

 これはきっと、天国の歌だ。

 言葉の意味など分からずにそう思ったのだが、それは必ずしも間違いというわけでもなかった。後になって調べたところによると、礼拝堂で彼女が歌ったのは神を讃える歌のひとつだったようだ。

 だがその歌が何であるかは、その時の私にとってあまり重要ではなかった。

 大事なのは、その瞬間から私が彼女の声の虜になったということだけだ。




 それから私は何度も礼拝堂を訪れた。

 彼女の歌に遭遇することはそう難しくなかった。シュナウザーの練習時間を調べて、自分の練習をできるだけそこに合わせるだけで良い。

 そうすればおのずと休憩時間が重なることになり、私はかなり高い確率で露草の歌声を聴くことが出来た。

 グロリア。ホザンナ。サルヴェレジナ。

 彼女は機械楽団の少女が教わらないような聖なる歌を、幾つも歌った。

 とは言えこれは彼女の歌声を聴いてから得た私の付け焼刃の知識で、本人に尋ねたわけではない。私は相変わらず姿を隠したままでいた。

 後ろめたい気持ちはある。わざわざこんな場所へ来て一人で歌っているところを見ると、彼女はこれを他人に知られたくはないのだろう。だがそこに自分の姿を現すことで、彼女がここへ来なくなるかも知れないと思うと勇気が出なかった。


 ある日私はいつものように目を閉じて露草の歌声に聞き入っていた。

 露草が歌い終わって礼拝堂を出て行ってから、しばらく間をおいて私もここを出る。それがこれまでの習慣だった。

 だがその日は何故かいつまでも礼拝堂を出て行く気配がない。いつもなら礼拝堂の戸が閉まる音を、起き上がる合図にしているのに。

 辺りを窺うために目を開く。

 天井の天使が、間近で私の顔を覗き込んでいた。

「ひゃっ!」

 思いもよらぬ状況に、妙な声が漏れた。その声に驚いたらしく、天使も弾かれたように半歩後ろへ下がる。

「ご、ごめんなさい!」

 私に向かって慌てた声でそう言ったのは、当然だが本物の天使などではなかった。

「てっきり眠っているのだと思って……起こすつもりではなかったのだけれど」

 そこにいたのは露草だった。迂闊にも、彼女が足音を忍ばせて近づいて来ていたのに気付かなかったようだ。

「いや、私こそごめん。何だか盗み聞きみたいな真似しちゃって」

「平気よ。貴女がいるのを知って歌っていたから、盗み聞きではないわ」

 気付かれていた。私は慌てて取り繕うための言葉を探した。

「ここで天使の絵を見ている時に、たまたま貴女が来て。それで、邪魔しちゃいけないと思ったから、黙って聴いてたんだ。その、私、貴女の歌が……歌声がとても――」

 露草の顔を、こうして正面から見るのは初めてだった。

 改めて見てみると、天井の天使と彼女の顔立ちは大して似ていない。おそらく目を閉じるまで見ていた天井の絵と、彼女の姿を重ねて見てしまったのだろう。

 第一、あの天使の絵はもっと大人の姿で描かれているし、彼女の方が――

「――好きだから」

「ありがとう」

 露草が照れくさそうに笑う。私はその姿をもっと見ていたいと思った。

「そうだ、私の名前は露草と言うの。楽団での担当は……」

「シュナウザーでしょ。知ってる」

 黙っているのが後ろめたかったので、私は自分から彼女の担当楽器を口にした。そのついでのように名乗り返す。

「私、梔子。キャバリア担当」

「それは私も知っているわ」

 露草はやわらかく微笑んで言った。

「私、貴女のキャバリア好きだもの」

 単純な私はその言葉に、最近減らしがちだった練習時間を増やすことを決めた。




 こうして私達は正式に知り合い、私は堂々と彼女の歌を聴けるようになった。

「ありがとう、梔子」

 その日、礼拝堂で歌い終わった露草に言われた言葉に、床から半身を起こしかけていた私はキョトンとした顔を向けた。

「どうしたの急に」

「私がここで歌っていること、白橡に黙っていてくれたのね」

「ああ、そのこと?」

 そう言えば午前中に、露草の居場所を白橡に尋ねられた。おそらく礼拝堂にいるだろうと思いながら空惚けたのを思い出す。

「言わないほうが良いかと思って。よく知らないけど、機械の私たちが神様について口にするのをよく思わない人間もいるみたいだから」

 私はそう口にしたが、本心ではなかった。

 今言ったことも確かに事実だ。だが単純に、露草の歌を知っているのは自分だけだという優越感もあった。それを感謝されるのは落ち着かない。

 しかし露草は嬉しそうに首を横に振った。

「口止めをしたわけではなかったから、言われても仕方がないと思っていたの。……でも、秘密にしてもらえて嬉しかった」

 歌いたい歌がまだ沢山あるから。

 露草は小さな声でそう続けてから、信者の座る長椅子に腰を下ろした。私も彼女の隣に並んで座る。

 しばらく沈黙が続いた。こんなことは初めてだったので、私は以前から疑問に思っていたことを訊ねることにした。

「ねえ、どうして露草は神様の歌を歌うの」

 少し考えるそぶりを見せてから、露草が微かにこちらを向いた。柔らかな明るい色の髪が視界の端で揺れる。

「これはお祈りなの」

「祈り?」

「……私は、ほかに祈り方を知らないから」

 露草の声は、囁きに近いものだった。

「もしかしてそうやって祈るのは、天国に行きたいから?」

 私は唐突にそう思った。

 彼女ほどの歌声があるなら、もしかして機械でも天国に行けるんじゃないだろうか。自分が神様ならきっとそうするだろうと考えたのだ。

 だが露草は首を傾げて、まじまじと私の顔を見た。

「貴女って面白い子ね、梔子」

 呆れているわけではなさそうだ。どうやら心から驚いているらしい。

「人間なら死んだ後で天国か地獄へ行くかも知れないけれど、魂のない私達は壊れたらそれでお終いなのよ」

 そう言う露草は、まるで幼い子供に諭すかのようだった。

「じゃあどうして? 神様は機械の私たちを救ってくれないのに」

 矢継ぎ早の私の問いにも、穏やかに答える。

「私は救われたいわけではないの。ただ、ここで歌っていれば少しでも届くのではないかと思って」

 それは神様に?と言いかけて止めた。彼女にとって祈りは手段ではなく目的なのだ。

 ただ祈るためだけの、ごく単純な、届くのかどうかも分からない祈り。

 救いを求めない彼女の歌声は、だからきっとあんなにも純粋なのだ。

 それがよいことなのかどうかは分からないが、少なくとも私はそう感じた。

「……ねえ、露草」

「なあに?」

「もし天国よりこの世界の方が良かったとしても、一度天国に行った人間は戻ってこれないんでしょ?」

 私の言葉に、露草は不思議そうに小首を傾げる。

「おかしなことを言うのね、梔子。天国はこの世界よりも良いところなのよ」

「もしもの話だよ。だとしたら私、この世界から出られない機械で良かったと思うなあ」

「……貴女って、本当に面白い子だわ」

 露草は、そう言って笑った。

 もし露草が天国に行かないのだとしたら、彼女の歌声を聴くことが出来るのは唯一この世界だけなのだろう。

 だとしたらこの世界は、私にとって天国よりずっと価値がある。

 そう考え、ひどく満ち足りた気分になった。

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