経絡感覚コロナリセンサリ

伏潮朱遺

 

      1


 夜に爪を切るなといわれた。

 夜爪から世を詰めるにつながり寿命を縮めることになるから、というのは後で聞いた理由だが、母から聞いた理屈はそうではなかった。

 親の死に目に会えないから。

 普段親に言われたことを素直に聞いていることの多い私だったが今回ばかりは違和感を覚えた。注意の仕方が尋常ではなかった。

 さもそれは、自分の死に目に会ってほしいから自分の子どもには夜に爪を切ってほしくない、といわんばかりに。

 実際そうだったのだろう。そうでなければあの怒り方は異常だ。

 過程はどうであれ母の試みは成功しているといえる。その日以来私は夜には爪を切ることをやめた。

 風呂上りのほうが爪がふやけて上手く切りやすいのだが、爪切りを持っていざ切ろうとした瞬間母の顔を思い出す。顔というよりは存在そのものと言ったほうがいいのかもしれない。呪いのように、強制思考のように。

 父といって思い出すのは朝方縁側で足の爪を切っている姿だ。

 そもそも父は完全な朝方人間で、暗くなれば眠るし明るくなれば起きていた。どこかの国の大王のようだ。

 私が小さいときからまったく同じ位置で胡座をかいてまったく同じ軽やかな音を響かせて、庭に向けて爪を飛ばす。スイカの種ほど飛ばないし縁の下に潜り込んでしまうものも。

 母は迷惑していたのだろう。庭に爪が散乱していたら気持ちが悪い。

 ひとりだけのときに真似をしたことがある。

 その位置で爪を切ってみたかったわけではない。父の真似をしてみたかっただけだ。

 しかし特に大したことはなかった。

 そこからの眺めがいいとか、そこで感じる風が気持ちいいとか、そういう感覚的な快楽は何もなかった。

 私はその場所で爪を切るという光景に含まれるべきではなかったのだ。

 縁側で爪を切るのは父であり私ではない。縁側で爪を切るという行為自体に魅せられていたわけではなく、爪を切っている父の姿が好きだっただけなのだ。

 それがわかったとき、私は縁側で爪を切る父の姿を見るのをやめた。爪を切っている父に話し掛けるのもやめてその場を立ち去った。

 爪は伸びる一方だった。


     2


 一日一食にして三ヶ月が経つ。

 別段調子が悪いところもない。空腹感がないから食べないだけのことだ。

 私は子どものときから少食だった。むしろあまりにも食べる量が少なくて親が心配したほどだ。

 だから身体は大きくならない。身長も体重も平均よりずっと下。小学校は身長順に並ばされることが多いのだが、学年が上がっても常に前から三番目以内にはいた。

 特に気にしていない。

 身長の高い低いで比べられるものは身長以外にない。身長が高いからといって得することは何もない。チビ、と呼ばれないことくらいだ。

 もちろん弟にも妹にも早々に追い抜かれた。中学の頃には、彼らと並んで歩くと私がきょうだいで一番下に見えたかもしれない。

 朝から雨だったのでつい出掛けたくなる。

 変わった奴だと思われるかもしれないがそう思ってもらって構わない。

 頭痛持ちなので気圧の関係か雨の日は頭が痛くなる。当たるも八卦当たらぬも八卦的な天気予報より、私の頭の痛さで傘を持っていくか判断したほうがいい。

 そのくらいよく当たる。

 実際昨日からずきずき痛かった。よく効く頭痛薬があるのでそれを飲んで大人しくしていたが朝起きたら案の定しとしと降っていた。

 朝食は食べない。傘をさして外に出た。

 雨の空気が好きだ。降ってくれる量は多ければ多いほどいい。理想的なのは夏の夕立。大粒の土砂降りもいい。

 しかし風が合わさると気分のいいものではなくなる。傘で雨が受けられないからだ。傘で雨の重みを感じたいのに、風が余計な流れを作る。その理由から台風は嫌いだ。風がなければいいのに。

 ほんの十分歩いて、昨夜の頭痛がぶり返してきたため帰宅する。予防的に頭痛薬を飲んでおくべきだったのだ。そうしないと手遅れになって効かない。

 急いで錠剤を口に入れたがもう遅い。こうなるとあとは寝ているしかない。寝ていても治らないのだが他に出来ることがない。頭が締め付けられて何もする気がなくなる。

 雨の音が近い。窓を閉めるのを忘れてしまったのかもしれない。しかしもう一度布団から出て閉めるべき窓を探しに行くだけの元気は残されていない。眠ってしまえば気にならないだろう。

 起きたのはそれから三時間後だった。

 少しは楽になった。頭蓋骨がずっと遠くで軋んでいる感じだ。もう一眠りすれば治るだろう。腹が減ったような気がするがどうでもよかった。一日一食のその一食は昼と夜の合間に食べる。その合間ならどこでもいい。

 変な夢を見た。だが起きた瞬間に忘れてしまったので、もしかしたら変な夢ではなかったのかもしれない。変な夢、というタイトルなだけで中身はちっとも変ではない夢だったのかもしれない。なんとも紛らわしい。

 夕刻まで眠ってまた外に出る。雨がすっかりあがってしまっていたのが残念だ。ざあざあ降ればよかったのに。しとしとだからもたなかったのだ。

 名残惜しいので雨の足跡ともいえる水溜りを探す。それは干上がる寸前の深海魚を思わせる。珍しいが故に物悲しい。適当に買い物を済ませて家に戻る。

 玄関に辿り着くには、松や柿や棗などが植えられている比較的広い前庭の石畳を進まなければいけない。郵便は門柱に設置した箱に投げ入れることになっているが、訪問客はまさか箱の中に入って待っているわけにはいかないから、玄関を探しておそるおそる池の付近まで進入する。

 だが観察上、大方その辺りで足を止めてしまう。

 果たして自分はここから進むべきか進まざるべきか。

 頼みの綱であるチャイムも玄関に設置してある。嫌味な鯉は水の中から頭を出して餌をねだるが如く口をパクパクするだけ。

 要するに私の家は訪問しにくいことに関しては並ぶものがないと思われる。さしずめ池から先は迷宮の入り口に見えるらしい。

 迷宮の出口が玄関になっている。

 庇の下に人が立っていた。彼は私が帰ってきたことに気づくと口の両端のみを上げるという独特の笑い方で笑ってみせる。

「遅いよ」

「また、なくなったの?」

「カネ欲しいなあ」

 私がカギを開けると彼は真っ先に家に中に上がりこんでしまう。荷物を持ってくれる、という気はいつもながら持ち合わせていないようだ。

「どうして君は僕が留守のときに訪ねてくるんだろうね」

「タイミング悪いのと違う?」

 彼はいつものように冷蔵庫を開けて、勝手に麦茶を取り出して、これまた勝手にグラスを出して勝手に飲んでいる。そもそも麦茶は彼のために作っておいたものだから文句はない。私は買い物袋を空にしてから縁側に腰掛ける。

 頭痛は程よく引いてきた。まったく痛くないのも物足りないが頭蓋骨が割れるほどにずきずき痛むのも厭である。本当は夕刻のほうが痛むのだが、今日は朝から昼にかけて雨が降っていたせいでそうはならなかったらしい。

 窓を開けて風を通す。

 彼が隣に座る。グラスの中の氷がカランと音を立てる。

「ここ、涼しいね」

「外で待ってるの苦痛だろうに。合鍵作ろうか?」

「あかんあかん。そうゆうんは認められへんね」

 私はグラスの中身が氷だけになったのを確認して縁側に横になる。以前は脚の短い絨毯が引いてあったのだがどうも気に入らなくて剥いでしまった。

 板の上だから背中が痛い。しかしひんやりとして気持ちがいい。後頭部と腕だけ温度が下がる。古びて雨漏りのような模様が描かれた天井を見ていたつもりだったが、いつの間にか彼の顔しか見えなくなっていた。

 そうやって、私はまた彼と寝る。


     3


 眼が覚めると彼はいつもいない。

 外はすっかり暗くなっており肌寒い。全開になっていた窓を閉めて、夕食なのか夜食なのかわからない食事を採る。これが今日の私の身体に与える唯一のエネルギィ源ということになるがこれで充分である。むしろ多いくらいだ。

 一人分だけ作っているはずなのに必ず残してしまう。それにラップをかけて冷蔵庫に入れておくと知らないうちになくなっている。きっと冷蔵庫の一番下の棚はブラックホールなのだろう。

 ポケットから財布を取り出す。見るまでもないのだがつい確認してしまう。彼がすでに帰ったということを他の視点からも確かめておきたいのだ。

 案の定、紙幣がごっそり抜き取られている。ごっそりというと大量の札束が入っていたように思われてしまうかもしれないがそんなことはない。私の頼りない記憶によるなら、全部で五枚にも満たなかったと思う。入っていた紙幣の価値は別として。

 彼は絶対に硬貨には手をつけない。小銭には興味がないというわけではなく重い、かららしいが基準がよくわからない。

 どうせなら財布ごと持っていけばいいのに。わざわざ私のポケットから財布を取り出し紙幣だけを持っていく。そしてまた何事もなかったかのように財布をポケットに戻す。まるで手品で紙幣だけを消してしまったかのようだ。

 いいですか?いまからあなたの財布の中からお札だけを消して見せます。ほら消えた、という具合に。

 確かに彼の手口というか方法は鮮やかだと思う。

 私は彼がいつ、どこから来て、いつ、どこへ去ってしまったのかを知らない。

 もしかしたら何らかの薬品を使われているかもしれないが、それにしてもすごい。彼は私の家を訪問したという証拠を何一つ残さずに帰ることができる。飲んでいた麦茶のグラスも洗って定位置に戻し、においや存在感といった無形物の名残も消していく。

 もし彼が私を殺すとしたら絶対に完全犯罪にできる。彼がいなくなったあとの部屋は横たわった私の死体しか残らない。

 実際、私はいつも横たわっている。眼醒めるまでは死体も同然だ。

 私が彼について知っていることといったら名前くらいだ。しかしその名前だって本名だという証拠はなにもない。

 本名と偽名の違いは何か、と訊かれれば返答に困ってしまうのだが、少なくともこの関係において丁寧に本名を名乗る必要も意味もないからこれは偽名なのだ。名前などどうでもいいと思うのだが抱くときに名前がないと盛り上がらない、という彼の親切から彼の名前が知らされるところとなった。

 ヨシツネ。

 この音で思いつくのは鎌倉幕府を創始したあの征夷大将軍の弟くらいしかないのだが、漢字は幼少時に天狗と戯れたあの天才的武将とは違うらしい。

 それならばどういう字を書くのだと訊いたのだがうまく誤魔化されてしまった。今度、といわれたがそれは断るときの手だったのか、単にすっかり忘れているだけなのか。

 彼はいつも白いワイシャツの上に黒い学ランを羽織っている。だがそれが彼の制服ではないらしい。

 しかしながらどう見ても中高生にしか見えないし、どうしてわざわざ制服でもない学ランを着ているのだろう。その利点ともいうべき理由は尋ねるたびに違う答えが返ってくる。

 どこをウロウロしていてもさほど怪しくない。危なくなった場合の言い訳の信憑性が段違い。学ランはウケがいい。

 適当にはぐらかしているのではなくどれも本当のように聞こえる。知り合いの制服を借りている、ということなので実在する学校のものなのだろう。それも本当かどうか疑わしいが。

 彼の見た目は、ごく普通のどこにでもいるような中高生。雑踏に紛れれば一瞬で見失ってしまう。

 しかしそれは、彼が自分を目立たせないために手に入れた精巧な人工膜のように思える。一対一で顔を合わせればすぐにわかる。

 彼は決して、ごく普通のどこにでもいるような中高生ではない。

 確かにごく普通のどこにでもいるような男子はカネと引き換えに身体を売らないのかもしれないがそのような意味ではない。彼が含有しているのは、眼に見えるような実質の行動における差異ではないのだ。

 うまく説明ができないのだが、うまい説明というものは基本的に危うい。彼は他人からカネをもらってその代わりに寝る、という行為に慣れている。

 しかしそれはカネをもらうために外部から習得し学習したサーヴィス的演技ではない。

 彼はその行為に関して何も感じていない。

 習慣的に身についた行為であって、朝起きて顔を洗うのとなんら差がない。そこには意志も意識もない。そうするのが当然だからという因果律も、そういうものだからという運命論もない。あたかも自然に、違和感なく実施されるだけの行為。

 彼が求めるのは肉体の接触から来る安心でも、ひょっとしてそこから生まれるかもしれない愛のようなものでもない。

 カネだ。

 彼はカネが欲しいからカネを出した相手にお返しをしているだけなのだ。誕生日にプレゼントをもらってありがとう、と言うのと変わらない。

 そして彼は、どういうわけか私が留守のときに訪ねてくる。

「遅いよ」

 初めて会ったときからずっとそう言われている。

 だが遅いといわれても彼を待たせていた憶えはないし、彼がその日に訪問するといった予定もなかった。それにもかかわらず彼はそう言った。

 抑揚が私の育った地方のものではない。

 東日本、西日本という曖昧な分け方を許してもらえるなら彼は西日本出身なのだろう。尋ねたことがないのでわからない。もし尋ねたとしても答えてくれない可能性のほうが高い。言葉というのは接触している人間から感染るということもある。

「俺、カネ欲しいんやけど」彼はそう言って笑った。

 例の、口の両端だけを上げるという笑い方だ。片側だけを上げるという笑い方もあるのだがそのときはそんなこと知る由もない。

 ちょっと出掛けて帰ってきたら玄関の前に中高生らしき少年がいたこと自体驚きなのに遅いよ、と聞き慣れない抑揚で言われ挙句の果てに笑われてしまった。

 私は手に持っていたわけのわからないダイレクトメールと、差出人不明の手紙を残らず地面に落としてしまった。拾おうとも思えなかった。

 しばらく見ていたと思う。

「カネ、くれへんかな」

 意味がわからなかった。

 どうして私に?カネが欲しい?

「おっさん、カネ持ってそやから」

 読まれた。

 おそらく慣れているのだろう。この発言の次に来る質問に厭き厭きしているかのような口調だった。

「えっと君は? どうしてこんな」

「せやなあ、おっさんからカネ巻き上げるだけなら可哀そやね。代わりに何でもするわ。往ねとか、俺を彼岸に送るんはあかんよ。よう考えて」

「あのさ、援助交際の類だったら」

 彼はまた笑った。

 予想された応答だったのだろう。切り替えしが著しく早かった。

「おっさん、俺の話聞いてへんね。俺はカネが欲しい。せやからそのお返しになんでもするゆうてるだけやん。エンコーがええんやったら俺は構へんけどね」

「僕じゃなきゃ駄目なのかな。その、僕はこういうことは」

「厭なん?」

 厭、とは言えなかった。厭と言うには情報が足りなさすぎた。

「とりあえず中、入れてくれへん? 脚、疲れたわ」

 家に上げても彼の調子は変わらなかった。むしろ、玄関先よりもずっと強引になった。

 彼の主張は依然としてカネが欲しい。

 私はどうすればいいのかわからない。会話は永久に交わらない。

 彼を家に上げたのは間違いだったのだ。

 私はポケットから財布を取り出して中身を畳の上にぶちまけた。好きなだけ持っていけ、と伝えたつもりだった。

 もうやめてほしかった。

 私に関わるのも、私の安寧を壊すようにずかずかと玄関先まで押し入るのも。何もかもうんざりだった。

 その時は私はひどく混乱していた時期で、人の顔を見るのも人の声を聞くのも苦痛だった。ようやく外の世界と折り合いをつけようと意気込んで、或いは諦めて外に出掛けて、絶望して帰ってきたのだ。

 安心できる我が家に逃げ帰ってきたのに、そこに待ち構えていたのはわけのわからない中高生。脳がおかしくなりそうだった。すでにおかしくなっていたのかもしれない。何が幻で何が本物なのかもわからなくなっていたのだから。

 そして彼と寝たのだ。

 理由は何でもよかった。このときの心情をどうしても解明したいのなら心理学者でも精神分析医でも、とにかく勝手にすればいい。彼に与えた幾ばくかの紙幣の代わりだったのか。理性と感情がごっちゃになってなにか新しい概念を作り出してそれのせいで少年を犯してしまったのか。もしかしたら彼と寝たということが実は虚構だったという可能性だってある。そのほうが健康にはよかったのかもしれない。眼が醒めたとき私はそれが夢や幻の類だと思った。彼が家のどこにもいなかったからだ。帰ったのでもいなくなったのでもない。いなかったのだ。

 私は何十年かぶりに泣いた。臓器という臓器が文字通りからっぽになるまで泣いた。からっぽになると生命維持ができないものもあると思うのだが細かいところはどうでもいい。泣き終わって、私は本当にからっぽになったのだ。体液でぐしゃぐしゃになったシーツを剥ぐということすら思いつかなかった。

 なぜ畳の上に財布が落ちているのかも、紙幣やら硬貨やらクレジットカードが散らばっているのかも思い出せなかった。革とアルミニウム、銅とニッケル。亜鉛とスズ。紙とプラスティック。それらはそもそもそこにあったのかもしれない。途切れ途切れの意識の中でそう思い込めてきたときに電話が鳴った。電話は隣の部屋にあったのだが取りに行く気力はなかった。出たくもなかった。

 次に彼が訪ねてきたのは、それから一週間後だった。


     4


 気温が上がらなくなってきた。このくらいの気候が過ごしやすくて好きだ。世界が一斉に沈黙するための準備をしているようで。

 家を空けないと彼は訪ねてこないので、私はただそのためだけに出掛ける。ほんの数分でも、あり得ないが一週間留守にしても同じだろう。私が不在になったというその僅かな隙間を彼は感知できる。軒下で家の外壁に寄りかかり、私に向かって第一声を発するタイミングをはかっている。

 合鍵、と思ってすぐにそれを改める。彼が欲しいのは私の家の合鍵ではない。カネなのだ。カネを欲する理由はわからない。借金返済。生活苦。ただの趣味。どれも違う気がする。彼がカネを欲する理由はもっと生理的なもののように思える。カネを食べて生存している怪獣がいたが一番近いのはそれだろう。もちろんカネを欲する理由を問うたこともある。

「せやから、生活費」

 彼は間髪入れずそう答えた。不当に問い質しても不可能だ。彼は言いたくないことは絶対に言わない。以前、冗談で余分にカネを渡すから自分のことについて話して欲しいと言ってみたことがある。

「魅力的な提案なんやけどそら無理やわ。そんなん調べたったらええよ。調べられるなら、の話やけどね」

「どういう意味?」

「深読みしたって」

 調べるといっても、私の独力では不可能なので自動的に外部機関を頼ることになってしまう。そうなると人に会って話さなければならない。そんなことをするくらいなら知らなくてもいいや、という気になってくる。それが彼の狙いだったのかもしれない。

 石畳を抜けると彼はそこにいる。

「遅いよ」

「また、なくなったの?」

 彼の第一声に対する私の返答は、何度か同様の会話をして最適化されて残った可哀相な成れの果てである。では、そもそも最初はどういう受け答えがあったのか。

「遅いよ」

 言葉が出なかった。

 彼と初めて会った日から一週間経っていた。ようやく私は布団から離れても平気な時間が布団に密着する時間よりちょっとだけ長くなり、散歩と言い聞かせれば靴を履けるまでになった。そうはいっても、破裂寸前の風船を放っておけばいずれ空気が抜けてしぼんでしまうだけのことで、混乱状態の根本が解決したわけではなかった。解決する気もなかった。時間が経てば忘れてしまえる。それだけを頼りに相変わらずぼんやりと過ごしていた。

 だから彼の再来は、いわばせっかく塞がりかけたかさぶたをむしりとるがごとき乱暴なものだった。私は呼吸困難になりそうだったがやっとの思いで鍵を取り出して家に入ろうとした。

「こないだもろうたカネな、なくなってん。せやからまたもらいに来たわ」

「帰ってくれないかな。おカネだったらいくらでもあげるから家の中まで入ってこないで」

「そんなん、かつあげと同じ。俺は不良やないし強盗でもないの。もろうたカネの分は働くよ」

 私は玄関のドアを閉めた。しかし無駄だった。カギをかけるのを忘れていたのだ。うっかりを通り越してアホとしか思えない。よって彼は入ってきた。

「帰ってくれ」

「こないだ幾らもろうたか知っとるん?」

 私は財布ごと彼に渡した。投げ捨てたといったほうがいいかもしれない。トカゲの尻尾切りだ。だが彼は財布には目もくれずずかずかと上がり込んできた。

「それ、クイズにしよ。当たったら俺はすっぱり帰る。もうおっさんとこ来るんやめるわ」

 そう言うと彼は、こともあろうに私の家の中を掃除し始めた。どこからともなく掃除機を探し当てて部屋中を駆け回った。確かに家の中はほこりだらけだった。散らかるほど物がないので散らかってはいないが、裸足で歩くと足の裏に何か海草のような物体が貼り付いて限りなく不快な床になっていた。だがどうして彼が私の家を掃除してくれるのかがわからない。頼んだ憶えはない。頼んだ?

「もしかして」

「ん? まさかおっさん、憶えてへん?」

 彼によると、私は先週うわ言で部屋の中の掃除を頼んだらしいのだがそんなことは知らない。私はそう主張した。とにかく帰ってほしかった。

「掃除したったらな。今日はそれが仕事やからね」

「幾らなのか当てたら帰ってくれるんだよね?」

 私は必死に記憶の糸を辿った。しかし先週の記憶は思い出したくないとラベルを貼られた壺の中ですやすやと眠っている。ようやくそれに成功したところだった。殺したい相手に睡眠薬を飲ませておいてわざわざ叩き起こすようなものだ。意味がわからない。

 私は横目で財布を見遣った。わかるわけがない。そもそも私を通過した金額は数えないことにしているのだ。金銭感覚がないといってもいいだろう。

「勘でええよ。俺はハズレたったほうがええし」

 私は汗まみれになっていた利き手を開いて彼に見せた。五万円でも五千円でもなかった。単に手の力が抜けただけだった。

「残念ハズレね」

 結局その日彼は掃除だけして帰った。畳という畳に掃除機をかけて、床という床に雑巾をかけた。窓こそ磨かなかったがおよそ汚れがちな台所や浴室、洗面所や玄関までぴかぴかにしていった。うわ言とはいえ私が頼んだのだからカネも渡した。幾らだったのかはわからないが財布に入っていた紙幣をすべて渡した気がする。それのおかげで彼は私から受け取る代金を、そのとき財布に入っていたすべての紙幣、と定めたようだった。

 それ以来、彼は不定期に私のところを訪ねる。私が留守のときを見計らって、この間もらったカネが底をついたから、というたったそれだけの理由で私の家の軒下で待っているのだ。だからこそ私の返答は、次第にああいう形をとることとなった。

「実は僕を見張ってるのかな」

「ああ、その軒先にカメラあって。ほお、オモロイ仮説やね。せやけどコスト的に無駄やわ。却下」

 私は買ってきたグレープフルーツを半分に切る。彼に訊いたら食べるのが面倒だから要らないといわれた。食べやすいように切ってもなかなか手をつけてくれない。

「酸っぱいの厭なん」

「でもこれは甘いよ。新しい品種みたいで」

 試食用に置いてあったものを摘んだら案外美味しくてつい買ってきてしまったのだ。偏食な上に食に執着しない私にしては珍しい。彼は私がグレープフルーツを口に入れたのを見届けてからおそるおそるフォークでつつく。

「何なら食べるの?」

「果物好きやないよ」

 彼がいなくなったあとで冷蔵庫をのぞくと一番下の段が空いているのだ。そこにあった食器は不思議と棚に戻っている。

「冷蔵庫買い換えようかな」

「なんで?」

「ブラックホールがあるみたいなんだ。困るよね」

 彼は口を斜めにして冷蔵庫をのぞきに行く。機嫌を損ねると彼は無言になるのだ。

「おっさん、作りすぎなのと違うん?」

「無限のブラックホールがあるからついね。君は何か好きなものとかある?」

「カネ」

「紙を食べるのはヤギだよ」

「せやったら俺はヤギかもしれへんね」

 今日こそは眠るまいと努力していたのだが不可能だった。やはり何らかの薬物が盛られているのかもしれない。とするなら今日はグレープフルーツか。それとも彼自身が毒物なのか。

 彼が不在になったという証拠として、冷蔵庫の一番下の段は空洞になり、財布の紙幣は残らず消える。だが今日はもうひとつ消えているものがあった。三つ買ってきたグレープフルーツが一つなくなっている。一つは切り分けて食べたので残りは二つになっているはずなのになぜか一つしかない。しかしそもそも二つしか買ってこなかったような気もして買い物の際に受け取った白い紙を見てみる。いつもはそのまま捨ててしまったり受け取るのを拒否するのだが今日は偶然にも取ってあった。グレープフルーツの品種名の横に3の数字。やはり三つ買ったのだ。

 これはどう解釈すべきなのか。眼を瞑ってしばらく悩んだがよくわからない。欲しいのなら言えばいいのに。彼は個人情報の流出に気を回しすぎではないだろうか。プロフィールにおける好きなものという欄がもうひとつ埋まるだけだ。それが困るのか。

 彼はいったい何を隠匿しようとしているのだろう。私が彼について知っていることは依然として本名とも偽名とも取れる名前のみであり、それ以上のこともそれ以下のことも何も知らない。知らせてもらえないといったほうが正しい。私の家を訪問する目的。私から半ば合法的に奪った金銭の使い道。彼の年齢と本名。通っている中学なり高校。世界中から私という人間をターゲットに選んだ理由。挙げればまだ出てくる。それだけで冊子ができそうだ。暇だから実際に作ってみようか。彼に見つかったら燃やされるかもしれない。もちろん私が眠っている隙に。

 彼が私の家を訪問する時間帯は圧倒的に夕刻が多い。中学なり高校が終わってから、知り合いに学ランを借り、私が留守になったのを第六感で感知して私の家に向かうのだろう。まるで放課後の部活のように。

 選ばれなかったほうのグレープフルーツを食べながら考える。彼は私以外にも《客》を抱えているのだろうか。独占欲という観点からすれば例え他に客がいたとしてもみだりに話さないほうがいい。私としてもできれば話してほしくないかもしれない。

 しかしそうするともう一つ疑問が出てくる。彼は≪客≫を平行して何人も抱えているのか。それとも一人に見切りをつけてからまた新たな客を探すのだろうか。要するにパラレルなのかシリアルなのかということだが、要領のいい彼のことだから私と平行して他の≪客≫の相手もしていると見ていいだろう。だからこそ何も話してくれないのだ。うっかり口を滑らせるという可能性はきわめて低いがないという保証もない。コントロール癖の塊のような男にそれが発覚すれば監禁して殺されてしまうかもしれない。自分だけのものにするには殺してしまうのが一番だ。

 少し複雑な気持ちになってきた。グレープフルーツの果汁が飛んで眼に入ったせいかもしれない。きっとそうだ。もう考えないことにしよう。温厚でお人好しと思われがちな私にも、独占欲くらいあるのだから。


     5


 黄色が好きだったことを思い出す。

 青い絵を見ているときだった。その絵はタイトルにブルーと入っているだけのことはあって、使用した色は青のみである。私はその絵を見るためだけに、芋洗いのように陰険な電車になんか乗って遠路遥々美術館に赴いたのだ。

 じっくり鑑賞できるよう、その絵に対峙する形で長椅子が設置されていたので腰掛ける。運よく誰も座っていなかった。穴が空くほど見つめていると次第に補色の黄が浮かび上がってくる。額縁のかかっている壁が真っ白なので、まったく同じ形の黄色い絵がそこに投射されたかのようだ。

「なあ、オモロイ?」

「先に出てるかい?」

 彼は私の隣に座って腕組みをする。脚も組んでいる。もしここにテーブルがあったら頬杖をしていただろう。見本として置いてあった図録をパラパラと捲り、つまらなそうに溜息をつく。彼は徹底的に本格的に退屈そうだ。

 私としてはそもそも彼を連れてくるつもりはなかった。私は未来というものに過剰に拒否反応が出てしまうので滅多に予定など立てないのだが、今回ばかりは話が違った。偶然にも情報を手に入れたときすでにその企画展の開催期間が今週いっぱいだった。私は急いでその美術館の場所を調べメモをしておいた。頭痛の弱まる日に出掛けるべく準備していたのだが、それを彼が見つけちょうど空いてるから、という建前の下一緒に出掛けることになった。交通費やその他諸々はすべて私持ちだが、付き添い代として余分に金銭を要求されたのは言うまでもない。つまり彼は付き添い代とその内容の不釣合いに異を唱えているのだ。

 しんと静まり返った美術館においては靴と床が衝突する音しか聞こえないことになっている。私はこれ以上彼と妥協案を練るために会話を続行したくない。ひそひそ話というのは案外響く上に耳障りで、周囲の視線が恐ろしくて仕方がない。気分が悪くなってきた。青い絵が瞼に焼き付いているうちに退散することに決める。そのほうが彼も喜ぶだろう。

 通路にまで人で溢れかえっているミュージアムショップの脇をやっとの思いで抜けて美術館の外に出る。やはり人が集まるような場所には来るべきでなかったのだ。私は人が怖いのではない。人という生物が発する不可視光線が私の身体を突き抜ける感覚が厭なのだ。まだ上手く言えない。しかし上手く言えるようになったらすでに治りかけている証拠だろう。治る? 治るだろうか。

「おっさんが見とったあの絵、シンプルでええ思うよ」

 びっくりした。てっきり不満をぶつけられるのかと思っていた。彼は眼を細めてチケット売り場を睨んでいる。開催期間の終了が迫っているせいだろうか。人の列がくねくねと連なっている。私は人を避けるために開館時間ちょうどに入場したのでこの恐ろしい人間列が形成される前だった。

「買わへんの?」

「なにをだろう」

 彼はミュージアムショップのある辺りを指さす。ガラス張りになっているので外からでも見える。

「あんなに人がいるからね。本物が見れただけで」

「ニセモンは要らん、ゆうこと?」

「そうだね。でもポストカードくらいならあってもいいかもね」

「代わりに買うてきてもええよ」

「いいや。どうしてもってわけじゃないから」

 彼は眉をひそめる。好意を受け取れ、と言っているようだった。或いは単に無駄な出費をさせたいか。

「一緒に来てくれる?」

 青い絵のレプリカを購入するという一大プロジェクトにおける段取りのすべては、彼が脚本を書き演出までしてくれた上に主演まで務めてくれた。おかげで私の出番はほとんど非言語で済んだ。向こう側にしてみれば絵を欲しているのは彼のほうに思えただろう。私はたんなるスポンサで。絵は数日で届くらしい。それが遅いのか早いのか私にはよくわからなかった。

 彼が空腹を訴えるので、私はうどんと書かれた暖簾をおそるおそるくぐる。どうやら彼は最初からこの店でうどんを食べるつもりだったらしい。それで興味の欠片も感じないはずの美術館への付き添いを買って出てくれたのだ。私は特に何も食べたくなかったが彼に強く勧められて仕方なくお品書きを開く。本来は丼物とセットになるように設定されている、量の少ないうどんならば、と妥協した。

「そんなん、一口で終わってまうよ」

「僕は少食なんだよ。たぶん君は知らないだろうけど」

 彼と一緒に食事らしい食事を採るのは初めてだったことにたったいま気がつく。菓子や果物を摘むことなら何度かあったが。

「僕が一日一食だって知ってた?」

「そうなん? はあ、電池も気ィもちっさいなあ」

 お昼時だが店内は私と彼以外に一組だけである。暖簾をくぐった段階でこの空間が人で満ち満ちていたら例え彼に嫌われても外で待っていようと思った。

 昆布だしのにおいがする。厨房がもわもわと漂う湯気で満ちている。うどんは五分と経たないうちに運ばれてきた。つゆが透き通っているので丼の底が見える。一本ずつちまちま口に入れていたら彼が渋い顔をした。別に彼の頼んだうどんが特別渋かったわけではないと思う。

「嫌いなん?」

「そうじゃないよ。僕は何を食べてもこうだよ」

 私は彼がうどんを二杯すする時間にも追いつかなかった。よければもう一杯食べてもいい、と言ったのだがさすがにもう要らないと返された。私の丼の中のうどんは時間と共にどんどん柔らかくなっていく。伸びたという状況かもしれない。スープに漬かった麺類を食べる機会が少ないためよくわからない。

 再び混雑の権化ともいえる陰険な電車に揺られて帰宅する。途中で昼食を採らなければぎりぎり午前枠に収まっただろう。まさにとんぼ返り的外出である。

 彼は私の庭の木からもいできた棗を齧るのをやめた。

「見た目は姫りんごみたいやのに」

「酸っぱかった?」

「ふにゃふにゃしとる」

 徐々に接近するお囃子のように頭痛を感じる。外出するとすぐこれだ。出掛けた距離と時間に比例して頭痛のひどさが上がるから今日は最高レヴェルが体感できそうだ。とうとう私の脆い頭蓋骨が崩壊してしまうかもしれない。私は畳の上で横になる。彼が枕と頭痛薬を持ってきてくれる。もちろん水も。

「君のこと、ひとつだけ聞かせてくれない?」

「質問に依るな」

「僕以外に、平行してこういうことしてる人がいる?」

「それ聞いてどないするん?」

 飲みなれている錠剤なのになかなか飲み込めない。グラスに半分ほどあった水も全部使ってしまう。いつもなら一回で飲めるのに。胃の中に何かが収容されている感覚が邪魔をする。

「いるの?」

「いまは、おらへん」

 彼は手をつけなかった実を庭に放る。窓が開いたのでひんやりとした風が私の額を撫でる。彼の姿が逆さまに見える。きっと私のほうが逆さまなのだ。私のほうがおかしい。彼はおかしくない。

 彼は私の頭の延長線上に座布団を置いてそこで胡座をかく。細い十本の指が近づく。

「正直に言ってよ」

「嘘やない。ホンマの話。もうおらへん」

「いくら貯まれば終わりにできる?」

「いくらでも」

「借金なら僕が」

「借金やない。生活費や、ゆうたはずやん」

「趣味なら止めないけど、僕は」

「あんなあ、やめてくれへんかな」

「どうすればいい?」

「どうもせんでええよ。俺はカネが欲しい。それでええやん」

「よくないよ」

「俺は非売品やさかい。諦めて」

 頭蓋骨が割れそうなくらい痛い。脳が沸騰しそうなほどに熱い。こめかみが下手な太鼓のようにうるさい。胃液が逆流しそう。吐けたら楽になるのだろうか。しかし今日は吐きたくない。吐いたら出してしまう。

「眠ったったらええよ」

「また毒なんだろう?」

「俺な、睡魔召還できるん。悪魔さんと契約しとって」

「悪魔のせいでそういうことしてるの?」

「せやったらオモロイね。それ採用」

「本当のこと話してほしいんだ。どうしておカネが要るのかとかどうして僕のところに来たのかとか」

 憶えているのはそこまでだった。そこから先は白塗りと黒塗りが交互に構えているだけ。古びたチェス盤ように所々が欠けている。彼は黙ったまま睡魔を召喚したのだろう。無言なのだからいままで気がつかなかったのだ。

 眼が醒めたとき彼は私の隣にいた。添い寝というよりは、パラレルワールドで眠っていた少年が偶然にも睡眠中にこの時間軸に移動してしまい、行き着いた先がたまたま私の隣なだけという感じだった。おかしい。彼は私が眠ったあとはいないはずなのに。財布も確認したが紙幣はまだそこにある。

 彼は眠っている。そのことも私を混乱させるのには充分すぎるように思う。私は彼の寝顔を初めて見た。本当にパラレルワールドから迷い込んだ少年のようだ。私と共通する点は何一つない。人間という類型から外れたところにいる。いっそ違う世界の住人としたほうがいい。構成元素がまるで違う。

 起こすのが忍びなかったのでそのままにする。日が傾いてきたせいか身体が冷える。押入れから毛布を出して彼にかける。私の頭痛は一眠りしたおかげで三分の一ほど引いた。残り三分の二はまだ活発にずきずきと脈を刻んでいる。起きてもすることがないのでもう一度彼の横に戻る。

 彼はカネが欲しい。

 私は彼が欲しい。

 彼は非売品である。

 なんだか三段論法のようだ。私と彼とカネは三角関係なのだろうか。カネを出しているのは私なのに、彼はカネしか見ていない。だがカネを出すのをやめれば彼は私から離れてしまう。カネという餌で釣らなければ彼は私の元を訪ねることはない。カネは単なる媒介物なのに、彼は媒介物に執着する。

「なんや、失敗したみたい」

 彼はゆっくり眼を開ける。充血の赤い線が疎ましい。彼の白い眼球を穢しているようで。

「きっと契約更新期なんだよ。滞納してるんだ」

「カネ、欲しい」

 やはり彼と睡魔との契約は切れかかっている。私は眠らなかったし眠れなかった。彼をパラレルワールドなんかに帰したくない。私は彼の脳天にずっと鼻をつけている。彼は離してほしい、と同義の言葉をすべて言い切ってしまう。異国のことばを使ったって伝わらないのだ。効果なし。硬貨なし。

「なあ、俺明日学校やから」

「明日は日曜だよ。僕に曜日感覚がないと思ってそういうことを言ったんだと思うけど」

「おっさんの曜日感覚のほうがずれとるん。俺のケータイ見たってよ。世界標準はそっち」

「確かに君の世界は明日が月曜かもしれない。火曜かもしれないし水曜かもしれない。木曜かもしれないし金曜かもしれない。だけど僕の世界は明日は日曜なんだ。いま君は僕の世界にいる。郷に入っては郷に従えっていうよね。そういうことだよ」

 彼は首を動かそうとする。私はそれを阻止する。

「俺のケータイ番号教えるさかいに。なあ、頼むわ」

「駄目だよ。僕は君の声が聞きたいんじゃない」

「メアドもつける」

「君じゃない人間が返信するかもしれない。それに僕は携帯電話は持ってない」

「パソコンあるやん」

「メールは好きじゃないんだ。偽者でも絶対わからない」

 彼は肩を動かそうとする。私はそれを阻止する。

「監禁したってもオモロないよ」

「監禁じゃない。今日一日だけ泊まってくれればそれでいい」

「ええよ。せやけどそないなことしたらもう会われへんね」

「そうやって乗り換えてきたんだね。僕は何人目? いや、何十人目かな」

「俺に執着してもええことないよ」

「突き放しても無理だよ。睡魔の魔力ももう僕には効かない」

 効かないはずだった。誤算。迂闊。調子に乗っていたとも言い換えられる。まるで頭蓋骨に全方向から衝撃を加えられたかのような潔さだった。いや、潔くはない。うっかりだ。それが正しい。私が眼醒めたとき彼はこの世界のどこにもおらず、また財布の中身もなんら変化がなかった。

 私は彼に見限られたのだ。


     6


 深海の底だってこんなに濁ってはいない。新月の夜だってこんなに暗くはない。

 彼が私の家を訪れなくなってどのくらい経ったのだろう。わからない。記憶がどんどん浸蝕されていって、気味の悪いごつごつした岩肌がのぞく。私から養分を吸い取って育った雑草で指を切ってしまう。どくどくと闇黒色の粘液が流れ出す。靴が片方だけ濁流の渦に呑み込まれてしまう。片方だけではおちおち道も歩けない。失った靴に限ってお気に入りだったりする。

 電話のベルと玄関のチャイムが同時に鳴ったらどちらを優先すべきか。そんなの決まっている。両方無視すればいい。万事解決。オールオッケイ。鼓膜は音から解放される。

 その片方は六番目にクビにした秘書だった。

 私は秘書など必要なかったのだが、何かの加減で血迷って事務所兼仕事場の出入り口の扉に≪秘書募集≫と書いて貼ってしまったのだ。酔っていたわけではない。酒は飲めないからきっと何か如何わしいものが憑依していたのだろう。

 当時私が住んでいた事務所兼仕事場はちょっとやそっと道を踏み外したくらいでは到底辿り着けないような入り組んだ道の更に入り組んだ先の先にあったため、そんな紙なんか誰も眼にしていないと思った。実際その紙を貼ったのはたった三日やそこらだったし、私の字は万人に対して読みづらいことに関してはそれこそ並ぶものなしの領域を極めているので、幸運にもそれを眼にしたところで意味が取れないのだ。

 事実、紙を剥がして一ヶ月は音も沙汰もなかった。しかし静かだったのはその一ヶ月だけ。安寧は壊されるために存在する。

 六人の秘書志願者がどっと一気に私の事務所兼仕事場を訪れ、一斉にぎゃあぎゃあと喚き出した。やれ私が先だっただの、やれあなたなんか帰りなさいよだの。私としてはうるさいこと以外に特に文句はなかった。なぜなら私がやおら腰を上げて面接するまでもなくたった一人を残して五人がそれこそ尻尾を巻いて帰ってしまったのだ。ものの十分だったと思う。数えていたわけではない。計っていたわけでも時計を睨んでいたわけでもない。

 彼女がそう言ったのだ。

 十分ほどお待たせ致しました、と。

 その一言で私は彼女が気に入り秘書に取り立てることにした。というわけで残った彼女は六番目ということになる。実際に私が手を下したわけではないが私が雇った秘書がクビにしたのだから私がクビにしたも同然だろう。

 しかし私がその事務所兼仕事場を離れるに当たって彼女もクビにした。期間は思い出せない。彼女に聞けば絶対に正確なところまで教えてくれるだろう。プロパガンダのようにくっきりした口調で。

 彼女は時計が好きだった。彼女の腕は毎日違う時計で飾られていた。だが別に時計コレクタだったわけではない。この形式段落第一文目の欠落部分を補うと、彼女は時計を買ってきてそれを一日で壊すのが好きだった、となる。ひょっとしたら時計の使い捨てを目指していたのかもしれない。

 彼女における時計の壊し方は破壊思想というよりはある意味美学が溢れていたように思う。彼女の住んでいるアパートにはロフトがあった。多くのロフト保持者がそうするようにまた彼女もロフトの上で睡眠をとっていたのだが、そんな彼女が朝起きて最初にすることは、枕元でけたたましく怒鳴り散らす目覚まし時計をロフトから落下させることだった。つい過去形で記してしまったがいま現在も実施しているものと見てまず相違ない。重力に屈した哀れな目覚まし時計は床に衝突して息を引き取る。即死だ。

 だが勘違いしないでほしい。彼女は決して目覚まし時計がうるさいからそれに腹を立ててその結果、発作的に目覚まし時計の息の根を止めることを続けてしまうわけではない。むしろ彼女は目覚まし時計が一番好きだった。だからこそ一瞬で息の根を止めてあげようと。それは愛情を示す方法であって決して目覚まし時計に積年の怨み辛みをぶつけているわけでもなんでもない。

 じりじりじり。

 ひゅう。

 がしゃん。

 しーん。

 ただこれだけのことだ。

 私は彼女の声が聞こえるまで布団の中にいた。彼女は私の家に遠慮もせずに上がりこんできた上に私の寝室にまで侵入してきた。不躾にもほどがある。まったく、誰の秘書だ。

「ぶりです先生。お変わりなく」

 きっと私が彼女をクビにしてから今現在までの時間を正確に述べてくれたのだと思うが、私はそんなお変わりない彼女に欠伸を見せ付けてやっていた最中だったので聴覚刺激が制限されていた。それに私は鰤ではないし、突然出し抜けに鰤ですとか言われても反応のしようがない。

「ついさっき電話が来たみたいなんだ。また来るかもしれないからその時は代わりに出てくれない?」

「いつの電話ですか」

「君が僕の家に殴り込んできたのとちょうど同時」

「それも私です」

 なんということだ。迷惑にもほどがある。彼女は玄関のチャイムを押しながら電話もかけたというのか。先ほどの文章を訂正しなければならない。

 その両方が六番目にクビにした彼女だった。

「いまなにしてんの?」

「先生とお話を」

「違う。僕がクビにしたあとどうしたかってこと」

「帰宅しました」

 私はついにベッドから跳ね起きる。布団を蹴って彼女にぶつけようと思ったのだが寝起きで方向感覚がずれた。湿った布団は彼女のいない方角に吹っ飛んだ。

「そうじゃない。僕にクビにされたあと君はどんな職業に就いたのかってことだよ」

「ニートです」

「ふうん。じゃあどうやって暮らしてるの?」

「パラサイトシングルですね。いま流行りですよ」

 私は完全に覚醒する。だがそれと同時に鉛のような頭痛が襲ってくる。彼のことを思い出してしまう。彼ならばこの瞬間に頭痛薬と水を私に持ってきてくれるのに。彼女はそんなこと気がつきもしない。私が頭痛持ちだということですら失念している。

「で、何の用?」

「先生がお呼びになったのでは?」

「どうして」

「夢で」

 私の頭痛が加速する。加速度はaと置くのだ。テストには出ないが憶えておいたほうがいいこともたまにある。

「正夢でしたね」

「君が勝手に正夢にしたんだよ。無理矢理実現させないで」

「お仕事は?」

「僕の話を聞いてくれ」

「はい」

 彼女は絨毯の上で正座する。また勘違いしたのだ。額面どおり受け取ると迷惑だからやめたほうがいい。今日は教訓が多い。

「遠慮せずにお話ください」

「帰れ」

「命令は一つに絞っていただけると」

「じゃあ僕の失ったものを捜してきてほしい」

「先生が夏に失くされたものに関しては、私は関与したくありませんが」

「大丈夫。秋だから」

 私はたっぷり時間をかけて、彼について憶えている情報をすべてアウトプットした。しかしそれでもB5一枚にも満たない。私の利き手が生み出す壊滅的な文字を平気な顔で読めるのは世の中で六人しかいない。そのひとりが彼女だ。平気な顔で読めない私は除くこととする。

「ヨシツネ君ですか」

「まさか知ってるとか言わないよね?」

「ファンですし」

「ファン?」

 きっと彼女の言うファンは愛好者という意味ではなく夏にくるくる回ってくれるあれや、台所の壁や天井でくるくる回ってくれるあれのことに決まっている。妙な名前の商品が出回っているものだ。

「見つけたらどうすればいいのですか」

「連れてきて」

「そうですか。なるほどちょっと会わないうちに先生も」

 臨時秘書というポストをちらつかせることで、ようやく彼女を追い払うことに成功した。私は信用も安心もしていない。だが彼女の素っ頓狂な訪問のおかげで少しだけ気を持ち直すことができた。感謝はしない。臨時とはいえ私の雇った秘書なのだからこのくらい当然だ。

 しかし万一、いや億一。やめよう兆一、彼女が彼を発見できたとする。そうしたらどうすればいいのだろう。彼は私を見限っており二度と私の下を訪れることはない。それは有無を言わさずの決定事項であり揺らぐことはあり得ない。

 彼を手に入れるのがカネでも力でも不可能だとしたら、いったい他にどんな方法が残されているのだ。

 熱めのシャワーを頭から被ってぼんやりする。浴室にある鏡が曇って見えなくなる。サウナのようになってきた。私はサウナが嫌いなので窓を少しだけ開けて換気する。

 サウナというと小学校の頃通っていたスイミングスクールを思い出す。泳ぐ時間が終わると決まってサウナに押し込められる。一緒に泳ぎを習っているクラスの子と一緒にぎゅうぎゅうのサウナ室にすし詰めにされて五分なり十分なり放置される。その時間が来るまで外に出られないのだ。コーチはピンク色の砂が入った砂時計を逆さにし、サウナ室の外で散らかったビート板やらを片付ける。最悪の時間だった。その強制拷問サウナが嫌で私はスイミングスクールをやめた。トラウマというやつかもしれない。しかし水泳自体は嫌いではない。サウナだけが厭なのだ。サウナに入ると一瞬で皮膚の表皮から水分が蒸発する。徐々に内臓まで干上がって最後に脳がやられる。それを週二で延々繰り返せば誰だってそのスイミングスクールに別れを告げたくなる。

 学ラン。それは実在する学校のはず。虚構ではない。彼の発言がまるごと虚構だったらそれも虚構だが確かめてみるだけの価値はある。秘書にやらせよう。私はまだ家から出たくない。出られない。もしかしたら彼が訪ねてくるかもしれない。いったん留守にしても意味がないこともわかっている。でも意味のない散歩をやめられない。儀式のように、アディクションのように。

 近所を一周して戻っても家は無人だった。玄関先にも誰もいない。彼が待ってくれていた定位置は正確にはどこだったのかわからなくなってしまった。

 なんだか様子が変だ。頭が痛くないときは妙なスイッチが入る。だから私は万年頭痛に悩まされていたいのだ。鎮痛剤のはずの頭痛薬も、頭痛を加速させるために飲んでいたようなものだから。

 郵便受けだ。

 私は庭の石畳を引き返す。木々から葉が落ちて視界が開けたのでこの季節だけ多少訪問しやすくなる。迷宮の入り口が緩和される。寒いので池の住人はどこかに行ってしまった。おそらく冬の間は暖かい世界に移住するのだろう。さながら渡り鯉だ。

 手紙が入っている。切手も宛名も差出人もない。何の変哲もなさそうな細長い茶封筒の中に地図が封入されている。その地図は手書きでもネット上の簡易地図をプリントアウトしたものでもなく、書店に並んでいる地図の本のとある一ページをむしり取って、そこに油性マジックで道順を示したものだった。黒い線はフリーハンドで乱暴に書き込まれている。元秘書のいたずらにしては風刺が効きすぎている。例え彼女が三百回生まれ変わってもこんな芸当は思いつかない。

 指定された場所はすぐにわかった。歩くとやや遠いがバスを使用するほどではない。だが私は車輪が四つ以上ある車両に乗ると宿命的に酔ってしまうのでそもそもバスという選択肢はなかった。もちろんヒッチハイクという世にも積極的な選択肢は早々に抹消してある。

 私の頭痛はその目的地に近づくたびに緩和していった。痛みの元に直にアプローチするために頭蓋骨に穴を空け、そこからずきずきを吸い取られているようだった。腐れ縁的な長年の連れを眼の前で徐々に解体されているが如き最悪の気分。

 私の低い身長の三倍はあろうかという大きな門から敷地内に踏む込むと竹林が広がっていた。竹は尖った鉛筆のように天を突き刺しそこいらの電柱よりずっとどっしりと長い。その合間を縫って楕円の飛び石が敷かれている。光は一切合財竹たちが独占しているのでとても昼間とは思えない。もしかしたら一瞬で夜になってしまったのかもしれない。

 視界が開けたところで分かれ道になっている。地図の切れ端は大門のところで案内を放棄してしまったため頼りになるのは頭痛の引いた脳だけだ。しかしどちらに進んでも行き止まりのような気がする。俄かに引き返したくなるがいま辿ってきた道すら行き止まりのように思えてくる。

「雪降らはったら綺麗ですよ」

 突然石灯籠から飛び出たみたいな登場の仕方だった。いまさっき左右を確認した際には人の気配を感じなかったはずなのに。石灯籠でないなら竹だろう。

「ツネはんがお世話んならはったようで」

「あの、それは偽名では」

「本名かて偽名や思いますけど」

 彼と似通った抑揚だということにようやく気がつく。だが彼のほうがずっと早口でせっかちな口調だ。着物を着て艶のある黒髪を結わえた女は低反発枕のように微笑む。

「ツネはんが行方不明なんどす。おらはる場所知りまへんか」

「行方不明?」

「まあ行方不明ゆいましてもウチのとこには懐いてくれません。ウチのお友だちが捜してはるさかい、手伝うたろ思いまして」

「友だちですか」

「愛人やゆうたらようわかります?」

「あなたの?」

「ウチのやのうたらそら誰の愛人やろね」

 粉薬のような沈黙が続く。

 彼女の年齢は低く見積もって二十代前半、高く見積もると四十代前半。そのどこでも間違っているのかもしれない。間違い探しなのに基本となる絵がわざと提示されていない意地悪クイズみたいだった。

「ヨシツネ君のお母様でしょうか」

「そんなん答えたらウチの正体がバレます」

「僕のことはどれくらいお調べに?」

「お仕事辞めはったことくらいでしょか。ウチのお友だちも嘆いてます。あれはこれから伸びるゆうて」

「僕に何をしろと」

「地球さん傷つけるんはあかんえ」

 一瞬意味がわからなかった。着物の女は私の足元をちらりと見遣る。そこでようやく思い当たって私は堀に掘った穴に土を戻した。おやつの骨を埋め損ねたような跡が残る。

「ツネはんにいくらぼられました?」

「通過した金額は数えないことにしてるので」

「センセがええんやったら差し上げます」

「目的語はあなたの愛人のことじゃないでしょうね」

「それはもう、センセのお好きに」

「そんなことを言うためにひきこもりの僕を呼んだわけですか」

「あらまあ、ひきこもりやったんですか」

 脳でちりちり音がする。指の先が冷たくなって末端から死んでいくみたいだった。ぺらぺらのコートの前を閉じる。寒いほうが好きなのだがいまはそうでもなかった。

「あなたはヨシツネ君がどうなろうとどうでもいい。でもとりあえずいなくなる前のヨシツネ君が最後に会っていたであろう僕に接触することによって何らかの情報を手に入れようとしている。つまりあなたが知りたいのはヨシツネ君の現在の居場所ではなく、ヨシツネ君の足取りなんじゃないですか」

「知らんほうがええこともありますよ」

「何か盗まれたんでしょう。大事なものを。僕にはそれを訊く権利くらいはあると思いますが」

 既視感だらけの表情だった。もし眼前の女といなくなった彼に血縁関係がないのなら、人類というのは実に差異のない生物だと結論付けるしかなくなる。そのくらいそっくりだった。おかげで私のかさぶたが剥がれかかっている。黒い血がじわりと滲む。

 着物女は向かって右の道をゆっくりと進む。私は足元を眺めながら三メートルほど間隔をとってついていく。

「ツネはんはウチのあにさんのお子です。ホンマよう似てはって。瓜二つですわ。せやけどあにさんは子育てが得意やのうてな。ウチが預かることにしまして」

「そのお兄さんとやらはご存命で?」

「さあどやろねえ。とっくに縁切ったさかいに。まあ生きてはってもええんやけど、ウチはもう会いたない」

「ヨシツネ君の母親は」

「家庭環境から攻めてもあきまへん。そんなん何の意味もない。センセはツネはんを手に入れたい。ウチはツネはんが盗んだもんを取り返したい。ただそれだけの話どす」

 いつの間にか住居らしき建物の前まで来ていた。瓦の屋根が垣根越しにのぞく。着物女が足を止めて振り返る。その顔は笑ってもいなかったし怒ってもいなかった。もちろん哀しみでもなかった。動物園にいる象だってこんな顔はしない。

「センセ、もう帰りましょ」

「何を盗られたんですか。それだけ聞いて帰ります」

「信仰です」

「信仰?」

「ウチはたいていここにおります。用はお友だちに任せてのんびり隠居ですわ。ええお返事待っとります」

 着物女はゆっくりお辞儀して垣根の向こう側に消えてしまった。時間という概念を根こそぎ廃止させようと思ったら彼女に依頼するのが賢明だろう。それでも駄目なら秘書に頼めばいい。彼女ならいつでも時計の息の根を止めてくれる。たとえ朝でなくても。

 浦島太郎の気持ちが一瞬だけわかったような気がしたがすぐに忘れてしまった。理解というのはそんなものかもしれない。幻想なのだ。そもそもが誤解だというのがコミュニケーションの大前提であり、会話が堂々巡りをしていると気づいても結局また違うドードー鳥の主催する堂々巡りレースに参加している。会議は踊るされど進まず。どこにも行けないしどこに行くべきかもわからない。

 彼を見つけるのは絶対に不可能だ。そんなことは、私がこんなわけのわからない場所に来る前からわかっていたことだった。


     7


 話を整理する気にもなれない。整理するだけの材料がない。彼の叔母と思しき人物の意図も的を射ない。もう一人くらい関係者に話を聞くべきだと思うのだが当てがない。候補としては彼の叔母と思しき人物のお友だちとやらである。もしかしたらあの家にいたのかもしれない。無理にでも訪問していればよかったのだ。

 もはや日課となった散歩の際にもう一度あの場所に行ってみる。巨大な門は固く閉ざされていた。彼はここに住んでいたのだろうか。懐いていないといっても叔母の家なら住んでいてもおかしくない。

 私はそこはかとない嫉妬に駆られる。門の柱に蹴りを入れてから家路を辿る。気になるのは叔母よりもそのお友だちだ。どうして叔母の愛人なんかが彼を捜さなければいけないのだろうか。やはりそのお友だちとやらと関係があったのだろうか。悔しい。彼は私以外の人間と寝ていたのだ。それが叔母の愛人だったのだ。

 午後になって臨時秘書が何の予兆もなく忍び込んできた。訪ねてきたのでもお邪魔したのでもない。本当に忍び込んできたのだ。カギがかかっていなかった窓を探し当てて。

「どこから入ってくるんだ」

「見ての通りかと」

 臨時秘書は小型のノートパソコンを抱えていた。それを用いて待ってましたの情報をもたらしてくれるのかと思ったらちっともそんな気配はなかった。彼女は私の家に忍び込むに当たってたまたまノートパソコンを持っていただけだったのだ。或いはそれはお付きか用心棒なのかもしれない。彼女にもしものときがあるとそれは牙をむいて襲い掛かってくるのだ。言動に気をつけようか。

「何か進展があったの?」

「家出じゃないですか」

「どうしてそう思うのさ」

「そういう設定なら御の字ですし」

「御の字?」

 臨時秘書は突如脚を崩す。早くも痺れてしまったようだ。痺れるくらいなら最初から正座をしなければいいのに。座布団があると発作的に正座をしてしまう人種なのだろう。

「君はやる気があるのかないのかどっちなの?」

「ありますよ。先生のお望みならば私の全力で当たって砕けてしまいたいという所存です」

 私は頭が痛くなってきた。それが天然臨時秘書のせいなのか、これから雨になるという予言的なものなのかいまの段階ではなんとも判断のしようがない。

「信仰というのが肝ですね」

「どういう意味かわかる?」

「辞書をお引きになっては?」

 駄目だ。私のなけなしのエネルギィが搾取されている。

「私の電子辞書を貸しましょうか?」

「あの家については?」

「あの家というのは?」

「ヨシツネ君の叔母だかなんだかの家だよ。家というより寺院みたいじゃないかな。よくわからないけど」

「それが信仰では?」

「違うさ。あの人はヨシツネ君が目的じゃないんだ。話聞いてないだろ」

 臨時秘書は煮え切らない欠伸をした。

「話を変えよう。学ランは?」

「いいですよね」

「君の趣味はどうでもいいよ。そのくらいは調べてくれたんだろうね」

「ええはい、学ランならお任せください。近隣に三つあります。中学が二つと高校が一つ」

 臨時秘書はついにノートパソコンに手を触れた。慣れた手つきでキーボードを叩き何らかの画像を表示させる。ネット上のサイトのようだった。

「まさかとは思うけどこれ」

「私の管理するサイトです。URLは後ほど」

「要らないよ。で、どれ?」

「これです」

 絶対に盗撮だ。学ランを着た生徒の写真がわけのわからないコメント付きで並んでいる。私はそのコメントの意味を取らないように写真だけを凝視する。

「これは肖像権とかいろいろ大丈夫なの?」

「よくご覧下さい先生。映っているのは人ではありません。学ランです」

「確かにそうだけど。君は僕のとこ辞めてからこそこそとこういうことをしてたわけ?」

「そんな俄かマニアと一緒にしないで下さい。私のワイフワークは学ランから始まってブレザで終わるわけで」

 他にも響くものがあるらしい。もうどうでもよくなってきた。頭はさらにずきずきしてくる。

「ありませんか?」

「ぼやけててわからないよ。実物とか」

 そこまで言って後悔した。臨時秘書は急に立ち上がって窓から飛び出していった。止めるべきだったのだ。道を歩いている学ランの生徒を拉致してくるのかもしれない。犯罪抑止のためカギをかけようかと思った矢先に臨時秘書が戻ってきた。今度は大きなスーツケースを引きずっている。

「どこまで行ってきたの?」

「私の車です。万が一のために持って来てよかったです」

 スーツケースの中には学ランが三着入っていた。臨時秘書はそれをいそいそと取り出し勝手に畳の上に展示し始める。

 しかし私はこれらのコアな収集物品よりも彼女が車を運転できるということのほうが衝撃的だった。彼女が運転席でハンドルやらステアリングやらを握っている様が想像できない。しかもどこに駐車したのだろう。私は車を持っていないから家に駐車場はないし、この辺りは道が狭く一方通行が多いから駐車禁止になっているはずだが。レッカ移動になっていたら私のせいになったりして。

「どれですか?」

「違いがわからないんだけど」

「違いますよ。ほらこれはここのデザインが」

「いい。ちょっと黙っててくれないか」

 必死に記憶の断片を手繰り寄せる。彼はいつも学ランを羽織っていた。それは実在する学校のものだと。しかし何度映像を再生させても学ランということとその色が黒だったということくらいしか思い出せない。私は学ランなんか見ていなかったのだ。私が見ていたのは彼の周辺ではなく彼そのもの。

「学ランて勝手に作ったりできる?」

「勝手に作るほうが多いですよ」

「君は詳しいの、そういうの」

「私は作ったり着たりするのではなくて観賞のほうが主ですからね。でもわざわざコスプレして先生のところを訪問されるとはなかなかわかってますね彼は」

 全力で頭痛を訴えることによって臨時秘書を追い出すことに成功した。二度と来るなと言えないところが私の甘いところだと思う。

 臨時秘書のことは嫌いなわけではない。彼女の発している周波数がもの珍しいだけなのかもしれないが、とにかく厭ではない。事務所兼仕事場にいたときも彼女のおかげで退屈しなかった。

 あの仕事はもうしない。絶対にしたくない。

 人捜し、と思う。こんなことならあの時電話番号なりメルアドなりを聞いておけばよかった。意地を張ると碌なことがない。

 畳の上に寝転がる。天井の染みを数えながら頭蓋骨の軋みを感じる。頭痛を和らげれば何か浮かぶかもしれない。多少不快になるくらいは覚悟する。台所に行って頭痛薬と水を流し込む。少し眠ったほうがいい。

 起きてから一番最初に視界に入ったのは、天井でも自分の手でもなく知らない男だった。これなら臨時秘書のほうが数億倍マシだろう。彼女は終末論的に気が利かないが正体については未知ではない。

 私はわざと眼を合わさないように焦点をぼやかしていた。遠くを見るつもりで近くを見るのだ。その逆に、近くを見るつもりで遠くを見たって構わない。その時はたまたま遠くを見るつもりで近くを見ていただけ。

「勝手に上がってしまい申し訳ございません」

「どこから入ったんでしょうか」

 男が指したのは案の定縁側の窓だった。寝る前にカギを確認する習慣をつけようか。

 私は体を起こして適当に髪を整える。男は微動だにせずに正座している。背中に物差しが入っているのだ。或いは鉄板。バーベキュでもするつもりなのか人の家の庭で。

「奥様のご希望で一度ご挨拶にと伺った次第です」

 男は完璧な仕草で名刺を差し出す。手品のようだった。瞬きしていたので手の中から出てきたように見えた。私はそれを一瞬だけ見るふりをしてテーブルの上に置く。捨ててもよかったのだがゴミ箱が思いのほか遠かった。折って紙飛行機にしてもそこまでは飛ばせない。

「ご大層な仕事ですね」

「いえ、先生ほどではございません。先生のご活躍は」

「挨拶はいいから。ヨシツネ君の話だよね」

「はい。私共でも只今全力で捜しておりますがまだ」

 ダークスーツの男はきびきびとした口調でわたくし、と発音した。駅に行けば少なくとも十人は似た外見の男を見かける。表情が不変で会話がしにくい。その他大勢、というプレートを首からかけている一般大衆を模している。

「催促でしょうか」

「いえ、奥様の希望で」

「だから、その奥様がわざわざ僕のところにあなたを派遣したということはそういうことでしょう。捜せったって無理ですよ。あなた方のほうがずっと手掛かりも多い」

「率直に申しますと、ヨシツネ様は奥様を好いておられません。確かに親権は奥様にありますが、ヨシツネ様はお屋敷に踏み込まれたことは一切ありません。言いにくいのですがその、毎日違う家を転々となさっていたようで」

「その流れで僕のところに来た、と。だから把握している最後の足取りの僕になら捜せるんじゃないかってことだろうか」

「その通りです。何か手掛かりなど」

「あったらとっくに見つけてるよ。僕はすごく不愉快なんだ。どうしてかわかってもらえてるかな」

「眠っておられたところを訪問したのは本当に申しわけありませんでした。しかし私たちは一刻も早くヨシツネ様を」

「そう考えるんだったら僕に何らかの情報を残してくれないだろうか。僕が彼について知ってるのはその偽名みたいな名前とおカネ好きだってことくらいで」

 ダークスーツでメガネをかけた男は咳払いをした。場面転換の合図だったらいいのだが。

「それは出来ません。出来る限り話すな、と奥様にくれぐれも申し付けられておりまして」

 私は溜息をついた。男は瞬きもしない。

「あなたたちは捜す気があるんですか。ヨシツネ君については何も言えない。だけど僕に捜せ。無理だよ。人捜しのプロ、警察やそれこそ探偵にでも頼めば?」

「あの集団に見つけられるようだったら私たちも苦労はしません。ヨシツネ様は完璧なのです。それは先生が一番よくご存知でしょう。実は県内にいるのかすら怪しいのです」

「それはいないでしょうね。ここ県じゃないんですから」

 ジョークのつもりだったが男は笑わない。彼らの辞書には笑うという動詞が掲載されていないのだろう。または、たまにふとしたきっかけで人語が通じなくなるか。後者に臨時秘書の今月分の給料を賭けてしまえ。

「ヨシツネ君は家出をしたかったんじゃないですか。あなた方から離れたくて。だから僕にカネを要求した。そういう仮説はもう棄却ですか」

「先生は家出とお考えですか?」

「僕の秘書の説だよ。面白かったから披露してみただけ。結構的を射ているんじゃないかな。引き取られた叔母が嫌い。勿論その般化であなた方の組織も嫌い。おカネを欲してた理由だって家出資金だとしたら納得がいく」

 男は沈黙した。だが沈黙というよりは切断だった。急いで予備電源に切り替えているに違いない。こっちのコードをあっち、あっちのコードをこっちに、といった具合に。

「ではどこに行かれたのでしょう」

「だからそれをあなた方が血眼になっても突き止めるべきだろうに。奥様の信仰が盗まれたそうですね。まずいんじゃないですか」

「協力していただけませんか。先生のお力ならば」

「僕はあれは辞めたんだ。その辺の事情は当事者の僕なんかよりあなたたちのほうが熟知しているはずだけどね」

 どうもあの奥様といいこの派遣男といい、私の頭痛を和らげるのが得意である。トルマリンでも身に付けているのだろうか。或いは身体の構成物質がトルマリンか。

「帰ってくれないかな。迷惑なんだ」

「奥様からのご伝言を忘れておりました。先生がヨシツネ様を見つけられた暁には」

「親権なんか要らないよ。僕は彼と親子になりたいわけじゃないんだ。それにその条件はもう聞いてる。断ったつもりだけどそういうふうに伝わってないみたいだね」

 男はメガネのフレームを少し上げた。左手を上着のポケットの中に入れたがなかなか出そうとしない。左手に何らかの機能的故障が発生してそれを水面下でこっそり直しているみたいだった。

「ヨシツネ様のお父上は生きております」

「その情報がなんだろう」

「私たちが考えた最も有力な仮説がそれなのです。しかし私たちはアプローチする術を持たない。そこで先生にそれを依頼したく参った次第です」

「どうしてそれを一番先に言わないの?」

「失礼ながら様子を見させていただきました。先生がどれほどヨシツネ様にその、執着していらっしゃるのかを測っていたのです。重ねてお詫び申し上げます」

 男は仰々しく頭を下げる。左手はまだ出さない。

「そういうのはすごく不愉快だ。フェアじゃないし」

「お言葉ですが先生、私たちが目指しているのは公平ではありません。利益でもございません」

「公平も利益も求めていない組織なんて碌なもんじゃないね。さっきの話はお断りします。帰ってください」

 私は座布団を枕に横になる。眼も瞑ってやった。

 しかし男はいっこうに移動する気配がない。それどころか頭の上のほうでがさごそ音を立てられていて耳障り極まりない。

「参考までに資料を置いていきます。三日以内に出発なされないのであれば回収に参ります」

「いま回収してくれて構わないけど」

「もう一度来るための口実です。それと先生、あの門は歴史的にも文化的にも相当の価値がございますので丁重に扱っていただきたく思います。それでは長々と失礼致しました」

 返事をする気にもなれない。男は来たときと同じく縁側から出て行った。遠くで車のエンジン音が聞こえたような気になってから私はむっくりと起き上がって名刺を破り捨てた。火を点けてやりたかったのだが火事が怖いのでやめた。

 置き去りにされたのは真っ黒のファイルだった。スクラップブックというよりはレシピノートのような雰囲気だ。挟まっていた紙は既視感ばりばりの地図の切れ端。黒い油性マジックの荒々しい線が道順を示している。ファイルごと置いていく意味はなかったと思う。挟まっていたのはただそれだけだった。逆さにして振っても何も落ちてこない。

 もしかしたらこのファイルには発信機が仕掛けられているのかもしれない。その可能性はかなり高い。門の入り口にも監視カメラがあったのだ。私の情けない蹴りが見られていた。じろじろ観察されていたのはひどく気分が悪い。

 さっきのダークスーツ男は何者だろう。私は脳の九割以上でそれについて仮説検定をしていたため、残りの一割以下で男と話をしていたにすぎない。あの如何わしい名刺を鵜呑みにするなら奥様とやらの側近のひとりということになるが何となく納得がいかない。いっそ奥様の愛人であり血眼になって彼を捜しているのは他ならぬ私だ、と言ってくれたほうがすっきりした。きっとそうに違いない。向こう一週間は落ち込むようなスペルを捻じ込んでやればよかった。

 破られた地図が切り取った地面は隣県のものだった。彼の叔母率いるダークスーツ男たちの組織の推理が合っていたとして、彼は彼の父親の元に何をしに行ったというのだろう。

 私の勘はそこにいないと囁いている。頭痛がしないので信用に値する。若者が結婚の許しを得に行くわけではないのだから彼の父親、それも縁を切った父親に会いに行くことはあり得ないと思う。おそらく私を彼の父親に会わせることが目的なのだ。彼の捜索は元より二の次であり、副次的要因である。見つかったらいいな、的な捜索意識だから見つかるものも見つからない。

 本当に、心から、虫唾が走って全身がかゆくなるほど不服だが、私は次の日電車に乗った。


      8


 頭がおかしくなりそうだった。すでに遅かったのかもしれない。つまり私は自分が頭がおかしいということをたったいま再認識しただけなのであって、この瞬間たったいま頭がおかしくなったわけではなかった。単に気がつかなかっただけだ。

 それを気づかせてくれたのは永久機関を思わせる白黒の無声映画だった。一本一本は十分弱と決して長くないのだが、それをぶっ続けに五本も六本も観ると結果として過ぎた時間は一時間になってしまう。

 そこは劇場とは程遠い簡易施設であり、壁が三方向にしかなく照明も完全に落ちていない。横に五つ、縦に四つぎいぎいと軋むパイプ椅子がおざなりに並んでいる。左右に木耳のような暗幕が垂れている。スクリーンに向かい合ったときに背を向ける方向が隣の空間と繋がっており、もし途中で厭になった場合容易く抜け出せる仕組みになっている。

 だが途中でやめることは出来なかった。もうやめてくれ、と叫びたいのだが椅子と背中が接着されて、眼球が視神経ごとスクリーンに固定されている。

 上映されているのは、筋も何もない、とにかくわけのわからない映像の断片である。監視カメラの映像のほうがよっぽどスリリングだし、平和な家族団らんドラマを見ていたほうがよっぽどダイナミックである。特徴といえばストーリィらしいストーリィがなく、次に何が起きるのか誰も想像し得なかったことが繰り広げられるくらいである。

 そう書くとなんだ面白そうじゃないか、と思われるかもしれないが絶対にそんなことはない。一度観てみればいい。観賞後に残るのはねっとりとした疲労感だけだ。

 比較的憶えているのは。ひたすら海星の回転を記録したものと、ひたすらプールで水と戯れる年配の肥満気味の女性たちの映像。光の点滅を映したものもあったかもしれない。

 とにかくそれらに共通する試みは徹底的に意味を排しているところにある。海星の回転だろうが、プールで女性がはしゃごうが、光がちかちかしようがどうだっていいのだ。それが終わってスクリーンにプロジェクタの光が当たらなくなると、私は自分から意味という物質を根こそぎ剥奪されたかのような心細い気持ちになった。

 頭の中に真っ白で空虚な空白が居座っている。足元がふらふらして階段から転げ落ちそうになった。壁を触って体を支えるが、体の重さを感じない。階段から転げ落ちてみないと私の重さを感じられないような気がした。軽いのだ。足と床の間に空気があったとしてもなんらおかしくない。

 ふわふわする浮遊感。ざわざわする焦燥感。

「なんや小さいなあ」

「写真は身長がバレませんからね」

「写真? 見たような気もするよ。いつやったかなあ。先生の噂から判断して勝手にイメージを作ってしもた。その像からあまりにかけ離れとったんが身長やったから、思わず口から出たらし。気ィを悪くされたんなら謝る」

「いいえ、慣れてます」

 眼前の人物を訪問して真っ先に浮かんできたのが、私が学生のとき初めてひとりで美術館に入ったときの記憶だった。

 私の好きな芸術家の企画展が催されていたのだが、いくらその作品が好きだとはいえあんなわけのわからない自作映画など観るべきではなかったのだ。美術館を出て家に帰ってくるまでの記憶がすっぽり抜け落ちている。どうやって辿り着いたのかちっとも思い出せない。あたかも瞬間移動して帰宅したかのようにそこだけ途切れている。

 ただ、その日の夕方に大きな地震があったのは憶えている。私の利用した路線は全面止まってしまったのだが、運よく足止めされずに済んだ。頭痛がないときのいつものあれがさらに強化されたらしい。もし夕刻まで美術館にいたのなら私は地震の影響で深夜まで家に帰ることが出来なかったのだから。

「ヨシツネ君の生物学上の父親だと伺いましたが」

「あれはまだ叔母やゆうとるんかな」

「叔母じゃないんですか」

「叔母なら叔母でもええけど。妹ゆわれるんは気に入らん。あいつのほうが年上のはずやから」

 日常で話しているのは標準語なのだろう。たまに彼や彼の叔母と似たような抑揚が入るのは生まれ育った環境の名残のように思われる。生まれた地域に帰れば彼と同じ抑揚に戻るかもしれない。

「ツネなら来てない。見ての通り、他所もんは入れんようにしとるから。先生は特別に許可したけど、本当は誰も入れないし入れたくないんよ」

「僕だって出来れば来たくなかった。強制と脅迫で仕方なく訪問させてもらっただけなんです。いないなら帰ります」

「まあ待ちいな先生。せっかく会えたんやから少し話を」

「生憎ですが僕はあなたと話すような話題も必要も感じていません。失礼します」

 甲高い声が反響する。細く白い背中。

 この過剰に薄暗い空間に足を踏み入れたときからずっと無視していたつもりだが、聴覚も視覚もなかなかゆうことを聞いてくれない。彼らは受容器だから仕方がないのだ。受け取るのが仕事でありそれ以外の意味づけは彼らの受け持つところではない。それをやっているのは脳である。基本的には脳がいけないのだ。

 和服の男は瞼の上から両眼を押さえて息を吐いた。

「たまには構ってやらないと役に立たななる」

「そういうのは僕が居ないところでやったらいかがですか」

「さっきまで誰もおらんかった。先生の訪問するタイミングの問題やろね。最初は気になるがまあ慣れる」

「慣れたくもありませんね。帰ってよろしいでしょうか」

 和服の男は脇にあった受話器を取って耳に当てる。一言二言適当に述べて電話を切ると、後ろの襖がするすると開いた。

「先生が暇そうだ。持て成してあげんさい」

「かしこまりました」

「僕は帰りたいんですが」

 私は和服の男に話したつもりだったが、襖は新たに呼ばれた若者によって音もなく閉められてしまった。

 仕方がないので黒光りする床を睨みながら廊下を進む。壁にかかっている絵画が私の好きな芸術家のものが多くてすごく厭だった。あの和服の男と同じ趣味を持っているかと思うと吐き気がした。頭痛は感じない。やはりあの自称叔母や側近たちと同属元素で構成されているのだ。

「あの、先生は」

「気にしないで」

「ですが僕は檀那さまから」

「放っといてくれないかな。僕はこんな場所一刻も早く立ち去りたいんだ」

 前を歩く若者は本当に若かった。すらりとした細身であり、十代の少年にしか見えない。複雑に絡み合ってほどけなくなった蛇のような事情で中学だの高校だのを中退し、ここに転がり込まされたみたいだった。おそらく読みは当たっている。

「君は何歳?」

「お答えできません。すみません」

「口止めされてるの?」

「言わないほうがいいらしいのです」

「いい、は誰にとってのいい?」

「もちろん檀那さまです」

 案内されたのは離れらしき家屋だった。手入れの行き届きすぎている庭に雪が残っている。白い部分がまだ多いということはごく最近降ったのだろう。これが人工雪だったらもう閉口するしかない。実際もう何も喋りたくなくなっていた。

 少年はどこからともなく急須と湯飲みを持ってきて茶を淹れてくれる。

「僕でないほうがよろしいでしょうか」

「誰でも同じだよ。ただ、君の檀那様とやらはこだわりがあるみたいだけど」

「あの、じゃあ僕は」

「持ち場に帰っていいよ。持ち場があれば、の話だけどさ」

 少年の視線が行ったり来たりする。天井と畳と台と座布団と自分の手元を見てから、私の顔を申し訳なさそうに見た。絶対的で不可避な命令を待っているときの顔だ。私はそれに気づかないふりをして湯飲みを口に運ぶ。熱すぎて飲めなかった。

「もし差し支えなければ教えてほしいんだけど、君はどのくらい前からここにいるの?」

「つい最近こちらに」

「ヨシツネ君て知ってる?」

 少年の表情が曇った。両肩が痙攣したのを隠すように速やかに足に手を遣る。痺れたふりをしているのだ。しかし誤魔化しきれていないのを重々承知しているのだろう。俯いて黙ってしまう。

「言えないんだね。檀那様とやらに口止めされてるんだ」

「すみません」

「顔を合わせたことはある? 喋ったこととか」

「すみません」

「でも君がここで謝ると肯定してることになるよ」

「ご想像される分には構いません。僕が勝手な判断に基づいて言うことを禁じられているだけですので」

「君の話もいけないのかな?」

「いいえ、ある程度は」

「じゃあそのある程度の話を聞きたい。君の判断で僕に話してもいいことの境界を示してくれないかな」

「何か質問を」

「名前は? 本名じゃなくていいよ」

「ありません」

「え?」

「まだ名前はいただけません」

「てことは名前がある人もいるわけだね。君はまだなんだ」

 少年はちらりと湯飲みを見る。飲んでくれませんか、と言っているみたいに思えた。

「猫舌なんだよ」

「ではもう少し冷めたものに」

「いいよ。別に喉が渇いているわけじゃないし」

「でも僕は」

「何か入れたよね? 何が入ってるの?」

 少年は私と湯飲みを見比べて動けなくなっている。カテゴリの違うものを比べたって差異が見つかるわけはないのに。私は湯飲みを持って縁側に出る。盆栽の松に目掛けて中身をぶちまけた。少年があ、とか細い声を漏らすのが聞こえた。

「心配ないよ。檀那様とやらには言わない。僕はこの緑茶を美味しくいただいた。それでいい?」

「でも」

「ここには何人くらい人がいるの?」

「やっぱり僕じゃ」

「そうじゃない。例えここに案内してくれたのが君じゃなかったとしてもお茶なんか飲まない。知らない人から食べ物を享受されるときは注意したほうがいいっていうのが僕の経験則だから。こんなところで死んだら洒落にもならない」

 少年の顔が蒼白くなる。緑茶の中に彼の魂が入っていたとか、そうことではあるまい。小刻みにかたかた震えている。確かに離れは冷えるが周囲と不釣合いな電気ストーブが点いているので大丈夫だと思う。

 ストーブの真ん前に座っているため背中が焼けそうに熱い。操作の仕方がわからないので移動することにする。

「折檻とかあるの?」

 少年は首を振る。折檻が厭だ、という意味ではなくそんなこと考えられない、という意味で振ったのだと思う。

「大丈夫だよ。僕が言っといてあげるから」

「どうしよう」

 声は届いていない。少年はここではない場所を見て怯えている。

 悪いことをしてしまっただろうか。だが私も命が惜しい。少なくとも彼を見つけ出すまでは生きていたい。そのためにこんなわけのわからない屋敷を訪問したのだ。彼の自称叔母の手の平でくるりと踊ってみせなければ彼に会わせてもらえないのだから。

「どうすれば名前がもらえるの?」

「え、あ」

「お得意先を増やすわけでしょ。営業みたいだね」

 私から遠いほうの障子が開いた。少年は電気が走ったように立ち上がる。顔を出したのは先ほどの和服の男であり、少年を見遣って卑下したような笑い方をした。雨上がりに道端で潰れていたカエルをさらに踏みつけるみたいな残酷さだった。

「先生を持て成せゆうたはずや。耳ないんか」

「ごめんなさい」

「消えろ」

「すみません、僕は」

「往ね」

 少年が泣きそうな顔で額を畳につける。涙は出ていないがすでに破裂寸前だろう。

「あのですね、僕のせいで彼が追い出されたり嫌な思いをするのなら非常に心苦しいんですが」

「ホンマ先生は優しいな。ええよ。今日のとこは先生のお顔に免じて許したるよ。もうこないな真似すんなよお」

 少年はよろよろと力なく立ち上がって私と和服の男に三回ずつ頭を下げて部屋を出て行った。

 和服の男はふんともすんとも言わなかった。この男は少年のことを同じ種族だとは思っていない。彼が死んだら野山に捨てて調教済みカラスによってたかって啄ばませるだろう。それを見ながら平気な顔で酒盛りをするのだ。

「あれはお気に召さんかったんか」

「誰であっても気に入りませんけど」

「ツネに似てる思うたんやけど単なる失礼やったね」

「儲かるんですか」

「儲からなやらん。ツネに逃げられたんは誤算やった」

「息子の扱い方が間違ってませんか。だからあの人に」

「あいつもやっとることはおんなじ。縄張りがちゃうだけ」

「連れ戻すことは考えなかったんですか」

「無理に連れ戻しても使えへん。そんなら気ィが変わるまで誠意ゆうもんみせたほうがええ。いまは放任期」

「引き取られた家からも逃げたそうですがチャンスでは?」

「ツネはそんなにえかったんか、先生」

「いくらですか」

「買うてくれるゆうお得意さんはおるよ。そらまあ腐るほど。俺はできるだけ沢山の人と仲良うしたいね。そのほうが」

「儲かりますね」

 和服男は笑う。その顔が彼にそっくりですごく厭だった。

 自称彼の叔母の発言が浮かぶ。確かに瓜二つだった。口の両端だけを上げて笑うという行動まで。

「居場所知ってるんですね」

「先生に任せるわ」

「帰ってもよろしいですね」

「そらまどうぞご贔屓に」

 庭の雪は絶対に人工だ。天候もある程度はカネで買える。

 玄関まで通じている廊下に私が彼に勧められて買ったあの絵と同じものがあった。同じレプリカでも飾る場所によって印象がずいぶん変わる。靴を履いていたら、離れに案内してくれた少年がこっそり顔を出した。眼の周りが赤く腫れている。ずいぶん泣いたのだろう。

「名前つけてもらえるといいね」

「あ、はい。お気をつけて」

「ヨシツネ君が見つからなかったら君にしようかな」

 少年の顔がほんの少し緩む。確かに笑顔だけなら彼に似ているかもしれない。同じ遺伝子が入っているという可能性もある。

 敷地の外に出た瞬間に激しい頭痛が襲ってきた。頭蓋骨の両側からキリで穴を開けられているみたいだった。このままでは貫通してしまう。私は路肩で蹲る。風がびゅうびゅうと吹き付けて寒いはずなのに額だけが異常に熱い。頭と足の先の温度差がありすぎる。さながら月だ。水星でも金星でもいい。強引に塞き止められていた痛みが一気に押し寄せている。もう頭痛薬なんか何の意味もない。吐き気もしてくる。三歩進む度に五分蹲る。駅まで辿り着くことが出来ない。

 それを意識した途端どうでもよくなってきた。移動に興味が持てなくなったのだ。人も車も通らない道があるとすればそれは誰のための道路だろう。地図に記すための道路だろうか。道路を造る人々のための道路だろうか。なんとも形而上学的な道路だ。

 枯れ葉が散らばる合間に小径を発見する。来るときは気がつかなかった。一本道の分岐として存在しているのだから気がついてもよさそうなのに。緩やかな坂になっている。下っているのだ。遠くで水の音がする。単に喉が渇いただけかもしれない。

 狭い道だ。行き違いは出来ないだろう。両脇に鼻の辺りを撫でる枯れ草があってくしゃみが出そうだった。こういうときにだけ背が低いことを思い出す。和服男に指摘されたことはもう忘れた。

 泥のぬかるみ具合がひどくなってきた。水の音も近い。川が氾濫しているのだ。それか蛇行の兆しか。川の源流みたいだった。岩と岩の隙間から水が流れ出してそれの行き場が確保されていないため、已む無く地面に吸収してもらうしかない。私はそこで手を洗う。草に触れて切ってしまった傷口には冷たい水がしみる。

 見上げると、さっきの屋敷の塀が確認できた。裏口からここまで下りる道が切り拓かれている。ここいら一体はすべてあの和服男の所有物なのだ。

 岩に沿って歩くことが出来そうだった。水浸しなので靴を置いていくことにする。足を切らないように尖ってない部分を見極めながら進む。だんだん水気がなくなってくる。代わりに苔類がみっしりと生えている。気持ちが悪くなってきた。頭痛もいよいよ麻痺してくる。こめかみから上の部分がぽっかり空いているみたいだった。鏡があれば見てみたい気もする。さぞ奇怪だろう。

 足の感覚がなくなってきたので立ち止まって足を触る。目視は意味がない。触らないとわからない。足は何とか足首についていた。両足とも無事だ。突き当りに洞窟のようなものが見える。急いで靴を取りに戻る。それを手に持って洞窟の前まで行く。

 ハンカチで水気と汚れを取って靴を履く。しばらく変な感じだった。こんな気持ちの悪いものを履いて歩いていたらしい。足の表皮を覆うつるりとした膜のようだった。

 私の声を聞きたくなってあーあーと言ってみる。テープに録られたときよりも奇妙な声だった。誰か違う人間が私の口の動きに合わせてアテレコしているみたいに。

 洞窟らしき穴は真っ暗だった。自然に出来たものではない。雰囲気はトンネルに似ており、線路や道路の下に作られる地下道のようにも思える。時間と共に出口の位置が変化しない限り戻ってこれるだろう。そう信じるしかない。

 ずきずきうるさい私の脈が察知する。この奥に何かある。


     9


 不可思議なにおいが立ち込めている。生物と無生物が競い合った結果両方とも滅んでしまったかのようなにおいだ。死ではない。むしろ禍々しいほどの生の気配で満ちている。滅んでもなお生の記録を残し続けようとしている。どうやら私の頭痛はこのにおいを感知すると和らぐ傾向にあるらしい。

 人工とはいえトンネルだけあって内部はとても冷える。ここだけ季節を先取りしている。冬は寒く、夏は涼しい。あたかも避暑地のような気候だがこんなところで夏を過ごしたくない。

 錆びついた鉄の柵が下りている。隙間は片手を通すのが限度だ。奥に鎖のようなものが見える。何かを閉じ込めておくには最適な場所であり、実際そのような目的で使われているのだろう。少年が怯えていた折檻はここで執り行われると思って間違いはない。寝転がったら余地がなくなってしまうほどの広さの牢が五つ並んでいる。左右に二つずつ、突き当たりに一つ。鍵穴らしい鍵穴がないので柵自体を上げ下げするのだ。獰猛な動物を飼うことも出来そうだ。

 突き当たりの牢の前に立ってみる。五つの中で一番異質でグロテスクな空間だった。旦那様とやらの機嫌の損ね具合が最も大きかった者がここに収容される。私はあの少年のことを思い遣る。しかし少年は少なくとも当分はここには容れられない。容れることが出来ない。この確信は勘でもなんでもない。今現在ここは使用中なのだから。

「今度はなに?」

 第一声に凄まじい棘と敵意が含まれていた。私以外の人間を予想していたのだ。おそらく、いや絶対に和服男だ。

「僕だよ。たぶん助けに来たんだと思う」

「おっさん? ああ、帰ったほうがええよ」

「どうやったら出られるの?」

「今日何日なん?」

 彼は仰向けに大の字になってあさっての方向を眺めている。中指の爪が割れていた。肌の色もくすんでいる。服もほとんど着ていないに等しい。

 私はおぼろげな記憶を辿って日付を教える。ついでに時刻も教えてあげた。

「僕のところからいなくなってすぐにここに?」

「そんなん忘れたわ。せやった、おっさんに謝らなあかんね。もろうたカネな、ぜんぶ失くしてしもて」

「いいよ。檀那様とやらに奪られたんだね?」

 彼は相当弱っているらしく動きは鈍磨だったが声だけはまだ活力があった。速さも内容も彼のいつものペースだ。私を気遣って無理に声を出してくれているのかもしれない。彼の左手がピクッと動く。随意運動ではなく不随意運動のようだった。勝手に痙攣的に動いてしまっただけのように見える。

「寒くない?」

「もう慣れたん。感覚遮断しとってわからへんし」

「君の父親とやらに会ったよ。君をもらいに行くつもりだったんだけど断られちゃった。君の値札すら見せてもらえなかった」

「明日出れるよ。せやから放っといてくれへんかな」

「本当に出られるの? 期限なんか守りそうにないけど」

「試験があるん。まあ心配せんといて。ここに入るんは初めてやない。慣れっこ」

「どういう試験なの?」

「聞かんほうがええよ。一ヶ月、なあんも食べられなくなる」

「構わないよ。僕が少食だって知ってるよね」

 私は悪あがき的に柵を揺らしてみたがびくともしない。金属音すら聞こえない。手のひらにべっとりと油らしき粘液がついて不快になっただけだ。

 彼はやおら寝返りを打って私を見てくれた。眼が濁っている。あの和服男に濁らされたのだ。表情がない。感情を掃除機で残らず吸い取ってそのあと瞬間冷凍されてしまったかのように何もなかった。

「言いたない。堪忍な」

「君の叔母とやらにも会ったよ。奥様とやらと檀那様とやらはグルだよね。あの二人は代わりばんこに君を使ってカネを儲けているわけだね?」

 彼は瞬きすら億劫そうだった。物理的な打撃というよりは分泌系に傷害を与えられて涙が出づらくなっているみたいだった。その影響で眼の周りが干上がっている。まともに食事ももらえていないのだろう。ただでさえ細身なのにやつれてしまって見るに耐えない。生かさず殺さずぎりぎりのところで生かされている。殺してしまったら役に立たなくなるから。

「なあおっさん、お願いやからホンマ帰ってくれへんかな。一人になりたい」

「僕の心配をしてくれてるんなら平気。僕はこう見えて結構ヤバいことしてたことがあるから。明日までここにいるよ」

「おるんは勝手やけど、そないなことで俺は手に入らへんよ」

「じゃあどうすれば君が手に入るんだろう」

 彼は反対側を向いてしまう。ずかずかと土足で踏み込んでいっても彼には拒絶される。しかしずかずかと踏み込む以外に彼に近づく術がない。不可能なのだ。

 だからこそ和服男は、牢に彼を監禁せざるを得ない。着物女はそれを踏まえて緩く規制していたのだろう。むしろ野放しに近いかもしれない。だがそうすると彼は逃げ出してしまう。二度と戻ってこない。中庸をとれない。我々には限度がわからない。

「君はどうやって生活したいと思ってるの?」

「自活やね」

「だから僕のとこで働いてたわけだね。またそうすればいいよ」

「せやなあ。ええ稼ぎやったし」

 頭痛が鮭のように戻ってきた。彼と話したおかげだ。私は鉄と鉄の合間から片手を差し入れる。腕の関節まで入った。あと少しで彼の手に触ることが出来る、というところで彼が跳ね起きた。私はビックリした。思わず手を引っ込めてしまう。

「これ、演技やったらどないする?」

「どうもしないよ。元気ならそれだけでうれしい」

「アホお」

 彼はあの独特の笑い方をしてくれた。やはりこちらのほうがオリジナルだ。和服男がコピィなのだ。

 彼は機敏に立ち上がって天井に手をつける。天井が低いのか彼の身長が低いのかわからなかった。私の眼線から見るとほとんどの物が巨大に見える。どうやらそこに抜け穴があるようだ。

「あれはここまで入らへん。カメラはあるけどね」

 彼の眼線の先にレンズがあった。ほぼ天井の位置だ。壁に埋め込まれているらしく本体が見えない。

「ばっちり観られとるよ、おっさん。どないする?」

「言い訳するよ。うっかり迷い込んだって」

「ばいばいね」

「一億払ったら君は僕の家に何日いてくれる?」

「半日」

「高いね」

「俺は売りもんやないゆうたやろ? いくら払うても半日」

 私は財布から紙幣だけを出して牢の中に落とす。彼はそれを数えもせずにポケットに捻じ込んだ。

「前払いしとくよ。来てくれないと困るから」

「守らへんかもしれんよ。そうゆうの得意やから」

「いいよ。通過したカネに興味がないんだ」

 彼は天井の穴からさっと消える。私は出来るだけ息をしないように来た道を引き返す。頭痛がひどくなってきたのだ。頭蓋骨が圧迫される。呼吸に応じて脈が加速する。しかしあのにおいのせいですぐに治ってしまった。

 眼に光が突き刺さる。眩しい。

 苔むす岩場を抜けたあたりで和服男が裏口から出るのが見えた。無理に誂えた坂をゆっくりと下りてくる。

「行く場所間違ってませんか」

「先生に用があった。ツネやったらいまごろ夢の中。楽しい夢を見とる」

「ご冗談を。悪夢でしょうに」

 和服男は携帯電話を取り出してぼそぼそと命令する。用件を述べたのではない。この男の発する言葉はすべて命令なのだ。他者を隷属させるためだけに和服男の音声は存在する。

「あの穴はわざとですね」

「ツネなら見つける思うとったよ。あれは最高傑作。そう易々と手放したないな」

「そもそも売り物じゃないんですね。見せびらかすための」

「羨ましいやろ先生?」

「羨ましくて仕方ないですね。嫉妬で気が狂いそうです」

 和服男は厚みのない封筒を差し出す。名刺が何枚も入っていた。名前がある者たちの呪いの札だ。それと幾ばくかの紙幣。偶然とは思えないが、彼にあげた額とまったく同じだった。ほとんど手持ちがなくなった私の帰りの交通費を慮ってくれたらしい。

「またご贔屓に」

「機会があれば」

 私はぬかるんだ坂を上がる。和服男は草履についた泥を湧き水で落としている。

 鼻をくすぐる草を掻き分けていたら黒塗りの車が眼の前を通過した。屋敷のほうに走っていく。後部座席の窓に色が付いていて内部が見えないようになっていた。

 私は駅までの道を反芻する。


     10


 姉夫婦が死んだ。失踪のほうが近いかもしれない。いなくなった期間があまりにも長かったため死んだことにされてしまったのだ。

 姉には二人の子どもがいた。双子の兄弟だ。彼らの引き取り手を親戚で互いに押し付けあっていた。

 それなら腐るほどカネがあり悠々自適に暮らしている私に声を掛けるのが筋なのだが、つい最近まで私の耳に入ってこなかった。姉夫婦が死んだとされたのが二年も前なので、そもそも私は選択肢に入れてもらえていなかった。この年になっても独身であるため、性的嗜好になんらかの異常があると思われていたようだ。

 その偏見の割には、私が双子の世話を志願した際には二つ返事で許可が下りた。親戚は双子たちに一切関心がないようだった。私が面倒を看ている間も一度も口出ししてこなかった。むしろ厄介払いできてホッとしていた。親戚一同は双子と上手く馴染めなくて極限までストレスが溜まっていたらしい。

 ふたりは一卵性双生児であり本当によく似ていた。後ろを向こうが前を向こうがまったく同じだった。中学校で同じクラスに入れられていた。そんなことをしたら混乱しそうだが彼らの見分けはついた。簡単だった。喋るのが弟、喋らないのが兄。

 兄が無口で弟がおしゃべり、ということではない。兄は一切言葉を発しないのだ。会話可能な弟に訊いたところ、意図して発しないということだった。たらい回し先で何遍も病院にも行かされたらしいが構音に障害があるわけでもないし、耳も普通に聞こえている。精神だの心だのの問題ということで、医師の見解は一致していた。喋らなくなった時期が姉夫婦の失踪期と一致しているところからもそう診断されたらしい。どこに行っても判で押したように同じことを言われるため、たらい回し好きな親戚一同はすっぱり諦めたようだった。お手上げとも放置とも無視とも言い換えられる。

 兄は相手の話が聞こえないわけではないし、例え兄が喋らなくても弟が通訳してくれたので日常生活ではなんら問題なかった。同じクラスに入れられたのもそういう理由からだった。

「じゃあ君には伝わるんだ。僕にもやってみてよ」

「送ったって」

「駄目だ。わかんないな」

 兄は喋らない代わりになんらかの特殊な力を持っているようだった。言いたいことが文字として相手に伝わるという能力だった。相手はあたかも電子メールのように文字列を受信する。しかしそれを受け取れるのは世界中で弟だけだった。私の姉夫婦がいなくなってから開花した力だったので遺伝要因が確かめられない。もちろん親戚は全滅である。

 だからこそ私は双子の叔父として、それを受信すべく毎日必死に努力した。兄に何度も送信してもらったのだが結果は同じだった。メールの受信に失敗しました、という嫌味なメッセージが頭の中を占拠する。

 弟が兄を見て吹き出す。

「おじさん変わってるって」

「そう? こんな面白いこと体験しない手はないよ」

 弟と兄は顔を見合わせる。やっとわかってきたのだが、こうして何らかのメッセージの遣り取りをしているのだ。

「病院にも連れてかないし」

「だって無理に連れてってもね。僕も病院は好きじゃないんだ。ほら、待合室でついてるテレビは再放送しか観せてくれないしさ」

 私は週に一回双子の家に顔を出した。泊まっていくことも要望がない限り避けた。私は双子が望んだときにだけ駆けつけ望んだだけの金額や物品を与えた。双子たちにも私にもそれが一番いい付き合い方だった。

 そもそも彼らは誰にも懐かず誰の手の世話にもならず二人だけでやっていけていた。唯一の問題は経済面だった。だからこそ親戚一同は嫌がったのだろう。可愛がっても笑顔を返してくれない。ありがとうくらいは言うがそれが心からの感謝だとは思えない。資金援助さえあれば料理も洗濯も掃除も何でも出来る。つまり私にぴったりの役割だった。

 そんな感じで過ごすうちに冬が終わって春が来た。海外を転々としながら放浪を続けていた私の両親が帰国するらしい。風の噂で私が双子の面倒を看ていることが知れたようだった。お前に孫の面倒を看させるくらいなら、と電話口で怒鳴られた。あの二人は私のことをまったくもって信用していない。私だって信用していないのだからお互い様だ。

 彼らの新居、つまり私の実家へ引っ越すため双子と共に新幹線に乗った。長距離だったためか二人ともぐったりしており、家に着くなりすやすやと眠り込んでしまった。

 仕方がないので私ひとりで先に送っておいた荷物をあるべき場所に運んだ。と言っても双子の私物だけなので大したことはない。双子はあらかじめじゃんけんをしていたようで、私がいた部屋に兄が、私の姉がいた部屋に弟が暮らすことになった。

 懐かしさはなかった。むしろあまり長居をしたくなかった。ふと縁側が視界に入る。父が爪を切っていたのを思い出す。母が夜に爪を切るなと言っていたのを思い出す。頭痛がしてきた。案の定予想通り。

 私はわざと頭痛薬を飲まずに散歩に出掛ける。双子には書置きをしておいたから平気だろう。気持ち良さそうに眠っているので起こすのも可哀相だ。

 桜は満開だった。小学校まで歩いてみた。私の母校だ。校庭の周りをぐるりと桜の木が取り囲んでいる。花見をしている人たちが花を見ずに桜に群がっている。そこから一キロほど先に中学校がある。私が通ったのもその男子中である。

 ここにはいい思い出がない。小学校もそうだ。何も思い出したくない。やけに学ランを来た男子の親子連れとすれ違う、と思ったら今日は中学の入学式だったらしい。笑顔が多くて安心する。せめて彼らには楽しい中学校生活を送ってほしい。もちろん甥の双子も。

 学ランの親子連れを見ていたら中学に辿り着いてしまった。学ランを見ると思い出してしまう。自動的に再生される。あれ以来音沙汰がない。着物女が君臨するダークスーツ組織も、和服男が支配するあの屋敷も何も情報をくれない。私はすでに通過された人間なのだ。用がなくなれば捨てるだけ。

 ただ、あの少年には会いたいと思うこともあって和服男の言うご贔屓、にしている。近々名前をもらえることになったらしい。私は連絡待ちの状態だ。

 息子とはぐれた父兄のふりをして中学の敷地内に侵入する。一応断っておくが元臨時秘書のような不純な動機は含まれていない。

 彼女は先日もう一度解雇したが特に不服そうではなかった。いつの間にかどこぞの大学院に合格していたらしく、彼女のほうから辞表を出された。あんな気の利かない素っ頓狂でもいなくなると少し寂しい。何を究めるのか知らないが、教授になるとか意気込んでいたから頑張ってほしいと思う。あくまでほどほどにだが。

 私を知っている教員はさすがにもう残っていないだろう。いたとしても教頭か校長クラスだ。頭が遠くのほうでずきずきする。雨が降る前兆だ。花見の群集はパニックに陥るだろう。いまは雲ひとつない快晴なのだから。

 帰る前に裏庭をのぞいていくことにした。特に何か思い入れがあったわけではない。お気に入りの場所だったわけでもない。心臓の鼓動と一致しない脈が告げる。

「遅いよ」

「また、なくなったの?」

「カネ、くれへんかな」

 お決まりになっていた流れは在りし日のように淀みなかった。時間の経過などまったく感じさせない。見間違えるはずはない。頭痛が眼も前の光景に呼応してひどくなってくるから額が熱い。

 彼は桜の木に寄りかかって笑う。私の顔があまりにも間抜けで面白かったのだろう。例のあの笑い方だ。口の両端だけ上げる笑い方。

「今度はコスプレじゃないんだ」

「さっき入学式終わってん。俺もめでたく中坊ゆうわけ」

「ちょっと待って。中一?」

「老けとるからね。よう勘違いされるわ」

 彼は生徒証を見せてくれた。確かに生年月日では彼は今年中学一年生で然るべきだった。おかげで名前も確認できた。ヨシツネというのは正真正銘の本名。

「でも珍しい名前だね」

「おっさんほどやないよ。せやった。すまへんけど俺、あの仕事辞めたったから」

「たまに会いに来てくれるだけでいいよ。ちょっと遠いけど」

「一回分前払いがあったな。その分払わな」

「辞めたんじゃないの?」

「借りは厭なん。どこ行こか」

「いいや。とっとく。それを使っちゃったら君に縁を切られる気がする。実はそういうつもりだよね?」

「残念あたり」

「まったくだよ。せっかく当たったのにさ」

 渡り廊下に男子生徒が立っておりじいと私たちを見つめている。どうやら友だちらしく、彼はニヤリと笑って片手を上げた。先に行ってろ、と伝えたようだ。男子はしぶしぶといったふうに踵を返す。

「大事な用があったんじゃないの?」

「あれな、俺の雇用主」

「え、だって中学生だよね?」

「ああ見えて次期社長なん。ええもん拾うたよ」

「僕じゃ駄目なんだ」

「駄目やわ。駄目ね」

 私はあの男子生徒に嫉妬して気が狂いそうだった。どうしてあんな俄か出没少年に彼を取られなければいけないのだ。私から離れるのは仕方がないが誰かに取られるのは厭だ。それもあんなわけのわからない次期社長なんかに。私は出来るだけ気取られないように平常心を保つ。ゆっくり息を吸ってゆっくり吐き出す。

「理由を聞かせてほしいな」

「おっさんは俺の本名知っとるから。あれは知らへんの。せやから利用できるん。おまけに俺に惚れとる」

「あの屋敷のことだったら誰にも言わないよ。君がどんな仕事をしてたのかだって誰にも言いたくない。第一本名なんかすぐバレるよ。同じ学校に通ってるんだよね? それに僕だって君が」

 彼は生徒証の最初のページを開いて私に突きつける。

「これ偽称なん。せやから無理ね」

 混乱してきた。頭がずきずき脈打って気持ちが悪くなってくる。ぐらぐらと眩暈もする。彼は生徒証を上着のポケットにしまって桜の木から離れる。

「兄らしきによろしゅう」

「また会いに来ていい?」

「貸しの分だけね」

 彼はすたすたと歩いていってしまう。私は彼の背中に念を送っていた。甥の双子のように。でも不可能だった。あの能力は私にはない。それがわかっただけだった。

 実家に帰ってもぼうっとしていた。どうやって家に帰ってきたのか全然思い出せない。中学校から実家に帰るために小学校経路を通らずに反対方向から遠回りして帰ったのかもしれない。双子がまったく同じタイミングでのそのそと起きだし、私の様子が変だと指摘してくれた。私も同感だ。大いに変だろう。

 最後だと知っていても彼と寝るべきだったのか。わからない。久し振りに彼に会えたからカッコつけすぎたのか。わからない。どうすべきだったのだ。あの男子生徒を殺したくて仕方がない。双子が快適に暮らせるよう荷物の運搬やらを手伝っているいまも、どうすれば彼に気づかれずにあの男子を殺せるのかを必死で考えている。ずきずき痛む頭で完全犯罪について思考している。

 両親が帰ってくる前にお暇することにした。双子は初めて寂しいと言ってくれたが、私はそれどころではなかった。適当に別れのあいさつをしてその辺りをぶらぶらする。双子は私がいなくてもやっていける。そんなことは私が介入させてもらう遥か昔から自明だった。私は最初からお役ご免の存在なのだ。

 彼のいる場所を探り当てたかった。次期社長が中学生、に相当しそうな企業。思いつくはずがない。私は故郷を捨てて迷宮付きの家に住んでいるのだ。次のステージに移るためには、それまでの歴史や記憶をその都度葬り続けなければならなかった。そうしなければ私は先に進めなかった。先? 先とは何だろう。

 もうそんな場所にいるわけがないのに再び中学まで来てしまう。裏庭で座り込んでしまう。不審人物極まりない。逮捕されても文句は言えない。いくら卒業生とはいえ完全に不法侵入だ。

 背中が人の気配を察知する。早くも発見された。

「おっさん覚悟しい。ストーカ現行犯で逮捕するえ」

「どこに住んでるの?」

「始業ベル鳴っても間に合うん。ええとこやろ」

 私は落ちていた木の枝で地面を掘る。地球に傷を付けてやる。血を流してみろ。

「借り、返そか」

 彼は正面に立っている。私は彼の足を囲むように円を描いた。

「捕まえた」

「捕まったな」

「諦めるしかないのかな」

「せやな。俺、おっさんのこと嫌いやないから」

「正直に好きだって言ってよ」

「勘違いせんといて。嫌いやないだけ」

 彼は私の描いた円の外に出た。あっという間だった。彼を捕えられた時間はほんの数秒に満たない。私は彼を見上げる。眼の前にいるのに、とても遠くにいるように感じる。

「付いてき」

 裏庭に裏門がある。そこから出て本当にすぐだった。眼と鼻の先という言葉はこの距離感のことを言うのだ。古びて打ち捨てられた廃屋を改造して住んでいるらしい。一階建てで浴室と洗面所が母屋から切り離されている。庭が雑草やらわけのわからない外来種で荒れ放題だが、手入れする気はなさそうだった。

 彼と一緒に縁側に座る。俄かに日が翳って灰色の雲が出てきたように思う。私の頭痛天気予報は百発百中だ。

「夕方に雇用主が来るん。早うしよ」

「いいの?」

「ずっとストーカされるよりマシやね」

 雨音が聞こえる。縁側にいるので音が直に耳に届く。

 彼が洗濯物を取り込みたいと言ったが許さなかった。もう一度洗えばいい。面倒なら代わりに洗ってもいい。そう言ったら彼は牡蠣のように黙った。

「檀那様とやらにも?」

「さあ、憶えてへんねえ」

「奥様の側近とやらも?」

「わからへん」

「いまの雇用主は?」

「ないない。それはない」

 雨音が激しくなってくる。風が吹いているらしく、足先に水滴が当たる。生ぬるかった。

 何もかもが生ぬるい。唾液も体液も、私の思考や意識、行動のすべてにわたって、生ぬるくないものは存在しない。もし私が生ぬるくなかったら彼を幽閉できたかもしれない。彼を誘拐できたかもしれない。私のものに出来たかもしれない。出来ないのだ。そんなことは出来ない。思いつかないのだから。

「期限付き休暇もろうたん。高校出るまでここにおるよ」

「試験を突破したってこと?」

「ちょお難関やったよ。受かったの俺だけ」

「どんなことしたんだろう」

 彼は口の片端だけを上げて笑う。この顔を至近距離で見ることが出来てうれしい。私は彼の額を覆っている前髪を除ける。

「雨已んだら帰ってね」

「雇用主に見つかると大変だもんね」

「おっさん、何の仕事しとったん?」

「最低だよ。人と人の隙間を引き裂くだけ。絡み合って自他の区別が付かなくなった人間を切断するんだ。ここまでがあなた、ここからが君ってね。これをすると人間は崩れていく。規模はまちまちだけど結局がたがたになる。その最初の一撃を打ち込むのが僕。あとは自然崩壊だから高みの見物と決め込む」

「オモロそうやね。俺も依頼しよかな。ああ、せやけどおっさんもう辞めたゆうてたね。あかんわ。早う知りたかった」

「君の依頼だったら受けてもいいよ。壊す相手はあのふたり?」

「壊すも何も、あれはもう崩壊しとるからなあ」

「そうじゃなくて、檀那様とやらが支配している屋敷と、奥様とやらが君臨してるダークスーツ組織を崩壊させるんだ。それでいいかな」

「そないなこと出来るん?」

「それが可能だったから僕は莫大な富を築けたんだよ」

「莫大な富なあ。ええ響き」

 彼と私とを遮る空間がなくなる。

「ただで頼むわ」

「ゆうと思ったよ」

 夜になっても雨はざあざあ降っていた。地球上に棲む全人類の水分を吸い上げて降っているみたいな神話的な雨だった。

 私は彼から傘をもらった。どこにでも売ってそうな透明なビニール傘だが、私が手に入れることが出来た彼の有形物はこれが最初で最後だった。私はそれを差して、靴やズボンがずぶ濡れになろうが両脚が棒になろうが黙々と歩き続けた。

 線路に沿って歩くと、運命的に混雑している電車と競争しているみたいで面白かった。スタートする前から勝負を投げている私のことに眼もくれず電車たちは行ったり来たりを繰り返す。公共交通機関においては個を喪失していたほうが都合がいい。

 人間はどうだろうか。

 駄目やわ。駄目ね。

 個を認識させると滅んでしまう。人間には個がないから。覚醒と同時に滅亡が待っている。

 これから仕事をすることになる。何年ぶりなのか見当も付かない。だがブランクは感じていない。頭痛がみるみるうちに緩和してくる。脳ではもう滅びのシミュレイトが完了している。

 私は彼と共に高みの見物と決め込むことにする。月を愛でる縁側で爪を切りながら。

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