第5話 シベルス ワーク!
1939年7月、ファンランド軍は大規模な軍事演習を行った。ヨシュアとの土地交換交渉は必ず拗れるとヴァイナモイネン元帥はみており、戦争に発展するのを見越して現役・予備役兵総動員による招集、作戦演習を行ったのだ。
ヴァイナモイネンの予想通り、演習の最中にも外交交渉は刻々と悪化の一途を辿り、ついに国軍に前線要塞への実戦配備の命令が降った。
要塞配備に先立った観兵式では、ファンランドの著名な作曲家シベルスの交響曲第8番初演が行われることとなった。15年前の第7番発表以降、シベルスは円熟期とも言うべき60代で一つの交響曲も発表していなかった。
そのため第8番交響曲を世界中のファンが長く待ち望んでいた。
シベルスは風雪に耐えた大木のような男だった。太い髭と落ち窪んだ眼窩、射竦めるような鋭い目つきで、出会うものは皆その押出しに圧倒された。
彼は半世紀前、25歳の時に作曲して初演した最初のシンフォニー第1番、クレルボ交響曲を迎えた聴衆の興奮を覚えていた。ファン人たちは、スノーデン王国に800年間、続いてヨシュア帝国に400年間、支配され続けて気概を失っていた。そんな人々の心に、ファンランドの民間伝承詩と民族歌唱を題材に作られた交響詩が与えたのは、民族としての誇りの復活だった。
その四半世紀後、50歳のとき、ファンランドに独立の時が訪れた。シベルスは同国人同士が国家の存亡を賭けて戦う内戦を昨日のことのように覚えていた。昨日まで隣人同士だった人々が、共和主義派と社会主義派に分かれて銃をとって戦った。シベルスはその時、共和主義派軍の支援のために隣国ドイルから駆けつけた義勇軍「イエーゲル隊」のために行進曲を作曲し演奏した。
そして70歳になった今、祖国ファンランドに危急存亡の刻が訪れている。国民の士気を盛り上げるためにはなんとしても自分のシンフォニーが必要だと、シベルスは信じていた。
「過去の偉大な作曲家たちの多くは、宮廷の饗宴のために音楽を書いた。しかし自分は違う、自分は祖国のための音楽を作ってきた。」シベルスは妻アイノに言った。
自然豊かなカナリア地峡ヤールベンの石造りの自邸で、シベルスは作曲に没頭していた。
妻アイノにとって、シベルスはこの上なく優しい夫だった。何よりも自分を長く愛し続けてくれた。まだ無名だった頃出会った時の、無口で朴訥な男の真剣な情熱は今も変わっていなかった。
「荒削りではあるが、完成したよ。シンフォニー第8番だ。」シベルスは満足げに微笑み、アイノに楽譜の束を渡した。「感想を聞かせてくれ」
アイノは微笑んで受け取り、愛用のソファに座って丹念に譜面に目を通して行った。20分ほどの時間がすぎた。顔を上げたアイノは一言、シベルスに言った。
「素晴らしい出来栄えね。」
2人の間に豊かな沈黙が漂った。アイノは少し考え込むような表情で、言葉を継いだ。
「一つ、いいかしら」
シベルスはアイノを見つめた。
「あなたは第一番を作曲した時、何かが足りないと言っていたわ。そして合唱のパートを入れることでどこにもない交響詩を作り上げた。結局はあの合唱が、国民の心をつかんだわ。」
シベルスは思いがけない妻の言葉に、頰杖をつきながらしばらく黙考した。他の誰かが言っていたら、シベルスは激怒しただろう。しかしアイノがいうなら、それは真実の助言に間違いなかった。
「そうかもしれんな、アイノ。国民の士気を奮い立たせるには、今少し工夫が必要かもしれん。」
「私、余計なことを言ったかしら?」
「いや、こんなに親身な助言をくれるのは、お前しかいないよ」
「あなたならきっとできるわ。」そう言いながらアイノが返したシベルスの自筆譜は、判読不能な記号や線で埋め尽くされて、もはや譜面というより抽象絵画に近かった。
「無理ですよ、アイノ。」
ファンランド管弦楽団の首席指揮者シュネートネンは言った。
「シンフォニーの初演を2週間でマスターするなんて、いくらあなたの頼みでも無理ですよ。楽団員たちも納得しませんよ。」
シュネートネンは長身痩躯で落ち窪んだ眼窩と高い鼻梁を持つ男だった。楽団の指導も厳しく、大方の人に死神のように冷厳で近寄りがたい印象を与えていた。しかし実際には長くシベルス夫妻と親交を結び、アイノとも親しく付き合ってきた心の暖かい男だった。その彼が、小柄なアイノの前で困り果てていた。
「何も問題ありません。何も。」アイノはシュネートネンを見上げて言い、微笑んだ。
1987年に設立され、シベルスの交響曲初演を悉く務めてきたファンランド管弦楽団は観兵式会場となったロビーサ郊外の原野に立った。屋外での演奏も異例、観兵式での演奏後直ちに軍楽隊として従軍するのも異例、すべてが異例尽くめだった。
既に数万の兵士が佇立していた。戦場では開戦の時が迫っており、兵士たちは第二楽章途中から行軍を開始する予定だった。
タクトが振られ、演奏が始まると兵士たちは音楽に聞き入った。祖国が世界に誇る作曲家の待望の新譜の初演に居合わせたのだ。孫子の代まで伝える語り草になるはずだった。
第一楽章が始まると、兵士たちは意外の感に打たれた。交響詩の出だしはシベルスの処女作「クレルボ」にそっくりな曲調だった。残忍な呪術師に父母を殺され村人を皆殺しにされ、自身も何度も殺されかけたクレルボが怪異な力を持つ男に成長し、復讐を果たす悲しい物語だった。その姿は、支配者の胸先三寸であるときはファン語を禁止され、あるときは自治権を奪われ、被支配者として気概を無くしていたファンランドそのものだった。「クレルボ」はそんなファンランドの人々に民族としての誇りを呼び覚ました曲だった。
シベルスが自身の第8作目となるシンフォニーで処女作へのオマージュとして旋律を踏襲するのもむべなるかなと兵士たちはうなずき合った。
しかし次第に疑念が兆し、第二楽章で最も特徴的な合唱のパートが始まると、その疑念は決定的になった。
(これは交響詩第8番なんかじゃない、第一番の「クレルボ」そのものだ)
その時、満座の兵士達の中から声が上がった。
「やってくれるぜシベルス!」
「俺たちにもう一度独立戦争をやってみろってことか!」
兵士たちは顔を見合わせた。第8番交響詩と言いながら第一番を演奏するその意図は、民族独立の機運を作ったこの曲で、もう一度独立から内戦に至る国家再生をやってみろというシベルスのメッセージだと皆が気づいたのだった。
「やってやるぜ」「ヨシュアの奴らに、目にもの見せてやるぜ」兵士たちは口々に叫んだ。
行進が始まった。兵士たちには満足に軍服すら行き渡っていない。思い思いの外套や狩猟服に身を包み、銃の行き渡らないものは自前の猟銃を背負う者さえいた。兵士たちは日頃から自分たちの見窄らしい姿を、倹約質実を唱える自治相カヤデルになぞらえて、「カヤデルスタイル」と自嘲していた。しかし今、兵士たちの中に貧弱な装備や軍服の不備を恥じるものはいなかった。大群で押し寄せるヨシュア軍に対する気後れもなかった。どの顔も意気軒昂として戦いに早っていた。
シベルスは2度の戦争の後、15年後に死没した。不世出の楽聖であり、救国の機運を作った国家の英雄に対して、国民は誠意を尽くした。療養地だったカリワラの別荘から聖堂のある首都へーシングまで続く国葬の葬列には、30万人の国民が集まり別れを惜しんだ。
戦場で初演された第8番の譜面は、「なお推敲を要する」として全てのパート編曲譜面が回収された。第8番初演は戦場のこととて録音もされなかった。
シベルスの死後、アイノは別荘の掃除中にシベルスの交響曲第8番の遺稿を「誤って焼却」した。楽聖の名誉は守られた。
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