第3話 ボルコフの半生

 ボルコフは、エルミタグラード北部、ファンランド湾に面した帝政時代の海軍省跡を接収した西北方面軍指令部を本拠にファンランドとの交渉に当たっていた。

 固肥りで筋肉質、猪首のボルコフは作戦本部内では「トレーラー」とか「トラック」と影で呼ばれていた。ヨシュア南部、中央アジア国境近い辺境に育った彼は軍部に属してからは自分の過去をほとんど語らなかった。


 父親カルペンスキーは牧畜業者、母親マイロはボルコフの幼少期に亡くなったが、元は毎春肥育させたヤクを売りにいく村の酒場に雇われていた女だった。大年増になりかけていて、酒場を追い出されそうになっていたところを引き取って妻にした。マイロは身籠っていた。翌年ボルコフを生んだが、牧畜業の厳しい仕事と寒暖の激しい気候に傷めつけられて、次第に窶れていき、ボルコフが7歳の時に風邪を拗らせて死んだ。その後はボルコフの悲惨な少年期の始まりだった。

 妻を溺愛して居た父は酒浸りになった。幼いボルコフに対するカルペンスキーの態度は一変した。牧畜の辛い仕事はボルコフの仕事となり、父がボルコフを奴隷のように追い使う日々が始まった。ヤクの追込みに失敗れば息が止まるほど腹を何度も強打され、冬に備えて蓄える牧草集めが遅れれば、気づくと後ろに立って居るカルペンスキーに棍棒で頭を殴られて昏倒した。狩猟の獲物を橇でひくときは、荷造りが遅れると鞭で叩かれた。残忍な笑いを浮かべた父は、ボルコフの手を狙って鞭を何度も叩きつけた。ボルコフは碌々食べ物も与えられず、常に飢えながらヤクを引き連れて森や牧草地を彷徨した。


 ある初秋のこと、一面の雪原に時折薄日が指す中を、ボルコフが常のように彷徨していると、遠くから歩いてくる男の姿が見えた。雪を掘り返して木の根を齧り、必死に餌を漁るヤク達を見つけて近寄ってきたらしかった。ボロボロの軍用コートを纏って杖を曳く、髭で顔半分が埋もれた男は、シベールの軍事捕虜収容所から脱走してきたマヌーク帝国の兵士だった。第一次大戦争時、ヨシュア帝国と戦ったマヌーク帝国は1914年にヨシュアに敗北し、多数の捕虜がヨシュア極東部のシベール収容所群に送られた。男はどこかの収容所から脱走し、どうにかここまでたどり着いたらしかった。

 毎年春に肥育したヤクを売りに村まで行く父親。彼について出かける時以外、滅多にボルコフは人に会うことがなかった。遠く極東のシベール収容所から、どうやってここまで来たのか分からないが、半死半生の男を見ると、ボルコフは無性に人恋しくなった。ボルコフは男が腰に括り付けてきた粗末な橇替わりの戸板を外し、男をヤクの背中に乗せ、家に帰るとこっそり家畜小屋の隅にかくまった。

 男は収容所で覚えた片言のヨシュア語で、なんとかボルコフと話が通じた。行く先々の農家の家畜小屋に忍び込み、盗みを繰り返してここまで奇跡的にたどり着いたが、ついに雪原に家影が絶え、数日彷徨い歩いてボルコフと出会ったと語った。

 男は腹を空かせていた。元よりボルコフも常に腹を空かせているのは変わらない。食糧庫から食糧をこっそり盗み始め、それも度々となると、次には一頭のヤクの喉を掻いて屠り、雪に埋めて隠して細々と二人で食い始めた。

 男はマヌーク・ヨシュア戦役において攻防戦に従事した体験や、故郷の東地中海世界での陽光に満ちた暮らしを訥々と語った。黒海北岸を扼するヨシュアの大要塞を攻略するために引かれた長大な鉄道線。その長い鉄路を辿ってやってきた列車砲の、天地を裂くような巨弾の咆哮や、敵味方互いに悪鬼となって戦った激烈な肉弾戦、夕暮れの赤い空に煌めく閃光を交わす戦闘機の格闘戦の話を、ボルコフは飽きもせず聞き続けた。

 一年の大半は雪に覆われ滅多と人と会う事のない土地に生きてきた自身の半生。その半生と同時代に、激動する世界が躍動して存在したことをボルコフは知った。ボルコフは、父親の虐待を恐れながら生い立ったが、男と話すうちに次第に外の世界を知り、父親を恐れる呪縛から解き放たれていく自分を感じた。(俺はここに居なくてもいいんじゃ無いか。ほかの生き方があるのに、なぜ俺はここに居るんだろう)考えれば考えるほど、自分を縛り付けている父への憎しみが募って行った。 

 厳冬の冬を家畜小屋の片隅に隠れ棲む事で、男は生を保つことが出来た。しかし春を目前にした頃から咳き込み始め、半月で急速に衰え、ある日ボルコフが訪うと血を吐いて死んでいた。ボルコフは男の半分凍った遺骸を外に引き摺り出して小屋裏の雪中に埋めた。この時、ボルコフは16歳になっていた。


 春が訪れ、ヤクを村まで売りに行く長途の旅の支度を始めた矢先に、カルペンスキーはヤクの頭数が足りないことに気付いた。

 ヤクに与える最後の飼葉を掻いていたボルコフは、荒々しく家畜小屋に駆け寄る足音から盗みの露見に気付いた。殺戮の時が近付いていた。

 小屋の扉の裏に隠れて息を殺して鋤を構えた。小屋の木戸を蹴り開けて走り込んできたカルペンスキーの顔を、ボルコフは振り被った鋤で力任せに殴りつけた。驚くような勢いで血が吹き出し、カルペンスキーは仰向けに勢いよく倒れ込んだ。何度か顔めがけて鋤を振り下ろした後、ボルコフは鋤を投げ捨て、小屋の外に飛び出した。春の揺り戻しのように叩きつけ始めた雪の中を、ボルコフは荷造りした橇の方へ駆け寄った。移動の気配に繋がれたヤクたちも騒めきだす。牧畜犬の群も騒ぎ出した。ボルコフは橇に飛び乗り、鞭を手にしたが、思い直してまた橇を降り、家に戻ると灯油を持ち出し、カルペンスキーの元に駆け戻った。このまま打ち捨てていけば、春の雪解けとともに毎年やってくるヨシュア軍の国境警備隊が現場を見つける。牧畜とともに居なくなった息子の行方を捜索し始めるかもしれなかった。火事を出して離散したように見せかける必要があった。

 赤く染まった父の顔の中央部からまだ間欠的に血が吹き出している。顔と体に灯油を撒き始めると、赤い血の中から声が聞こえた。「おい、やめろ」その声は、自分の理解して居る世界に反する出来事に、まだ自分が支配権を持っているような声だった。自分が制止すれば息子は当然このふざけた行いを辞めるはずだと言う、確信が込められていた。ボルコフの顔に忿怒の赤黒い表情が現れた。馬草の上にも灯油を振り掛けると常に腰から下げて居る火打ち金をポケットから出した石英に叩きつけて火を付けた。ボン!と爆発するように燃え上がった炎と激しく痙攣するカルペンスキーを一瞥し、火の回りを確かめてからボルコフは炎を背にして小屋を再び飛び出した。飛雪はいよいよ激しくなって居る。橇を引くトナカイに、ボルコフは大きく鞭をくれた、牧畜犬たちが短い咆哮を繰り返し、ヤクの群れを追い纏める。炎は小屋の屋根から吹き出し、一面に黒い猛煙と火の粉を散らし始めた。一団は炎に照らされ、半身を橙に染めながら春の吹雪の中を勢いよく走り出した。


 村に行く道筋は覚えて居た。吹雪が病み、春を告げる鳥の声が聞こえる雪道を進んでいたボルコフは目当ての家を見つけた。商旅の途中でいつも立ち寄る農家に、合図の旗を掲げながら近寄っていった。

 窓から覗いていた男は旗を見極めると銃を降ろし、扉を開けて戸口に立ちボルコフを迎えた。だが顔には訝しげな表情が残っていた。農夫はボルコフにカルペンスキーの消息を聞いた。「酒が過ぎて一度倒れたんです。それから親父は歩くのが不自由になって。今年から俺がヤクを売りに行くことになったんですよ。」ボルコフが言うと、農夫は悲しそうに何度も頷いた。冬の厳しい、と言うより1年の大半は冬と言ってもいいこの土地では、吹雪に閉じ込められる冬に酒が過ぎて不自由な体になる者は珍しくなかった。親指の先に激痛が走り始めたらもうその先は長くなかった。多くは1年前後で倒れ、半身不随になるかそのまま死んだ。「まあ残念だが、まだ生きてるだけよかったな。」農夫は肩を叩いてボルコフを慰めた。

 水と食料をヤクと交換したいと申し出ると、人の良さそうな農夫はいつものことで軽々と請け合った。「じゃあこれから俺は、お前と毎年会うことになるんだな。」そう言いながら食料を取りに家に入ろうとした背中に、ボルコフは背負ってきた猟銃の銃口を向けた。


 村が近いこの辺りでは盗賊が多い。盗賊の仕業に見えるように家を荒らし、食料を根こそぎ盗んで橇に積んでからボルコフは農家を後にした。


 村に着いたらヤクを売り払い、金を手にしてどこか知らない土地へ行こうと、道中ボルコフは思っていた。身一つなら市井に紛れて行方を晦ますのも容易なはずだった。しかしそんな目算とは裏腹に、ボルコフが村に着くと様子が一変していた。あちこちの辻で声を張り上げ群衆に呼びかける男達がいた。村の男も女も立ち騒ぎ、村は喧騒に満ちていた。そうかと思うと白髯の将軍が率いる騎馬隊が整然と西に向かう街道を進み、群衆は押しのけられるように道を開けた。荷台に兵士を山積みにしたトラックの後ろに鋤、桑、猟銃をてんでに担いだ群衆が続く無秩序な行進にもすれ違った。

 (一体なんの騒ぎだろう。それに、こんな騒ぎでは、仲買の商人にヤクが売れるんだろうか)心配になったボルコフは、カルペンスキーが通っていた酒場で事情を聞こうと思い、村の奥まで入って行った。

 こんな喧騒の中でも酒場は開いていた。ヤクの群を杭に繋ぐと店に入り、ボルコフはビールを頼んだ。この店でビールと葦酒以外に頼む男は見たことがなかったので、ほかに頼みようがなかったからだが、酒はこれまで飲んだことがなかった。

 酒場の亭主はボルコフを覚えていた。滅多に喋る男ではなかったが、年若いボルコフが1人で店にきたのを見て口が軽くなったらしい。はき捨てるように男は言った。「ヤク売りの息子か。お前が聞きつけて街に出てくるようじゃ、革命もいよいよ来るところまで来たな。もうすぐスタールの部隊がやって来る。お前はヤクを土産に献上して仲間に入れてもらえ。」

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