鍋島が京都のホテルを出て大阪に戻って来たのは、夕方の六時を回った頃だった。陽がすっかり落ちてクリスマスイルミネーションの美しい街を一人でのんびり歩き、グランフロント大阪でイタリアワインを吟味し、フルボトルを一本買って帰路についた。御堂筋線を降りると駅前のビストロに寄り、夕食がてら酒を飲んだ。和洋両方の一品料理と美味い蕎麦を出すユニークな店で、自分で料理をする上でも参考になる最近のお気に入りだ。

 白和えと刺身、だし巻き卵、それとローストビーフを注文してグラスワインと日本酒を何種類か合わせた。主人と会話を楽しみながらシメの蕎麦を食べ、マンションの自室に帰った。


 部屋に戻ると冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、カウンターの灰皿を持ってネクタイを緩めながらリビングのテーブルの前に座った。ミネラルウォーターを一口飲み、煙草に火を点けてふうっと煙を吐いた。さっきの店ではカウンター席の隣の客がやたら咳き込んでいた。体調が悪いのに外食なんかするなよと思ったが、どうやら連れは職場の先輩らしく、営業成績のことで熱弁をふるうその連れにただただ同調していたから、しんどくても断れなかったのだろう。

 両手を後ろについて顔を上げた。テーブルの上部のペンダントライトを見つめながら、ちょっと疲れたなと思った。本当は今夜、明日麗子の家で作るイタリア料理のためにいくつか考えていたメニューを絞り込み、材料の買い出しリストを作ろうと思っていたのだが、酒が回って眠いのもあって、今日はこのまま寝てしまいたい気分だった。明日の朝、早く起きてシャワーに入るか……。

 ふと思い出して、そばに置いたスーツの上着の内ポケットからスマートフォンを取り出した。アルバムを開いて、今日撮ったドレス姿の真澄の写真を見た。全身から幸せが溢れていた。やっぱり、俺ではとうてい彼女をこんな笑顔にはでけへんなと思った。

 そして、馬鹿な自分が、馬鹿であるがゆえに周りを巻き込んでウダウダと続けてきた臆病な後悔と悪あがきがようやく決着したことを実感した。


 突然、インターホンが鳴った。まったく予測もしていなかったので、思わず「えっ」と声に出した。時計を見ると九時前だった。

 立ち上がり、煙草を持った手で廊下に出るドアの脇の受話器を取った。「はい」

「あたし」麗子だった。

「え?」鍋島は受話器を耳に当てたままそばのドアを開けた。「どうしたんや」

「いいから、開けて」

 鍋島は煙草を消し、玄関に出てドアチェーンを外して鍵を開けた。コート姿の麗子が立っていた。

「どうしてん」

「二次会終えて帰ってきたの」麗子は玄関に入り、ハイヒールを脱ぎながら言った。

「それにしちゃ早よないか」

「終わるちょっと前に出てきちゃった。二次会の出席者って、友達が中心でしょ。あたしはあくまで親族だから、特に知り合いもいないし。正直ちょっと退屈で」

 そう言うと麗子は洗面所に入って手を洗い、うがいをした。

「良かったんか、それで」鍋島は洗面所の入口にもたれて腕を組んだ。

「自分だって招待されてて断ったくせに」麗子は鍋島を見た。「勝也が来てくれたら、あたしだって最後までいたわよ」

「俺のせい?」鍋島は笑いながら言った。

「そうよ、あんたのせいよ。飲めないから酔っぱらうこともできないし」

 麗子は不満そうに言うとコートを脱ぎながら廊下を進んだ。「一人でいたから、何人もの男が声かけてくるし」

「え、なんやそれ」

「あら、今さら気にしてるの?」麗子は部屋に入ったところで振り返った。「めずらしくないわよ。自慢じゃないけど――」

 鍋島の手が伸びてきて、麗子の腕を掴んだ。麗子がえっ、と思うよりも早く抱き寄せられ、それからキスをされた。腕に掛けていたコートが落ちた。

 顔が離れると、麗子は言った。「どうしたの?」

「いちいち理由がないとあかんか」

「そういうわけじゃないけど」

「声かけられて、何て答えた?」

「尋問?」

「ああ、尋問」

 麗子はくすっと笑った。「大丈夫。そんなの相手にしないもん」

「イイ男いたか」鍋島もちょっと笑った。

「もう、バカ」

 そう言うと麗子は鍋島に抱きついた。「いるわけないじゃない。勝也に比べたらみんな0点」

 鍋島の腕に力が入った。そして麗子に顔を向けると、その頬にキスをした。

「真澄のこと、ちゃんと祝福できた……?」麗子が言った。

 鍋島ははっとした。やっぱり、麗子は気にしていたのだ。口ではまったく心配していないと言いながら、内心はずっとそうではなかったのだろう。

「――うん――」

「もう大丈夫ね?」

「ああ」

 鍋島は言うと麗子の顔を覗き込んだ。「ごめん。やっとや」

 想いが溢れて、麗子は泣きそうになった。だけど涙は見せられない。俯いて、うんと頷いた。

「結婚する?」鍋島が言った。

 麗子は顔を上げた。「……それ、すぐにでもってこと?」

「うん、すぐ――あ、いや、まあ、いつでもええけど」

「何よそれ」と麗子は脱力し、呆れ顔で笑った。「いい加減なんだから」

「でも、一緒にいたいやろ?」鍋島も笑った。「毎日まともな料理が食えるぞ?」

「悪かったわね地獄飯で」

「俺、警察官やからな。おまえに言い寄ってくるヤツ、一人残らず逮捕してやるよ」

「やっぱり気にしてるんだ。小さっ……」麗子はため息をついた。

「だって0点じゃないし。ネクタイ姿かてほら、カッコええやろ? 何点くれる?」鍋島は悪ノリし始めた。

「バカじゃないの? さては酔ってるでしょ?」麗子はまじまじと鍋島を眺めた。「ん……まあ確かに、少しはサマになってきたけど」

「ほらあ」鍋島はにこっと歯を見せた。「芹沢なんかメじゃないぜ」

「いいわよ、もう」

 麗子は本格的に笑い出し、しっしっという感じで顔の前で手を振った。「やっぱり帰るわ。酔っぱらいの相手なんかしてる暇――」

「全力で守るから」

「え」

「守りきる。一生」鍋島は真顔だった。「……せやから、支えてくれ」

「勝也――」

 鍋島はぺこりと頭を下げた。「お願いします。俺と結婚してください」

 麗子は微笑んだ。そして腕組みをして、ちょっと強い口調で言った。

「そうね。全力で守ってもらわなくていい。支える気もない。だけどその代わり、あなたのこれからの人生で起こることのすべてを共有するわ。共有して、一緒に泣いて、怒って、迷って、笑ってあげる」

「……うん」

「それでお願いします」麗子もきちんと一礼した。

 そして麗子が歩み寄り、鍋島は今度は優しく彼女を抱き寄せた。ありがとう、と小さな声で囁き、そしてゆっくりと唇を合わせた。

 そのあいだに麗子はサイドシニヨンにまとめていたアレンジヘアのアクセサリーを取り、髪を下ろした。ウエーヴのかかった栗色の髪が一気にほどけて、結婚式の招待客らしい控えめな華やさから、いつもの艶やかな華やかさが代わって表われた。

 そして鍋島のネクタイに手をかけると、丁寧にそれを解き始めた。


 買い出しリストは明日にしよう、と鍋島は思った。


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