結局、中大路との心の溝は埋まらないまま、やがて失意の淑恵は帰国した。それっきりだった。付き合って八年目のことだった。

 その後、中大路は商社を辞め、父親の経営する会社を引き継いだ。淑恵がどうしているかは分からないまま、つい最近まで過ごしてきたという。

「――三ヶ月ちょっと前……夏の終わりでした。大学のゼミの同窓会の案内が届きました。海外赴任をきっかけにずっと参加できず、帰ってきてからもなんとなく気後れして足が向きませんでしたが、今年は久しぶりに行ってみようかなという気になり、参加の返事をしました」中大路は静かに語った。「彼女のことも、自分の中では勝手に整理をつけていたのかも知れません」

「結婚も決まったしな。ウキウキや」鍋島が言った。

「いい加減にしろよ」芹沢が釘を刺す。

 中大路は鍋島を見て穏やかな笑顔を見せた。「そうかも知れませんね」

 鍋島は視線を逸らし、また口元を歪めた。

「それで当日、行ってみると――」中大路は俯いた。「驚いたことに、彼女がいました」

「来るとは思わなかったんだ」芹沢が言った。

「ええ。きっと彼女はそんな気にはならないだろうと、勝手に思っていました。ただの僕の思い込みです」

 芹沢は黙って頷いた。おめでたいやつだ、と思った。めでたくて無責任だ。ま、これもただの俺の思い込みだけど。

「それで、どんな話になったの?」麗子が訊いた。

「最初のうちは他愛もない世間話でした。元気だった? とか、変わらないね、とか。しばらくは他の友人たちも交えて、当たり障りのない話で」

「まあ、そうするしかないわよね」

「それから、その、何というか――」

 中大路は言い淀んで、隣の真澄をちらっと見た。さっきまでの昔話とは違って、真澄と婚約して以降の最近の話なので躊躇があるのかも知れない。その程度の器のくせに、そんなところへのこのこ出掛けていったおまえの馬鹿さにはほとほと閉口するぜと芹沢はさらに思った。あれ、俺も鍋島なみにこいつに腹が立ってるようだな。やめとこう。時間の無駄だ。

「二人でその場から離れて、宴会場の外の廊下のソファに座って……お互い、その後どうしていたかを話しました。どんな風に過ごして、どう生きてきたか――それから、別れたときのことを、ちょっと。僕があのときは悪かったと言って、彼女は済んだことだと笑ってくれて。……まあ、有り体に言えば、元カレと元カノの会話です」

「なるほど、よく分かる。俺もそういうの、山ほど経験してるから。好むと好まざるとにかかわらず、やっとかなきゃなんねえお約束だよな」

 芹沢はちょっと苛立ったように言った。「ということで、そろそろ本題に入ろうか」

「あ、すいません」

「いやいや、謝らないでよ」

 芹沢は力なく笑った。ふと鍋島を見ると、俯いて小刻みに肩を揺らしていた。笑いをこらえているのだ。あとでぶっ飛ばす、と思った。

「実は折り入って頼みがあるのだけど、と言われました。ある仕事を頼みたいと。僕が会社を辞めて家業を継いだのはちょっと前に他の同級生から聞いていたみたいで、それを見込んでお願いがあるのだということでした。聞けば彼女も関東で貿易会社を起こしたということでしたから、そういうことなら是非力にならせて欲しいと、二つ返事で承諾しました」

「寛隆さんらしいわ」真澄がぽつりと言った。嬉しそうだった。

 中大路は真澄を見てはにかんだ。「そのあと二次会に流れて、店の隅っこで詳細を聞きました。すると、僕が思っていたようなこととは少しニュアンスの違う内容でした」

「というと?」鍋島が訊いた。

「概要を言いますと――彼女の会社の新規取引先に京都のアンティーク商品の輸入会社があって、そこの社員に彼女が懇意にしている人物がいて、その社員が中国である商品を買い付けたのだけれど、その会社が最近業績不振に陥り、日本でもかなりの在庫を抱えており、どうしても買い付けた商品を受け入れるわけには行かなくなって困っているのだということでした。それで、つまりはその商品を代わりに僕のところで引き取って欲しいということなのかなと思って訊いたら、そうではなくて、うちが通常の業務で中国からの荷物を受け入れるとき、その商品を内緒で一緒に潜り込ませてくれないか、というものでした」

「胡散くさ」鍋島は言った。

「その通りです。でも、彼女もそれを分かっていて、決して違法なものではないし、逆にとても貴重なものだから、無理を頼んでおきながら失礼なことだけれど僕にも詳しいことは教えたくないんだと言って――それなのにこんなやり方を選ぶのは間違っているのは重々承知なのだけれど、そこを何とか曲げてお願いできないか、と何度も頭を下げられました」

「それで承知したの?」麗子が訊いた。

 中大路はかぶりを振った。「さすがに、それでうんと言うわけにはいきませんでした。僕も一応は経営者ですからね」

「向こうの反応は?」

「それでもかなりしつこく粘られました。最初はそうでもなかったのに、だんだんと切迫感が感じられるようになってきて……それで僕は、別れるときに決していい形をとれず、その後ずっと音信不通だった彼女が、なぜわざわざ僕に無理難題とも言える頼みごとをしてくるのかが疑問に思えてきました。決してネガティブな意味ではなく、彼女は高いプライドを持った女性でしたから。それで、これには何か深い事情があるのではないかと思い、彼女にそう訊きました」

 中大路は大きく溜め息をついた。「今から思えば、それこそが彼女の誘いに乗ってしまう振る舞いだったんだと思います」

「どういうこと?」麗子は目を細めた。

「新規取引先の京都の会社ですが――」

「慶福堂ね」

「ええ。そこの社員で、藤村清志ふじむらせいじという人物がいます」

「三十代前半くらいの男だろ。結構センスいい感じの」芹沢が言った。

「ええ、そうです」中大路は芹沢を見た。「ご存知でしたか」

「いや、軽くぶっ飛ばしただけ。おたくらのマンションの前で」

「あ、そうでしたよね」中大路は苦笑した。「その藤村という男が、彼女と懇意にしている人物で――彼女の恋人なのだと打ち明けられました」

 麗子はへえ、と小さく驚いた。鍋島と芹沢は微かに反応を示しただけだった。

 その様子を見て中大路は頷き、ゆっくりと深呼吸をしてから言った。「そして――その藤村とのあいだにできた子供を、今、お腹に宿しているのだと彼女は言いました」

 今度は三人とも息を呑み、黙り込んだ。そして、同じ考えを巡らせた。

 その思いを代弁するかのように、中大路は静かに言った。

「それを聞いて、僕は途端に迷ってしまいました」

「それは、きっぱりと断れなくなったってこと?」麗子が訊いた。

「ええ、そうです」中大路は麗子を見た。「昔のことがあったから、後ろめたくなったんです」

 麗子は真澄を見た。真澄は穏やかな表情で紅茶のカップを眺めていた。全部受け止めたんだなと麗子は悟った。この五日間で真澄は様々な思いと静かに闘い、そしてそれらの葛藤に打ち勝ち、あるいは折り合いをつけたのだ。きっと、嫁ぐということはそういうことなのだろうなと麗子は思った。

「――気が付いたら、少し考えさせて欲しいと彼女に言っていました」

 中大路は言って、本当に悔やんでいるらしく唇を噛んだ。

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