Ⅳ.届かぬ気持ち


 走り疲れた琉斗は突然速度を緩めた。

 鬼ごっこをしていて全力で校庭を駆け回っていたところにどこからか不意に鬼にタッチされたときのように、一瞬にして脱力感が全身を支配し、踏鞴たたらを踏みながら走るのをやめたかと思うと、ふらふらと歩き、そして足を止めた。


 虚しくて仕方がなかった。よりによって、金を渡されるとは。

 オレはいったい彼女の何だったというのか。いい気になって彼女の守護者ガーディアンだと思いこみ、騎士ナイトを気取り、あわよくば愛の対象に就こうとした。そして自分でも気付かないうちに、心の奥底から醜い下心を覗かせ、それを彼女に見抜かれていたのだ──だから彼女は、オレに金なんかを握らせたんだ。

「くそっ……アホもええとこや……!」

 足許のアスファルトに向かって琉斗は吐き捨てると、どんとひとつ足踏みを打ち鳴らし、そしてゆるゆると顔を上げた。

 そこで彼は、絶対に見られたくない相手に一部始終を見届けられていたことに気づく。

 いつの間にか、警察署の前まで戻ってきていたのだ。


 ──ああ、最悪だ。

 

「……何だよ」

 琉斗は完全にふて腐れて言った。

「別に」

 通りに面した警察署の駐車場で、一台のバイクにもたれて腕を組んでいた芹沢は素っ気なく答えた。

「何かまだ用なんか」

「それはこっちの台詞だよ。何でまた戻ってきたんだ」

「戻ってきたんやない」琉斗は吐き捨てるように言った。「帰る方向を間違えただけや」

「おまえん、こっからはるか北東の天満橋てんまばしだろ。どっちからでも帰れるぜ」

 そう言うと芹沢はもたれていたバイクのタンデムシートを顎で示した。「乗んな。送ってってやるよ」

「要らんよ」

 そう言いながらも琉斗の視線はバイクに釘付けになっていた。

 シルバーペイントされたフレーム、、フューエルタンクとサイドカバー、それにフェンダーの部分が深紅、マフラーはクロームメッキ仕上げのトラディショナルなスタイルのバイクだった。青空の下のロングツーリングはもちろん、街中を走るのにもその美しいフォルムが映えそうだ。

「……そのバイク、あんたのか」

「ああ。いいだろ。俺の宝物さ」

 琉斗はうん、と小さく頷くと、エンジンのあたりを覗き込んで言った。「クォーター(250cc)やな」

 芹沢はにやりと笑った。「バイク、好きなのか」

「免許欲しいと思ってる」琉斗は顔を上げた。「小学生の頃、ポケバイにハマったんや。近所の中坊の幼馴染みに影響受けてさ」

「もうやらねえのか」

「そんな余裕ないよ」と琉斗は肩をすくめた。

 芹沢は反対側のシートレールからヘルメットを外し、琉斗に差し出した。「乗ってけよ」

「でも……」

 琉斗はヘルメットを見つめる視線を芹沢に移した。

「心配すんなって。バイクが好きなら、乗り心地を味わわせてやりたいと思ってるだけさ。尋問しようって気はねえよ」

「それやったら」

 琉斗はヘルメットを受け取った。芹沢はバイクを通りまで移動させ、自分のヘルメットを装着してエンジンをかけた。

 琉斗は芹沢に促されてバイクにまたがった。

「街ン中だからな。そう飛ばせねえけど」

 大きな発車音とともに、芹沢は通りを東へと向かった。

 決して交通量は少なくなかったが、バイクはそれでも連なる車の間を縫って滑らかに走った。難波橋なんばばし北詰から菅原町すがわらちょうを抜けて天神橋筋てんじんばしすじに出ると、しばらくそのまま北上した。

「──それはそうと、さっき訊きそびれたけどよ──」

 自分の声がエンジン音にかき消されないよう、芹沢は怒鳴るように言った。

「尋問せえへんって言うたやろ──!」

 琉斗は即座に叫んだ。そして、芹沢の頭が頷くように上下したのを確認して、自分も満足げに頷いた。

 南森町みなみもりまちを過ぎ、扇町おうぎまちの交差点まで来ると、芹沢は右折して東に進路を変えた。信号を五つ六つ越え、源八橋げんぱちばしの西詰にあるコンビニの角を左折したところでバイクを停めた。そして琉斗をバイクに残したままコンビニに入り、缶コーヒー二つとサンドイッチ二個を買って出てきた。

 再びバイクに跨った芹沢は、通りを右折して大川おおかわ沿いへと続く細い道へと入っていった。

 川沿いの土手の前でバイクを停め、芹沢はヘルメットを脱いで琉斗に振り返った。

「ほら」

 缶コーヒーとサンドイッチ二個を芹沢に差し出され、琉斗は抵抗する隙も与えられずに受け取った。

「え、これ……」

「昼メシ食ってねえんだろ」

 芹沢は言うと手元に残した缶コーヒーを琉斗に見せた。「俺は済んでるから、これだけでいい」

「……ありがとう」

 琉斗は素直に頭を下げた。そしてゆっくりとバイクから降りて道端に座り込み、土手に足を投げ出した。サンドイッチのラップを剥がして一口かぶりつく。サンドイッチは半分になった。口に入れた量が多すぎたのか、琉斗はすぐさま缶コーヒーのプルタブを開けて一気に流し込んだ。

 そしてバイクに跨ったままの芹沢がコーヒーを飲む姿をしばらく見つめ、それから言った。

「あんた、モテるやろ」

「そりゃまぁな。こんなツラぶら下げてりゃ、相手の食いつきはいいやな」

「合コンとか行ったら、一人勝ちか」

「それが面倒臭えから、最近は行ってねえな」

「……めっちゃむかつく」

「そっちが訊くから、答えたまでさ」

 芹沢は得意げな笑顔で言うとコーヒーを一口飲み、川の流れを眺めたまま問い掛けた。

「喧嘩したのか」

 琉斗は黙っていた。さっきのように尋問するなと抗議こそしなかったが、答えることもなかった。

「あんな寒いとこで、メシも食わねえで何時間も待ってたんだろ。なのにあっさり一人で戻ってくるなんて、よっぽどだぜ」

 琉斗は相変わらずそれには答えず、黙々とサンドイッチを口に運んでは缶コーヒーを呷った。そしてわずか三分ほどで食べきると、立ち上がって土手を下って行き、川沿いに佇んでしばらくは動かなかった。やがて彼は、左方向の川沿いにそびえる高層マンションを指さして芹沢に振り返った。

「あのでかいマンションに、茜は住んでる」

「ああ、知ってる」

「その隣の、半分くらいしか高さのないマンションがオレん家や」

「うん」

 琉斗はゆっくりと土手を上ってきた。

「──あいつのマンションが建つ前は、自動車メーカーかどっかの社宅が並んでたんや。オレにポケバイを教えてくれた幼馴染みも、そこに住んでた」

「そうか」

「スポーツも勉強もできる優等生やった。見た目も良かったし、性格もまっすぐ。当然みんなの人気者や。保育園の頃からいじめられっ子で、何をやっても鈍くさいオレのこと、何でか知らんけど可愛がってくれた。オレも唯一の味方ができたと思って、その子の後ろに必死でついて行ってた記憶がある」

 琉斗は元の場所に腰を下ろすと、芹沢に振り返った。

「きっとあんたもその子みたいやったんやろ」

「いちいち俺を引き合いに出すなよ」

 芹沢は苦笑いして言った。

 琉斗はちょっと口元を曲げると、話を続けた。

「──小3の頃、オレがその子のやってるポケバイに興味を持ったのを、その子の親がオレの親父に、やらせてみたらどうかって言うてくれたんや。親父、めずらしく乗り気になってやらせてくれた。オレもポケバイだけは飲み込みが早くて、ぐんぐん上達した。そうなると親父もオレに取り柄ができたのが嬉しかったのか、その子や親にいろいろと教えを請いながら、一年後にはオレを子供の大会にも出られるような実力にまで伸ばしてくれたんや」

「へえ、すごいじゃねえか」

「せやけど、それがかえってあかんかった。もともと勝負師気質で、物事の勝ち負けに異常にこだわる親父やったから、レースとなるとめちゃくちゃに燃えて。誰かに負けるなんて考えてもいてへんかったんや」

「マジになってハッパ掛けられたのか」

 琉斗は頷いた。「けど、しょせんはダメ坊やのルーキーや。実力者揃いの大会では、そう簡単には勝たれへん。せやのに親父は、負けたらそらもう、えらい剣幕でオレを罵倒するんや。周りに居合わせたみんなが引くくらい」

「子供の喧嘩に親が、ってやつか」

「──結局、オレは親父が怖くて萎縮してしもた。親父が必死になればなるほど、あとが怖くてガチガチになった。そのうち練習でもええ走りがでけんようになって、大会への出場も遠のく。親父は体罰でオレをしごいた。それが逆効果を生むってことが分かってなかったんや。で、さんざんオレを痛めつけた挙げ句、結局は失望して背を向けた……どうやら元来のオレを思い出したらしい」

 琉斗は自嘲の笑みを浮かべた。「悪いことは続くもんや。親の転勤でその幼馴染みが引っ越ししてしもた。救い主がおらんようになって、オレは元のいじめられっ子に戻った。第二期暗黒時代の幕開けや。学校でのいじめ、親父の暴力。母親は優しかったけど、学校と親父からオレを助け出してはくれへんかった。こんな人生なんて終わらせてしまいたいと思うけど、死ぬ勇気すらない。そんな毎日が、次の救い主が現れるまでずっと続いた」

 琉斗は芹沢を見た。芹沢は遠い眼差しで川を眺めたまま言った。

「次の救い主ってのが、深見茜か」

「……うん」

「そりゃまた長い暗黒時代を過ごしてたんだな」

 芹沢はバイクから降りると、琉斗と少し離れて自分も土手に腰を下ろした。

「──悪いけど、その第二期暗黒時代には興味ねえよ。ひょっとしたらその時期に親父さんがおまえの鼻をそんなにしちまったんだろうな、ってことくらいは想像するけど」

「……その通りや」と琉斗は苦笑した。

「俺はその第二の救い主の方に興味がある」

 芹沢は琉斗に振り返った。「しかも昨日限定でな」

 琉斗はちょっとがっかりしたように頷いた。

 そうだ。この男は刑事だった。事件があったからこうやってオレに付き合ってるだけで、オレ自身のことなんかに興味はない。

 だったら、それを逆手に取るって手段もある。

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