また失敗したかな、と一条は思った。


 電話で三上麗子に指摘された通り、俗に言う方向音痴である。

 明るい日中に外を歩いているときや、車を運転しているときはそうでもないのだが、広い建物の中や、地下に潜ってしまうと途端に方向が分からなくなる。実際、今勤めている警察署でも、いまだに自分の所属する刑事課のひとつ階下には何課があって、真上にはどの部屋があるのかと訊かれたら、即答できるかどうか怪しいものだった。


 池波涼子と別れたあと、時計を見ればもう十一時前で、何か美味しいものでも食べながらこれからの対策を立てようと、女性一人でも入りやすそうな店を物色して歩いた。

 そこで以前、芹沢に教えてもらっていた堂島どうじまのオフィス街にあるというフレンチレストランのことを思い出し、店の名前と入居しているビルの名前が手帳に控えてあったのでタクシーをつかまえ、十分で店の前に乗り付けた。

 まるでヨーロッパの避暑地にでも来たような洒落た店の雰囲気と、美味しい食事を堪能しながら、芹沢は絶対に女連れでここへ来たのだと確信し、無性に腹が立った。

 しかしまあそこまではまずまず順調だった。


 食事を終えると、一条はレストランのテラスに出てある男に電話を掛けた。明らかな職権乱用であったが、有力な手懸かりと残り時間の少ない現状では、堅いことは言っていられなかった。

「──もしもし、一条ですけど」

《……警部? どうしたんですか?》

 相手は明らかに驚いていた。休暇を取っているはずの上司から、自分の携帯に突然の電話があれば当然のことだ。

「驚かせてごめんね。今、電話してて大丈夫?」

《ええ、構いませんよ》

「実は、折り入って頼みがあるの」

《ボクに?》

「ええ。好き勝手に休んでるくせに、筋違いの上司風を吹かせて悪いんだけれど、二宮にのみやくんなら聞いてくれるかと思って」

 二宮と呼ばれた男は、ちょっと考えたようだった。しかしさほど時間を掛けずに答えを返してきた。

《ボクにできることなら》

「ありがとう」

 一条は安堵したように微笑んだ。そしてすぐに気を引き締めて真顔に戻ると、一つ一つの言葉を噛みしめるように、電話の相手・神奈川県警山下やました署刑事課の二宮しゅん巡査に説明し始めた。

「ある人物について調べて欲しいの。名前は林淑恵。木が二つの林に、淑女の淑、恵と書いて淑恵。京都大学経済学部を七年前に卒業した人物よ。今のところ分かっている事実はそれだけ。それ以外の情報を、どんなことでもいいから出来るだけ詳しく、そして正確に知りたいの」

《ただのプロフィールだけじゃなく、前歴やも含めて調べるんですね》

「ええ。それをこっちで出来たら苦労はないんだけど、丸腰じゃやれることなんてたちまち限られてしまって」

《そうでしょうね》

 二宮は笑みを含んだ声で言った。《と言っても、上司うえを通さずにとなると、こっちもそう簡単じゃないですよ》

「もちろん分かってる。調査結果の完成度については文句は言わないわ」

《……大学の方面からアプローチするしかなさそうですね》

「方法は二宮くんに任せるわ。無理のないようにやってくれていいから」

《警部が今日も休暇を取られたことと関係あるんですか》

「……そういうことになるわね」

《時間もあまりなさそうですね》

「できれば今日中に。何とか形を作って明日に繋げたいから」

《分かりました。自信はないけど、できるだけやってみます》

「恩に着るわ。帰ったらたっぷりお礼はするから」

《いいですよ、そんなこと》

「良くないわよ」と一条は笑顔になった。「だいいち、後々の口封じのためにも謝礼は必要だし」

 二宮もあはは、と笑った。《じゃあ、その代わりと言っちゃ何ですけど、ボクの頼みも聞いてもらえませんか。もしもお時間があるなら、ですけど》

「交換条件ね。いいわ」

 一条は思わず微笑んだ。二宮がただのお人好しなら、あいにく刑事には向いていない。

《警部は今、大阪にいらっしゃるんじゃないですか》

「……よく分かったわね」

《さっきの女性が、京大出身の人物だったからです。あとは、を考慮して》

「本当はそっちの方の推測が勝ったんじゃない?」

 一条は小さく笑って言った。

《まあね》

「で、頼みって何? くいだおれのマネキンの画像でも送る?」

《それも捨て難いですけど、ちょっとおつかいを頼まれてもらいたいんです》

「いいわよ、何かを買ってくるの?」

日本橋にっぽんばしの家電街にある『フィギュアランド』って店に行って、フィギュアを買ってきて欲しいんです》

「なにそれ? 結構キツイわね」

 二宮はいわゆるアニメオタクである。そしてそういう人たちの例に漏れず、そこから波及してゲームやフィギュアにも造詣が深い。警察の独身寮に住んでいるが、部屋はフィギュアやゲーム、アニメのDVDなどが整然と並び、ある意味壮観らしい。歳は二十八歳で芹沢と同じだった。女性の二十八歳というと既婚か未婚かの違いはあるが、あとはまあ、たいして変わらない。しかし男性の場合は実にいろんな二十八歳がいるものだと、一条は日頃から二人を較べてはしみじみと思っていた。 

 一条は顔をしかめて言った。「きっと、あたしたち一般人が見たこともないようなアニメの人形でしょ?」

《ご察しの通り、極めてマニア向けの品物です》

「……エッチな人形じゃないでしょうね」

《違いますよ。そんなものを警部に買いに行かせるはずがないじゃないですか。普通のロボットです。ずっと前からアキバやネットで探してるんですけど、見つからなくて。それが偶然にも昨日、大阪の店で一体だけ入荷したって情報が入ったんで、ボク、今度の非番の時にでも行ってみようかと思ってたところなんです》

「ネットで買えないの?」

《最近、ネット通販で粗悪品掴まされちゃったんで。用心してるんです》

「あたしは飛んで火にいる何とか、ってわけか。いいわよ、買ってきてあげる。だけどそんなに希少価値の高いものなら、もう売り切れちゃってるってことはないの?」

《そこは手抜かりなくやってます。今朝も店に電話入れて、売れてないかどうか確認してますから。それに、個人的に僕が気に入ってるキャラなだけで、実はさほど人気は無いんです》

「ふうん。分かった。だけどそういうものって、高くはないの? 恥ずかしい話、そんなに予算に余裕はないんだけど」

《大丈夫ですよ。一万円もしません》

「良かった。それなら何とかなるわ」

 一条は本気で胸を撫で下ろし、二宮から店の所在地と買ってくるフィギュアの商品名を聞き、メモに取った。そして調査結果が分かり次第連絡をくれるとの約束を取り付けて、電話を切った。

 一条はその足で二宮の“おつかい”を“遂行”することにした。

 フィギュアショップの住所は中央区の日本橋となっていた。そこは東京で言うところの秋葉原あきはばらと同じような家電とオタク文化の街らしい。しかし二宮によると、フィギュアショップは街の南の端にあるので、地下鉄堺筋さかいすじ線の恵美須町えびすちょうという駅で降りれば歩いても五分とかからないはずだ、とのことだった。

 聞いたことのない地名の連続に、一条はいささか身構えた。

 普段、来阪の際は新大阪駅で新幹線を降り、タクシー乗り場で車をつかまえて場所を告げるだけだ。すると運転手が勝手に芹沢のマンションまで連れて行ってくれる。確かにそこまでは単独行動だったが、あとはどこへ行くにも芹沢と一緒だし、いちいちどうやって行くか考える必要もなかったのだ。


 しかし、いずれそうも言っていられなくなる。大阪府内のどこへでも、場合によってはその周辺の地域へも、一人で自由に、そして迅速に行けるようにならなければ。


 ──そうでなければ、私は──。


 一条はそのことを考えるといつも同じように心が暗く深く塞がっていくのを認識し、それでも考えずにはいられない現実に絶望しながらも、自分はとにかく一歩を踏み出してしまったのだと自覚していた。

 それはつまり、後戻りはできないと言うことだ。

 二宮の依頼もまた、そのためのいい訓練の一つになる。


 レストランを出て少し歩くと、いつの間にか高速道路がすぐ右側の頭上を走る川沿いの道に出ていた。そのまま進んで大きな幹線道路にぶつかり、高速道路の高架をくぐって橋を渡った前方に、見覚えのあるようなないような大きな建物が見えてきた。ところが道路脇の標識には『大江橋おおえばし』と書いてあり、まるで耳慣れない地名だったのでこれはマズいと思い、慌てて引き返した。そのまままたしばらく歩いて、ビルの隅っこに地下鉄の梅田うめだ駅へと続く通路を見つけたので、ほっと安心して階段を下りた。

 するとほどなく梅田の地下街の一角に出た。しかしその広さと複雑さは国内最大規模と言われるだけあって、方向音痴の一条にはまさに迷宮だった。こんなところでむやみに歩き回ると大変なことになると悟った彼女は、とにかく頭上の案内板に忠実に地下鉄の梅田方面を目指した。

 恵美須町駅へ行くには、東梅田駅から谷町たにまち線の天王寺てんのうじ方面行きに乗り、一駅先の扇町おうぎまちで堺筋線に乗り換える必要があった。そのくらいならよそ者の一条にも簡単にこなせる道のりだ。駅の数にして六駅。乗り換え時間に余裕を見たとしても、おそらく三十分もあれば辿り着くだろう。そこから地上へ出て、住所を頼りに多少の回り道も考慮しながらフィギュアショップを探したとして──。

 券売機の上部に掲げられた路線図を見ながら、一条はだいたいの所要時間を計算した。


 ところが、そんな楽観的な予測は彼女の重度の方向音痴の前ではもろくも崩れ去った。

 東梅田駅で電車に乗ってから約一時間半。一条は依然として目的地に着けないでいたのだ。

 おまけに、意外にもそのあいだに二宮から連絡が入った。

 彼によると「あくまで中間報告です」とのことだったが、林淑恵のこれまでの経歴が明らかになっていた。どうやって調べたのか分からないが、二宮は確かに優秀な刑事である。さらに詳しいことが分かり次第また連絡しますと言った彼に、一条は自分がいまだに彼の依頼を完了していないとは言えなかった。

 そこで一条は三上麗子に電話を掛けた。そう、要するに彼女は根を上げてしまったのだ。

 電話で麗子に一歩も動くなと言われ、一条は素直に従った。

 寒空の下を待つこと三十分。三上麗子は見慣れない一人の男性を伴って現れたのだった。




 ※「ヤサ尾け」……住居を特定すること

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