Ⅲ.イギリス生活(推察)


 地下鉄御堂筋みどうすじ淀屋橋よどやばし駅9番出口から西に百五十メートルほど歩いたところのイタリアン・レストランで、麗子は旧友の萩原豊はぎわらゆたかと昼食を摂っていた。


 萩原は麗子や鍋島の大学の同級生で、関西系の大手都市銀行に勤めていた。入行以来、海外支店や大阪本店での勤務と、いわゆる出世への王道を歩んでいたが、半年前、職場での人間関係でちょっとした躓きを経験し、それをきっかけに福岡勤務になっている。

 就職とほぼ同時ににいわゆる『デキ婚』をしたが、その翌年に始まった海外への単身赴任が原因で僅か三年で破局を迎え、前妻に引き取られた愛娘に対する一見ナルシスティックな負い目は強く感じてはいるものの、現在は極めて気ままな独身暮らしだ。

 そんな彼が、今朝一番の新幹線で福岡から大阪にやってきた。明日からの大阪営業本部での出張研修のためであり、本部への現状報告と前職場への挨拶も兼ねて一日早く大阪入りしたのである。

 午前中は本部の営業統括部や海外勤務時代の上司のいる国際部に顔を出し、夜は同期が酒席を設けてくれる予定だった。午後いっぱいは時間が空いたので、西宮にしのみやの実家に顔を出すことも考えたが、どうせあと半月もすれば正月だし、その時には帰省することにしていたので、今回は見送り、誰か友人と連絡を取ってみようと考えついた。

 そこで、大学講師の麗子ならこの時期はもう仕事も暇だろうし──たいていの大学は冬休みだから、という安易な考えに基づいているらしい──女性に対する一般的な気遣いも無用な相手だったので──あくまで萩原にとっては、と言う意味においてだが──彼女に連絡し、「奢るから」と言って呼び出したのだった。


「──ゆっ、行方不明 !?」

 メインディッシュの平目を呑み込んだ瞬間、萩原は声を上げた。

「しっ、声が大きい!」

「……ああ、悪りぃ悪りぃ」

 萩原は周りを見回し、誰も自分たちの話に興味を示していないことを確認してから、麗子に向き直って声をひそめた。

「……行方不明って、どういうことや?」

「言葉のままよ。突然いなくなって、どこ行っちゃったか分かんないってこと」

 麗子は怒ったように言い捨てた。

「せやかて、結婚式までもう何日もあらへんのやろ?」

「今日を入れてあと四日」

「……マジかぃ」と萩原は驚きを隠さずに言った。「何でまたそんなことに?」

「それも最初はまったく見当もつかなかったのよ。だけど、昨日で少しは分かってきたというか……はっきりとは断定出来ないんだけど、原因と思えなくもない事実が出てきたの」

 麗子は昨日一日で分かったことを、萩原に話した。

「……ふうん」

 一通り聞き終えた萩原は、納得したような腑に落ちないような、どちらともとれる表情で小刻みに頷いた。

「どう思う?」麗子が訊いた。

「どう思うって……その前におまえ、こんなセンシティブなことを俺に喋ってしもて良かったんか?」

「豊だもん、信用してるわよ。真澄のことだって知らないわけじゃないんだし」

「そりゃどうも」

 萩原は思わずぺこりと頭を下げた。そして続けた。

「二週間ほど前から複数の男が新居の周りをウロウロしてたっていうのは、今回のことと関係があるのは確かなんか」

 麗子は首を振った。「それは未確認よ。地元の警察官が口を滑らせたことで、今は確かめようがないから。もう一度マンションの周辺を聞き込みしようにも、昨日の住民の反応からも成果は期待できないって分かってるし」

 萩原は頷くと、小皿に取り分けられたフォカッチャをちぎりながら言った。

「未確認ではあるものの、一応は関連づけて考えてるってとこやな」

「そう。いなくなった経過から推測すると、中大路さんは自らの意志で姿を消した風ではあるけれど、実際はその連中に脅されたからなのかも知れないし、あるいは連中がウロウロし始めたことで真澄に危害が加えられるのを恐れたとも考えられるから」

 麗子の説明に、萩原は考え込むように俯いていたが、やがてちょっと腑に落ちないような表情を浮かべて言った。

「──同窓会で元カノってのに会ったのが、がやたらとふさぎ込むきっかけになったらしいってのは分かったけど、いざそのことと、謎の男らが新居の周りをウロウロしてたってこととは、俺の中ではちょっと結びつきにくいな」

「というと?」

 意識的にかどうかは分からないが、事情を知るなり早くも中大路を『そいつ』呼ばわりしている萩原のことを、一種の頼もしさを感じながら麗子は訊いた。

「いや、俺は鍋島みたいにプロじゃないからよう分からんのやけど……久しぶりに昔の恋人に会うて、結婚を控えて穏やかなはずの心にさざ波が立つってことは、誰にでもある話やんか」

「誰にでも? そうかな」

 麗子は額に皺を寄せ、まったく理解できないとでも言うように顔をしかめた。「それは、男なら誰にでも、って言う意味?」

「……いやまぁ、誰にでも、ってのが誤解を生むんやとしたら、よくある、とでも言うかさ」

「豊でもあるってこと?」

 麗子の言葉に、痛いところを突かれた気がしないでもない萩原は、いささか居心地の悪さを感じつつも溜め息をついた。

「……分かった、麗子には理解できひんのやな。ほんならそこにこだわってとどまるのはやめよう。つまり、メシ食ったり風呂入ったりっていうような、人の習慣としてあるわけではないけれども、かと言って極めて希な状況やとか、特別な人間にしか起こり得ないことでもないというか……」

「つまり、一般的な日常の中に存在はしてるってことね」

「……分かってくれた? ほんならええねん」

 萩原はちょっと面倒臭そうに言った。そして、いくら美人であろうと、こんな非情緒的な女性といずれは結婚しようという、鍋島の懐の深さに感心しながら話を続けた。

「その一方で、新居の周辺を正体不明の男たちが様子を伺うようにうろついてたなんて、まるでサスペンス映画か推理小説の中の話や。それこそ日常とはかけ離れてる。元カノと再会して復縁話を持ちかけられるようなことは普通にあり得たとしても、それがこじれたからって怪し気な男らが新居の周りをうろつくなんて、そこはあり得へんやろ。日常と非日常。この二つを結びけるには、両者のあいだにもうちょっと説得力のある過程が必要って言うかさ」

「そう言われれば、そうね」

「あるいは、まったく何も無いのかも知れん。例えばその男には本人も気づかへん何らかの危険が忍びよってて、たまたまそれを知る立場にあった元恋人が、同窓会で会うた際に警告しただけなんかも」

「だとすれば、元カノと謎の男たちは無関係ってことよね」

 麗子は噛みしめるように頷いたが、すぐに何かを思いついたような表情になり、顔を上げて言った。

「ひょっとして、元カレが幸せになるのが悔しくて、人を使って嫌がらせしようとしたのかも」

「で、挙げ句にはその婚約者を拉致ってか?」

 萩原は顔をしかめた。「その女、いったい何モンなんや」

「そこがカギなのよね。豊の言うようにその女性と謎の男たちが無関係だったとして、その上で彼女が中大路さんの身に降りかかろうとしている災難を知り得る立場にはあったんだとしたら……同級生ってこととは別に、中大路さんとは今でも近いところに居るのかも」

「仕事関係かな」

「だけど、昨日会った専務からは彼女の話は出てこなかったわ。同窓会の話はしてくれたのに」

「家業を継ぐ前は、何年か商社に勤めてたって言うてたな」

「ええ」

「どこの商社?」

「確か──」麗子は顔を上げた。「そうよ、興和こうわ商事よ」

「……系列か」

 萩原は片目をつむり、ちょっと嫌そうな顔をした。彼の勤める銀行のグループ企業だったからだ。しかし、すぐにその表情を引っ込めると、今度は希望に目を輝かせて言った。

「ロンドン勤務してたって?」

「ええ。去年の春まで」

「そりゃラッキーやった」

 萩原は言うと膝のナプキンで口元を拭った。「今年の春まで、同じロンドン支社に勤務してた人間を知ってる。うちの銀行から、興和商事に研修出向してた同期や。今は戻ってきて大阪本部にいる。もしかしたら、何か知ってるかも知れん」

「でも、商社時代のことだけでしょ?」

「当たって砕けろや」

 萩原は噛みしめるように言うと麗子の前に並んだ料理を見て言った。「早よ食べてしまえよ。そいつに会いに行こう」

「ちょっと待ってよ──いいの? 出張で来たんでしょ?」

 麗子は戸惑いを隠さずに言った。

「夜までは空いてるんや」 

 そう言うと萩原は腕時計を覗いた。「まだ六時間ある」

「分かった」

 麗子は嬉しそうに頷くとナイフとフォークを持った。


 食事を済ませ、店を出たところで萩原は中大路とほぼ同時期に興和商事ロンドン支社に勤務していた人物と連絡を取った。その人物は現在興和銀行大阪本部の人事部におり、萩原からの申し出を快く引き受けると、三十分後に本店のほど近くにあるカフェを指定してきた。萩原たちが食事をしたレストランからもすぐだったので、彼らは余裕のある歩調で目的地へ向かった。

「──このこと、勝也に報告しといた方がいいかな」

 オフィスビルの谷間を東に向かって歩きながら、麗子は言った。

「何か分かってからでもええんとちゃうか」萩原は答えた。

「そうよね。変に期待させてもいけないし」

「あいつ、元気にしてるか」

「いつもの調子。仕事は相変わらず気の滅入ることばかりで、新人でもないのに、そこそこ引きずるし──」

 麗子は少し浮かない顔で言うと萩原を見た。「聞いた? 担当してた事件で小さな女の子が亡くなったの」

「いいや、いつの話?」

「三ヶ月前。母親が失踪して、勝也と芹沢くんがずっと面倒を見てたんだけど、戻ってきた母親に引き渡したその日に、アパートの部屋で──」

「ちょっと待てよ、それって菜帆なほのことか?」

 萩原は麗子に振り返った。

「はっきり憶えてないけど──確かそんな名前だったと思う。聴覚障害のある子よ。小学生くらいのお兄ちゃんもいて、彼一人が遺されて……遠くの親戚に引き取られたって」

「……そんなアホな」と萩原は唇を噛んだ。

「豊、知ってるの?」

「ちょっとな」 

 そう言うと萩原はしばらく考え込むように俯いていたが、やがてゆるゆると顔を上げ、正面を見たままで麗子に言った。

「……あいつみたいな性格では、刑事はしんどいかもな」

「そうかもね」

「おまえが支えてやらんと」

「自信ないけど」

 麗子は力なく肩をすくめた。「今度のことでも、また必要のない負い目を感じてるみたいだし」

「真澄ちゃんに対してか?」

「そう」

「それってどうなんやろな。少なくとも真澄ちゃんにとっては決して有り難いこととは言えへんのと違うか」

「そうでしょ。だけど芹沢くんに言わせると、この先ずっと勝也はそうやってあたしと真澄の二人を引き受けていくんだろうって。だからこそちゃんと腹を括るべきだとも」

「よく見てるな。あの兄ちゃんも」萩原は小さく笑った。

「分っかんないわ、あたしには」

 麗子はちょっと怒ったように言うと、肩に掛けた鞄のストラップを強く握って前を見た。

 そんな麗子を友情のこもった呆れ顔で見つめていた萩原は、やがて言った。

「なぁ麗子」

「なに?」

「おまえ、『情緒纏綿じょうちょてんめん』って言葉、知ってるか」

「……ピンと来ない」

 そう言うと麗子は鞄からスマートフォンを取り出し、慣れた様子で指を動かしてはしばらく画面を見つめるという動作を繰り返した。どうやら、辞書検索のサイトで、今、萩原から聞かされた言葉の意味を調べているらしい。言った相手には訊かず、自分で調べようとする。こういうところもまた味気ないなと思いながら、萩原は麗子が答えに到達するのを待っていた。

 やがて麗子は「ふうん」と無感情に呟くと、視線を上げ、これまた無表情な顔で言った。

「で?」

「おまえに足らんのは、それや」

 萩原は言うと、やれやれという感じで溜め息をつき、両手を頭の後ろに回して空を仰いだ。




※「情緒纏綿」……情緒が深くこまやかなさま。情緒が心にまつわりついて離れないさま。(『大辞泉』)

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