大事なもの、ひとつ

 目が覚めた瞬間、既に全部が終わっていて。


 そうして、何かが始まろうとしていた。






 おかしい、と。

 まだ半分以上眠っている夢現の状態でも、はっきりとそれだけは感じ取れた。


 おはようの代わりに、早く起きろ、と呆れたように急かす声が聴こえない。

 今の季節、朝夕はもう酷く冷え込む。それは相手も当然実感しているはずなのに、そのままうだうだと惰眠を貪っていれば容赦なく布団を引っぺがしてくれる。そんなギリギリの時間帯になってなお、何の声もしない。


 意識が緩やかに浮上する感覚。

 閉じた瞼の裏で光が踊る。視覚は刺激され、ああ、朝だなぁ……とぼんやりと思うも、それでもまだ声は聴こえない。

 今日って休みの日だったっけ? と鈍く回転し始めた頭で考えて、すぐに違う、と脳内で否定するに至った。休みまでまだあと三日はある。


 おかしい、と思った。

 冷えた空気。布団に潜り込んだ自分はぬくぬくと夢見心地で、声が聴こえなくて。



 ―――― 当たり前のものが、ここにはなくて。



「ルーフェ」



 代わりに聞き覚えのある、けれど絶対にここで聞くことなどないはずの声が、自分の名前を呼んだ。




 冷えた空気が頬を撫でた。

 背後で窓が開いた気配がしたから、そこから外の冷気が流れ込んできているのだろう。いつもの自分なら、間違いなくもう一度布団へと逆戻りしている。


 それをしなかったのは、先ほど背後から聴こえてきた、ありえないはずの声と。


「なに、これ……」


 目を開けて、視界に飛び込んできた光景に、衝撃を受けたせいだ。


 別に、何も目に見えて変なものがあったわけではない。

 むしろその逆で、そこには何もなかった。

 もちろん、ベッドや机といった据え置きの家具はきちんと存在している。けれど、そこにあった生活感とでも言うべきもの、それが綺麗さっぱりと拭われていたのだ。


 隣に並んだベッドは使われた様子もなく、布団は丁寧に畳まれていた。

 机の上に乱雑に広げられていたはずのノートや図面は綺麗に片付けられ、今は見た目新品と大差ない机と椅子だけがそこに据え置かれている。


 何も、なかった。

 そこに『誰か』がいたのだと、そう匂わせるような痕跡が、何ひとつ。


「……ルーフェ」


 もう一度、声が名前を呼ぶ。

 それは、ここにいないはずの人の声。


 ―――― いるはずの人間は、その姿さえも見えない。


 名前を呼んだ声は、ひどく聞き覚えのあるものだった。

 どんな状況にあっても、さすがにこの声を聞き間違えることもない。


「エーリ」


 振り向かずに、ルーフェは養い親の名前を呼んだ。








     *  *  *


 いるはずの人間が、いなかった。

 いるはずのない人間が、ここにいた。


 言葉にすれば、たったそれだけだ。


 いるはずのない人間であるところのエーリは、養い子の呼び掛けにうんと軽く返事をすることで応えた。

 頷かれて、ああこれ夢じゃないのか、と今更のようにルーフェは自覚する。―― 自覚したら、余計に判らなくなった。


 何でここにいるのか、とか、訊きたいことは山のようにあって、けれどそのどれもがうまく言葉にならない。

 無駄に出来の良い、と称されることの多い頭の中でぐるぐると思考が渦を巻いている。同じところをぐるぐると回るばかりで一向に答えにたどり着かないのだから、本当に無駄だと自分でも思う。


 ぐちゃぐちゃになった思考の中、唯一浮かび上がってきたそれを、ルーフェはぽつりと口にした。


「……レーヴは?」


 漏れた呟きは、さながら硝子のような脆さを垣間見せた。


 薄く震えるその声に、養い親は軽く眉を寄せる。ルーフェが、今どんな表情をしているかは判らない。子供は一切こちらを振り返らない。ただ一心に、人の気配のないベッドを、持ち主がいなくなった机を見つめている。


 声は、微かに震えていた。濡れた気配はなく、からからに乾いた声音。

 表情は、やっぱり見えない。けれど。

 ルーフェが抱えている感情、少なくともその一端は理解できるなと、エーリはそんなことを思った。


「レーヴは、ここを出たよ」

「……なんで?」

「全部説明すれば長くなるよ。……聞きたい?」


 少しだけ沈黙を置いて、抑揚のない声が答える。


「要点だけ、手短に教えてくんねー?」


 振り返りもしない背中は、背筋がピンと伸びていた。

 嘘も誤魔化しも、ましてや慰めさえも必要としていない声だった。だからエーリも、真実だけをはっきりと口にする。


「簡単に言うなら、くだらない権力争いの結果。あの子はさんざん父親に振り回された揚句 ―――― お前に危険が及ぶのを恐れて、ここから出て行った」


 先のレーヴとの会話から読み取ったあちら側の事情を、エーリはごく簡潔に述べた。


 これが、正確にあの子供の心情を言い表しているとも思わない。彼が何を考えていたのか、エーリにそれを読み取る術もない。僅かに読み取れたのは、諦観と安堵ばかりで、でももうそれで十分だと思った。


 あの子供は、ルーフェはもう大丈夫なのだというその事実に、掛け値なしに安堵していた。

 それが、エーリの知る唯一で、全部だ。


 理由などは知らない。

 細かい事情なども斟酌しない。

 ただ、レーヴはルーフェを守りたかったのだと思う。だから父親に従い ―――― 従うふりをしながら情報は渡さず、ぎりぎりの妥協点を見付けてこちら側に情報を流していた。それを、今更のように知った。


 そしてレーヴ自身はといえば、限界点を自ら決めて終わりを望み、最後にすべてを手放した。守り方としては最悪だ。


「なに、それ……」


 養い子が呟いた声に、エーリも確かにね、と頷く。

 今の気持ちを端的に表現するならば、何だそれは、だ。そのひと言に尽きる。


「オレ、なんも聞いてねーよ……?」

「……だろうねぇ」


 呟きに、エーリは肩を竦めた。


「あの口ぶりからしてそうじゃないかとは思ってたけど。ほんっとうに、徹底的なまでに、自己完結して突っ走ってくれたもんだ」


 そうじゃないかと思ってはいても、実際にそれを裏付けられると何とも言えない心持ちになる。

 随分と長い年月を生きてきたエーリだが、こんな時に覚える感情には昔も今も何ら差異はない。脱力するし、何だかな……と思うし、呆れたような気分になるし、後はやっぱり何だかんだ言っても腹立たしい。

 加えて今回は、幾許かの後ろめたさのようなものまで付随している。後味の悪いことこの上ない。


 多分、今の自分を一番強く支配しているのは苛立ちの感情だ。

 自分にも若干向けられているそれは、けれど大半があの子供へと向けられている。

 ふざけたことを、と。幾分冷えてきた頭がそんなことを考える。


 何ひとつ、告げず。手だけは打って、そうして勝手に幕を引いた。

 助けて、ぐらい言えば良かったんだ、とエーリは思う。

 たかが十年と少し、その程度しか生きていない子供であれば、それは許される言葉だったはずだ。そして、請われたのであれば、自分は手を貸すことを一切躊躇いはしない。既にあの子供のことは、ルーフェと同じ庇護するカテゴリの中に入れてしまっている。


 自ら設けた、境界線の内と外。

 線引きの外にいれば切り捨てることに何の痛みも後悔も覚えないが、懐の中にあるものに関してはそうもいかない。内の人間に対して結局のところ甘くなる自分の性格を、エーリは熟知している。しているから、今腹が立っている。見事な論法の成立だ。


 言ってくれれば良かったのだと、今更のように思う。それは、不本意ながらも終わってしまった今となっては、完全に八つ当たり染みた所業でしかない。だからこそ、苛立ちはあの子供へと向かい、己をも苛む。


「あまりに腹が立つから、どうしてくれようかと今思ってる」


 はっ、とやさぐれついでに鼻で笑って、エーリはトン、と窓枠から手を離した。

 トントン、とせいぜい三歩程度しかない距離を詰めて、養い子の背後へと移動する。やはりこちらを振り返りもしない背中を見下ろして、エーリは瞳を眇めた。

 沈黙が、僅かに数秒。


「……なー」

「うん?」

「エーリ、レーヴに会ったの?」

「さっきちょっとね」

「……話、聞けた?」

「なーんにも」


 肩を竦めて、エーリはぼふりとルーフェのベッドに腰を下ろす。ちょうどルーフェと背中合わせになる位置に陣取り、そのまま養い子の背に自分の背を預けた。


「むしろこっちの訊きたいことを適当にはぐらかしつつ、代わりに自分が言いたいことだけは全部言って、すっきりして去ってくれちゃったカンジ」


 あ、思い出したらまた腹立ってきた、と毒づいたエーリを、ルーフェは初めて肩越しに振り返った。

 間近に見た夕焼け色の瞳は、濡れてはいなかった。けれど、どうしようもなく傷付いた色彩がそこにはあって、見捨てられた子犬のような風情が漂っている。


 まったく、こうなることが判らなかったわけではないだろうに。

 内心で眉を寄せながら努めてそれを表には出さず、エーリは手を伸ばしてルーフェの頭をくしゃりと撫でた。ふっと吐息のような微笑を浮かべて、ごちりとルーフェに頭を寄せる。うん、だからね、と紡いだ声は我ながらひどく柔らかで ―――― かつ低音だった。


「こっちの言い分も聞きやがれ馬鹿野郎 ―――― ってことで、殴り込みでもしようと思って」


 あくまでもにこやかに。

 淀みなく躊躇いなく爽やかに言い切ってのけたエーリに、ルーフェはぽけっとした視線を投げた。その視線を受け止めて、エーリは鮮やかに笑う。


「さっきも言ったけど、腹が立ってるんだよね、僕」

「……や、聞いたけどさ」

「うん。ひっさしぶりにこれだけ純粋に腹が立ったね。割と貴重な体験させて貰ってるような気はするんだけど、それはそれとしてやっぱり普通にふざけんなと思うし」

「……それは、オレもそう思うー」


 こてん、と肩口に預けられた頭を、だろう? ともうひと撫でして。


「だから、ふざけんなって文句言うついでに、元凶こてんぱんに伸しに行こうかと……」

「オレも行く」


 皆まで聞かず、ルーフェが言った。

 傷付いた色彩はそのままに、その上に決意の色を乗せた瞳を見て、おや、とエーリは思う。一緒に行く? と訊く前に断言されてしまった。意外に立ち直りが早いと思えばいいのか何なのか。


「オレも行く。ぜってー行く」

「ああ、うん。別に止めないよ?」

「行って、まずはアイツぶん殴る」

「あ、いいねそれ。僕も参加希望」


 少しの意地と、明確な意思と。

 今のルーフェから読み取れるのは、そんなものだ。


「オレも、すごく腹が立ってる」

「うん」

「けど、そーゆーの、全部後回しにしようかと思って」

「え?」

「怒るのも泣き喚くのも、全部後にする」


 それすんの疲れるし、多分ものすごい時間も無駄にする、と鼻の頭に皺を寄せてルーフェは言った。


 間違った認識ではないけど、そうきたか……とエーリはそんな感想を抱く。

 普段は感情のまま素直に動き回る子供なのに、変なところで理性的だ。何故この極限の状態で、自分を客観的に見ることが出来てしまったのか。泣き喚けば、確かに疲れもするし時間も結構な度合でロスするだろうけれど、一度感情を吐き出してしまった方がずっと楽だろうに。


 まず間違いなくこれ僕とかクロウあたりの影響だよなぁ……と、割と今更なことを思いつつ、エーリは目線だけで先を促した。

 すんごい腹立ってるし何でって思うしふざけんなって喚きたいし今も結構思考がぐっちゃぐっちゃで気ィ抜くと泣きそうなんだけど! と息継ぎなしのひと息でそこまでを前置いて。


「迎えに行く。―――― アイツをここに、連れ戻す」


 話は全部それからだ、と夕焼け色の瞳を決意に染めて、ルーフェは言い切った。


 おやまぁ、と感慨深いものを含んだ眼差しで、エーリは養い子を眺めやった。

 細かい年月は特定できないものの、それでも大体十年。それが子供の生きてきた年月で。

 その長さを、もう、と称すのか、まだ、と称すのか。自分の生きてきた年月と照らし合わせれば、明らかにそれは後者だ。


 まだ、十年。その程度。

 それだけしか生きていない、世間的に見ても子供でしかないこの養い子だけれど。

 その心意気は随分と男前だ。


 巡らせていた顔を戻して、エーリはふはっ、と息を吐き出すようにして笑った。


「―――― いいよ。元から、あの家には行くつもりだったしねぇ」


 お前の望むように手筈は整えてあげる、とエーリはいっそ楽しげな表情で告げる。


 当初の困惑も怒りも薄れ、思考が通常通りの回転を始めた今、さて……と現状を振り返ってみれば、まぁちょうどいい機会だったかな、とごく自然にそう思うことができる。

 いい加減鬱陶しいな、とそんなことを思わないでもなかったのだ。


 あの家 ―――― 『ノーデンス』に。


 手を出したのは、あちら側だ。

 それなら、何の躊躇いもなく叩き潰してやろうじゃないかと、エーリは薄ら寒い決意をまったく抵抗なく心中で下した。


「まぁ……まずはとっとと着替えなよ。ここで待っててあげるから」

「……うん」

「アカデミーは……帰省させる、ってことでとりあえず休みの許可貰えばいっか。どうせそんなに真面目に授業なんて受けてないでしょ? ルーフェ」

「うん」


 即答。

 そこで頷いてしまうのは常識的に如何なものかと普通なら思うところなのであろうが、そもそも問い掛けたのが非常識の大元であるところの養い親、エーリだ。あっさりとだよね、と頷き返した。


「で、あとは……と。あの子の退学届も、学長のとこで差し止めて貰ったから……うん、当面の問題はないかな」

「はぁっ!? 退学届っ?」

「うん。出したってさっき言ってたから、受理される前に差し止めてみた」

「あああああああもう、あのばか! むかつく!」


 今ほどエーリの行動力をありがたいと思ったことねーぞ、とルーフェは子供らしからぬ低音で呟いた。乱雑に脱いだ寝間着をべしりと投げつける。そしてそのままの勢いでシャツに手を通し、習慣でネクタイを締めようとして、いらねーむしろ邪魔だとぽいっと投げ捨てた。


 その間、僅かに数分足らず。

 よしっ! とルーフェは拳を握りしめた。


「行く」


 宣言に、エーリは笑って、お供しましょうと立ち上がった。










 お互いがお互いに、大切なだけだった。

 傍で見ていると、それが良く判る。


 ルーフェはレーヴが大切で ―――― レーヴにとっても、それはきっと同じだった。


 なのに、どうしてその方向性が真逆に行ったのか、エーリからしてみればそれが不思議でならない。



 ルーフェは、大事なものは両手をいっぱいに広げて守ろうとする。


 レーヴは、大事なものを壊しちゃいけないと自分から遠ざける。



 見事なまでに真逆のベクトル。

 根底にある気持ちは一緒なのにねぇ、と呆れたような、もういっそ微笑ましいような気持ちでエーリは思った。



 お互いが、お互いを思った。

 ただそれだけが作り出したこの状況。


 悪いけど、君を勝たせてあげるつもりはないんだよ、とエーリは足音も荒く歩を進める養い子の旋毛を見下ろしながら小さく笑みを零した。


 諦めたように、それ以上に安堵したように綺麗に笑っていた、銀色の小さな子供を思い出して、そう決めた。









 大事なもの、ひとつ。


 その瞳で、見定めて。



 子供たちは走り出す。





 結末は、まだ、誰も知らない。

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