終わりのはじまり
いつかは、こうなるのだろう、と知っていた。
まだ薄暗い部屋の中、レーヴは白み始めた空を見上げていた。
既に身支度は済んでいる。窓から差し込む僅かな陽光の下、伏せた睫毛が頬に薄らと影を落とした。
迷っては、いないのだと思う。
いつかは、と思って、その日が早く来ればいいと、そう思ったこともあったはずだ。
レーヴは小さく息を吐いて、カサリと手の中にあった紙を広げた。
封筒に入っていた、便箋が一枚。
そこに記された、たった一文。
―――― 帰って来い。
何故、と思うことはしなかった。
理由なんて、とうの昔に知れている。
便箋には書かれなかった相手の焦燥も、何もかもを正確に読み取り、レーヴは再び吐息を漏らした。
ぽつり、と小さな声で呟く。
「潮時、か……」
* * *
外の空気は、冷たかった。
ああ、そういえばもう夏じゃないのかと、そんなことを今更のように思い出す。世界は既に秋の色彩に染まっていた。
ひらり、と視界を横切った落ち葉に、こんなん掃除してもしてもキリがねーじゃんよー、とルーフェがぶーぶー文句を言っていたことも思い出した。
そんな風に不満たらたらだったくせに、落ち葉を集めるだけ集めたら「これで焼き芋しよーぜ!」なんて、一転して楽しそうにそんな提案をする。そういう奴だった。
くるくると変わる表情。
感情の赴くままに行動して、全開で笑って、怒って、泣く。
持っている知識は大人顔負けで、妙に達観している部分もあるのに、それでも、二つ年下の友人はまるきり手の掛かる子供でしかなかった。
友人、と。
そう呼べる存在が自分に出来たことに、我ながら驚く。
そんなものは必要ないと思っていたし、今でもそう思っている自分がいることは否定できない。
それでも。
明るくて、何が楽しいのかいつも笑っているような奴だった。
寂しがりで、ひとりになることを極端に嫌う、そんな奴でもあった。
健康なようでいて意外と風邪を引きやすく、季節の変わり目は特に手の掛かる奴だった。
―――― 隣で、確かにレーヴを見て笑ってくれる、夢みたいな存在だった。
自分がどれだけそれに救われていたかなんて、きっとルーフェは知らないだろう。
知らないままで、いいのだと思う。
大切だなんて、言わなかった。言うつもりもなかったのでそれは当然のことだ。
切り捨てるつもりが絆されて、身動きが取れなくなって、それがこの結果だ。
途中からはもう諦めて、いつか来る終わりを待っていた。
……いつかは、こんな日が来ることを知っていた。
知っていて ―――― それを自分は、怯えながらも待ち望んでいたのだ。
「―――― おはよう」
不意に横合いから掛けられた声に、レーヴは顔をそちらの方へと向けた。
驚きはない。十分に予測できたことだった。
「おはよう、ございます」
足を止めて、レーヴは真正面から彼を見る。
赤い髪が、風に吹かれて揺れていた。
「随分と、早いね?」
にこり、と彼が笑った。
校門へと続く並木道、その木々の間から姿を現し、一歩こちらへと近付いてくる。
口元だけしか笑っていない、どこまでも冷ややかな眼差しを受け止めて、けれどレーヴは少しだけ微笑んだ。
「……貴方こそ」
怖くはない。
むしろ自分は ―――― そう、安堵したのだ。
彼が、ここにいる。
それは、ぎりぎりで自分が間に合ったのだと。
そう、確信することが出来たから。
レーヴの反応が意外だったのだろう。
僅かばかり険を収めて、彼が ―――― エーリが、レーヴをまじまじと見やった。
エーリは、大陸に名を轟かせる『オーランド商会』の総責任者だ。
そして、ルーフェの養い親でもある。
腰まである長い深紅の髪に、宝玉のような輝きを宿すエメラルドグリーンの瞳。
見た目は、二十代半ば。まだ商売が何たるかも知らない、そんな育ちの良い青年にも見える。この業界において、若さは侮られる要因にしかならない。
けれど、そんな外見の不利さえも、彼が手札として扱っていることを知っている。
目の前にいるこの青年は、誰よりも頭が切れる。状況を把握し、流れを読むことにも長けている。
彼は、レーヴの立場も、ルーフェが置かれている状況さえもすべて読み切ってここにいるのだろう。
そして、彼がここにいる意味を、レーヴはもはや間違えない。
ルーフェが誘拐された事件、誘拐現場だった建物の持ち主を調べるぐらい、彼にとっては朝飯前だったはずだ。―― そしてそこから、自分の出自を調べることさえも。
「ルーフェは、部屋で寝てます」
コツリ、と靴底が石畳を叩く音を響かせて、レーヴは一歩踏み出した。
瞬間、ピリッと相手の纏う気配が鋭く変化したのを肌で感じ取り、淡く笑みを漏らす。
「一応、誤解のないように言っておきますが、無事ですからね」
「え……」
「相も変わらず寝汚いアイツを起こすのも面倒だったんで、そのまま出てきただけです」
「君は……」
どこか呆気に取られたような、そんな様子を見せるエーリがおかしくて、レーヴは笑う。
ああ、こんなに笑ったのは随分と久しぶりのことだ。
愉快だと、そう称してもいいそんな気分でレーヴは口を開いた。
「……僕の名前、言えます?」
本当は、確かめるまでもなかったのだけれど。
簡潔な問い掛けに、エーリは沈黙した。
この人が即答しないのも珍しいな、とレーヴはそんなことを思う。
迷っているのか、と更にそんなことを思って、すぐにそれはないか、と自分で否定した。
この人は、迷わない。
迷ってはいけないのだと、解っているから。
おそらく、沈黙はそう長くなかった。
時間にして、僅かに数秒。
それだけの間を置いて、エーリはゆっくりとその名を口にした。
「レーヴ」
「ええ」
「―――― レーヴィヴィリエ・ノーデンス」
「……ええ」
ああ、ようやく。
間違いなく、たどり着いた、と。
「ええ。僕は、『ノーデンス』です。貴方を……『オーランド商会』を目の敵にしている、そんな男の、息子です」
安堵にも似た脱力を覚えながら、レーヴはひとつ頷いてみせた。
『レーヴィヴィリエ・ノーデンス』
自分にとって、その名は呪いだった。
たいした意味もなく。さしたる愛着も持てず。
けれど確実に、自分を縛るもの。
「ルーフェは、割と早い段階で知ってたはずなんですけどね」
なかなか結びつけてくれなかったから、逆に困っていたのだとレーヴは笑った。
その笑みを、不思議なものを見るような面持ちで、エーリは見やる。
「結局、最後まで気付きませんでした、アイツは」
「君は……その名の為にルーフェに近付いたんじゃ……?」
「逆です」
きっぱりとレーヴはそれを否定した。
「不可抗力で近付いたその後に、アイツが貴方の養い子だと知ったんですよ」
同室だから面倒を見ろ、と教師に命じられた。
素直に面倒だと思ったが、最低限の義務はこなすつもりでそれを請け負った。
そうして、最初の線引きを間違えたのだ。
「本当に、ただの偶然です。アイツと僕が同室になったのも…………アイツが貴方の養い子で、僕が『ノーデンス』だったのも」
始まりは、ただの偶然だった。
煩わしいだけだと思っていた日常への闖入者が、妙に自分の生活に馴染んできた頃、自分はルーフェを取り巻くその環境を知った。
正直まずい、と思った。
望むとも望まざるとも、それが自分の父親に知れれば間違いなく厄介なことになる。
そう思って距離を置こうとして ―――― けれど今思えば、もうその時には失敗していたのだ。
父から、オーランドの養い子との繋がりを作れ、という命を受けたのは、夏季休暇が明けてすぐのことだったと思う。
いくらレーヴが父に対してルーフェの身元を伏せていたとしても、ルーフェの側が殊更それを隠す素振りも見せなかったとあれば、その抵抗は無に帰する。
ましてや父は、目の上のたんこぶとでも言うべき『オーランド商会』の足を引っ張ることに心血を注いでいるような人間だ。彼がルーフェの存在を嗅ぎ付けたのも、それを利用しようとしたのも当然の帰結と言えた。
この件において、自分ほど使い勝手のいい駒はいなかっただろう。
同じアカデミーの学生で、しかも寮の同室だ。願ってもないような好条件に、父は捨て置いていたはずの息子に価値を見出した。
多分、一番始めにこの命が下されていたら、自分は何を思うこともなくそれを実行していたのだろうと思う。
けれど、もう全部が遅かった。
父の命に忠実になるには、自分はルーフェに近付きすぎていた。
打算ではなくごく自然に距離を詰めていたせいで、今度はルーフェを切り捨てることが出来なくなっていた。
自分が関わることで、ルーフェの危険度が増す。理解っていても、その場所の居心地の良さに、もうどうにも身動きが取れなくなっていたのだ。
我ながら、馬鹿だと思う。
きちんと、線を引けていれば良かったのだ。
友人と、そう呼べる存在にならなければ、自分は迷うことなどなかった。
けれど。
―― 気付いてくれるのを、待っていた。
父の側にあるアドバンテージは、レーヴが『ノーデンス』であることを知られていない、ただその一点に尽きる。
だから、気付かれれば、それで全部が終わると思ったのだ。
「決定的な何かが起こる前に、貴方が気付いてくれて、良かった……」
そう思う、今のこの気持ちは嘘ではない。
ならば自分は、線を引けないままで良かったのだと思う。
「昨日、退学届を出して来ました」
多分、今日付で受理されていると思います、と告げるレーヴを、エーリは片眉を器用に上げて見やる。
「それは、君の意思?」
「いいえ、父の意向ですね」
あっさりとレーヴは言い切った。
最初から、レーヴの意思なんてものは存在していない。
父は、レーヴに意思があることさえ認識していないだろう。逆らわず、踏み込まず、父の知る自分は、彼にとって都合の良い駒でしかなかった。
「本当は、貴方が僕に気付く前に、僕を呼び戻したかったんでしょうけど……」
言いながらレーヴは肩を竦めた。
突然の父の帰還命令 ―――― それは取りも直さず、秘密が漏れそうになったことに関する緊急処置。
レーヴの素性をオーランドに知られる前に、自分を手元に戻そうと思ったのだろう。ルーフェと違い、レーヴは父の弱点にはなり得ないが、それでも相手側の手に落ちるのは少々都合が悪い。
そう考えて、出来る限り素早く事を運んだのであろうが、残念なことにエーリの方が早かった。ただそれだけの話だ。
自分にとっては、望んだ以上の結末だと思う。
これで、父の勝機はもはや無に等しい。
「……貴方の、勝ちです」
にっこりと、レーヴは微笑った。
「そして、僕の勝ちでもある」
初めてエーリへと向けた、心の底からの笑みだった。
エーリの眉間に皺が寄った。
それは、彼が不可解なものに対面した時の表情であるとレーヴは知っている。教えてくれたのはルーフェだ。
今エーリは、養い子とたった二つしか違わない、そんな子供を相手にして確かに戸惑っていたのである。
「君の、勝ち?」
「ええ」
「どういう意味か、訊いても?」
「ものすごく、簡単な話ですよ」
笑みを浮かべて、また一歩レーヴは歩を進めた。コツリ、と渇いた音がする。風に吹かれて、色とりどりの落ち葉が宙に舞った。
「貴方は、僕に気付いた。そうしてここにいる」
『ノーデンス』が持っていたアドバンテージは、消え失せた。
自分はいなくなり、代わりにエーリがここにいる。
「―――― もう、ルーフェに危険は及ばない」
それを、確信できるから。
僕の勝ちです、とレーヴは微笑った。
ふわり、はらり、と木の葉が舞う。
目を驚きに見開いて ―― 多分、珍しいと言える表情をしているエーリに、レーヴは瞳を細める。おおよそ、子供らしくない表情だった。
けれど、それに違和感を覚えることはない。
「僕は、あの家に戻ります」
「レーヴ」
「多分、もうお会いすることもないでしょう」
「……レーヴ」
名を呼ぶ声に、子供は淡く微笑った。
それもまた、子供らしからぬ表情だった。
「あの家は、確かに貴方の『敵』です」
だから、とレーヴは言を継ぐ。
「遠慮なく、叩きのめしてくれて良いですよ」
結局のところ、『オーランド商会』にとって『ノーデンス』など取るに足らない存在なのだろうとは思う。
対抗勢力としては最大でも、そもそもの基盤となる力の差が歴然としている。まったくの無警戒というのはあり得ないだろうが、それでも常に目を光らせる程でもなかったはずだ。
だからこそ、あの家は生かされていた。
利となるものではないが、目に余る程の害でもない。そういう理由で、半ば放置されていた。
そんな位置付けで生かされていた家が、今あからさまに『害』になった。
―――― ルーフェに手を出したことで、『ノーデンス』は間違いなく『敵』と認定された。
それを知り、レーヴは明確な終わりを望む。
いっそ晴れやかな表情で、レーヴはそれじゃ、と踵を返した。
「さようなら、エーリさん。……後始末を押し付けて、ごめんなさい」
* * *
門の前に、馬車が止まっていた。
傍らに、見覚えのある男がいる。
随分と、懐かしい顔だと思った。こうして直接顔を合わせるのは何年ぶりだろう。少なくとも、アカデミーに入学してからこっちでは初めてのことだ。
苛立たしげに爪先で地面を叩いていた男は、レーヴの姿を認めて更に忌々しげな表情になった。
おそらく、正門前でなかったら怒鳴り声のひとつでも上げていただろう。そうしなかったのは、単純に男が体面というものを気にしたからだ。
相変わらず外面だけは綺麗に取り繕おうとするんだな、とレーヴは他人事のような感慨を抱いた。
コツリ、と足元で音が鳴る。
ふわり、と音もなく木の葉が舞った。
嘘を、たくさん吐いたままだと思う。
秘密は、秘密のままにしてしまった。
いくつかの約束は、もう守られることもないだろう。
ルーフェは、きっと怒る。
たくさんの、嘘に。隠されていた、秘密に。守られなかった、約束に。
目いっぱい怒って ―――― そして、泣くのだろうと思う。
それが、少しばかり心苦しくはあるのだけれど。
それでも、不思議と後悔はないのだと。
そう、言ったら…………やっぱりアイツは怒るのだろうか?
先のことは、もうレーヴには判らない。
けれど。
忌々しげな表情を浮かべていた男 ―― 久方ぶりに顔を合わせる、父親が。
ふと視線を動かした瞬間、その表情を愕然と凍り付かせたのを見て、レーヴはこみ上げてくる笑いに唇の端を吊り上げた。
きっと彼の視線の先には、こちらを真っ直ぐに見据えるエーリの姿がある。
深紅の髪を揺らし、鋭い双眸で『敵』を見る、王とも呼べる者の姿。
ああ、そうだ。
知るがいい。そうして悟れ。
もう、逃げ道などないのだと。
くつり、と喉の奥でレーヴは笑う。
快哉を叫びたい気分だった。
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