裏事情は、知ると切ない

「レーヴ!」


 背後から聴こえた声に、レーヴは少しだけ歩調を緩めた。

 立ち止まることはせずに、そのまま心の中でカウントを開始する。


 一、二、三……。


「レーヴ! オレ置いてったーっ!」


 きっかり三カウント目に、どすり、と背中に衝撃と重みが加わって、自分のものよりも少しだけ高い声が耳元でぎゃんぎゃんと喚いた。

 名前を呼ばれた時既に予測はできていた事態ではあったので、みっともなく前方につんのめることも転ぶこともなかったが、全速力で走って来られた挙句にそのままの勢いで抱きつかれ、耳元で喚かれればさすがに眉のひとつも寄る。今度は避けてやろうか、と思いつつ、レーヴは自分へ張り付いた子供をべりっと引き剥がした。


「うるさい。大声で喚くな。聴こえてる」

「えー、だって置いてった! ずっりーの! 待ってるって言ったくせにーっ」

「言ってない。それに一応待った。お前が遅かったんだ」

「そんなことねーもん! 振り返ったらもういねーとか、ただの嫌がらせじゃん!」

「お前が遅かった」

「繰り返して言うかー!? オレどんだけ高速で動けばいーの!?」


 しまった、余計にうるさくなった、と後悔してももう遅い。

 懲りもせずに自分の背に乗っかってぎゃんぎゃんと喚く相手を、再びべりりと引き剥がしながらレーヴは小さくため息を吐いた。


「ルーフェ」


 名前を呼べば、ぴょこんと顔が上げられ、視線が真っ直ぐにこっちを向く。動作に合わせて、後ろでひとつに括られた、尻尾みたいな長い焦げ茶の髪がゆらゆらと揺れた。

 相変わらず、びっくりするぐらいに真っ直ぐこちらの目を見る奴だ、とそんなどうでもいいことを思いながら、レーヴはくいっと顎をしゃくった。


「ここで騒ぐな。行くぞ、遅れる」

「ちぇーっ。もー、オレひとり悪者かよー!」


 ずっりーの! ともう一度むくれたように言いながらも、ルーフェはレーヴの隣に並んで歩き始めた。


「次、『経済』だろー? かったりー」

「必修単位でもないしな」

「ってーか、アレじゃん。『経済』っつったら、エーリの独擅場だろ? 受ける気も失せるっつーか……」

「本気で学びたいんだったら、あの人に師事した方が確実な分野ではあるな」


 確かに、と同意を返すレーヴに、だろー? とルーフェはかったるそうに伸びをした。


 エーリは大陸にその名を轟かせる『オーランド商会』の総責任者……つまり、一番偉い人間である。

 その昔は大貴族であったはずの彼だが、国でいざこざが起こった際に幼馴染みと共に生家を出奔、そのどさくさに紛れるようにして商会を立ち上げあっという間にのし上がった。

 彼の生家は国の崩壊と共に没落したが、彼自身はけろりとした表情で商会を軌道に乗せ、経済界にその名を轟かせてしまったのだから相当である。


 元はお坊ちゃまという身分でありながら、彼自身はかなり金勘定その他に世知辛い面を見せる。お坊ちゃまなのに、品物の底値から値切り方まで熟知し、尚且つ血も涙もないような交渉を実践してしまうのはどうなのだろうか。彼を舐めてかかった者は、大概泣いて帰る。比喩ではなく本気で泣く。

 世間の荒波に揉まれ、苦労したせいでそうなったというよりは、おそらく元々の資質によるところが大きい。普通、お坊ちゃまはいとも簡単に出奔したりするイキモノでもなければ、その際に商会を立ち上げるための頭金だの実家にあった金品その他だのをちゃっちゃか持ち逃げするような思考の持ち合わせもないはずである。そんなお坊ちゃまがいてたまるか。いや、実際にいるのだが。


 『オーランド商会』の重鎮にして、経済界の生き字引。

 彼は、良くも悪くもこの大陸の経済を掌握している。商会がコケたら大陸の経済も容赦なく道連れ的な意味で。


「あー、でも、エーリの直接指導……あれはちょっと勘弁」

「ああ……ここぞとばかりにこき使われるしな」


 主に事務仕事的な何かで。

 既に先の夏季休暇中に実践済みである。


「かといって、こう素直に経済学の授業受けんのもなー。めんどくさいってゆーか……」

「範例であの人の政策とか挙げられた日には、温い気分になる」

「……あー、なるなる。思わずせんせー見る眼差しまで温くなんの」


 レーヴの気持ちはルーフェにも良く判る。判るから、嫌だともいう。


 経済学の教科書に必ずと言っていいほど載っている、自分たちの知り合い。

 それが偉人扱いで称えられていたりした日には、渇いた笑いのひとつやふたつ出てこようというものだ。自分が楽しむことにかけては手間隙惜しまず、他人にいたずらを仕掛けてはその成果に爆笑している姿を知っているものだから余計である。温い気分になるなという方が無理だ。


「あとなー、教科書読んでっと『この交易路、裏で思いっきりエーリが手を回してたなー』とか、『こっちはこっちでエーリに頼まれたリノが、ナナイ使って暗躍してたなー』とか。そーゆー裏事情が判るのが切ねー切ねー」

「…………教科書に載せれないような黒歴史ばかりか、経済界」

「大概そんなモンだとおもーよ? 昔、大陸の東の方でかるーい経済危機があった時、エーリがその近辺の悪徳貴族ごっそり嵌めて大損させたっていう話もあったなー。『あの辺、妙な関税とか、袖の下的に余分なお金要求するんだよね。鬱陶しいし、いい機会だからちょっと大掃除しようかー』っつって。これも教科書には載ってねーけど」

「…………載せられるか、そんな話」


 載っていたらすごい、というレベルも遥かに通り過ぎている。


 知ってはいたが、本気で経済界を牛耳ってはいないだろうか、あの男。

 ちなみに、悪徳貴族たちに大損させたその裏側で、エーリんとこはあほみたいに儲けてたみたいだけどな? とルーフェが付け足したが、そんなものは自明の理だ。わざわざ言われなくても判っている。


「まぁなー。エーリ、やることなすこと派手だし強引だし。味方もたくさんいるけど、敵もすっげ多いの」

「……だろうな」

「オレが知ってるだけでも、暗殺とかそういう襲撃、二ケタ以上あんだぜー? もれなく返り討ちと依頼主への追い討ちのセットコースだけどさ」


 敵対する者への容赦はない。

 それが『オーランド商会』の長であるエーリの基本方針だ。


 加えて、エーリは詐欺だろうと言いたくなるほどに強い。とりあえずお坊ちゃまという経歴を疑って掛かりたくなるぐらいには泥臭く強い。実戦を知るものの強さを持っている。

 そして、彼の傍にいつもいる幼馴染み兼従者の青年も、強さ的には右に同じく。

 それを知っているルーフェなどは、襲撃の事実に関しては、むしろ敵に向ける同情の方が色濃い。何でわざわざアレに手を出した。それを問いたい気持ちでいっぱいだ。


 敵も味方も恐ろしく多いが、その敵を歯牙にも掛けない。

 それは、レーヴ自身も知る事実だ。

 けれど。


「……ルーフェ」

「なにー?」

「お前、僕のフルネーム、覚えてるか?」


 唐突な問い掛けに、ルーフェはきょとんと瞳を瞬かせた。

 話の脈絡は、まるで見えないが。


「えっとー……。確か、『レーヴィヴィリエ・ノーデンス』?」


 少し考えて、ルーフェはその名を諳んじた。

 出会ったばかりの頃、一度だけ聞かせたことのあるその名前を完璧に覚えているその記憶力に、レーヴは短くため息を吐く。

 覚えているのに、使えていない。まるで無駄な能力だ。


「お前、頭はいいけど馬鹿だよな」

「ひでー! 何だいきなりっ!? 何オレ今名前間違ったっ?」

「いや……合ってるから、馬鹿だな、と」

「わっけわかっんねーぇっ!」


 再びぎゃあぎゃあとうるさくなったルーフェに背を向けて、レーヴは歩き出す。

 この話題運びで。尚且つ、自分のフルネームを間違いなく覚えていて。

 それでもきょとんと首を傾げてしまうこの友人の行く末が、少しばかり危ぶまれる。


 常識がないのなんて、今に始まったことでもないけれど。


(……早く――……)


 一日でも早く。ほんの少しでも、早く。

 気が付けばいいのに、と思う。


 そうすれば。



「……全部、終わるのに」



 ぽつりと呟いたレーヴの声は、ルーフェの喚き声に掻き消されて、誰の耳にも届かなかった。













 その呟きから、僅かに一週間後。


 自分宛ての簡素な手紙を受け取り、レーヴは無表情に小さくため息を吐いた。

 とうとう、と言うべきか。それとも、ようやく、と言うべきか。どちらとも言えない曖昧な心境を持て余す。




 ただ、ひとつ。


 終わりの合図、それだけを理解して、レーヴはそっと瞳を伏せた。

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