刻印と思惑と
不定期に、届く手紙がある。
薄っぺらで、無味乾燥のそれ。
そこに羅列された文字を目で追ったレーヴは、眉を顰めると忌々しげに便箋をぐしゃりと握り潰した。
* * *
刻印、というものがある。
それは多くはないが、日常生活の中でも見られるものだ。ざっくりと簡単に言えば、刻印さえ宿せば魔力などほとんどないような輩でも魔法を使うことができる、というもの。
火や水、風など、刻印には属性というものが存在し、相性によっては宿せないものもあるものの、まったくの魔力なしでない限りは問題なく使用できるはずだ。実際にアカデミーの授業でレーヴも刻印を扱ったことがある。その時に己と相性が良い刻印が水であることを知った。隣でルーフェがやや嫌そうな表情をしていたので、あいつの水嫌いは本当に極まっている。ちなみにルーフェは風と相性が良かった。
宿す前の刻印は何らかの石に宿っていることが多く、イメージとしてはそこから刻印を剥がして人へと貼り直すのが刻印を宿すという作業だ。それを行うのは専門職で、授業の際にも当然そういった人間が呼ばれていたのだが、水を嫌ったルーフェが勝手にレーヴがからべりべりと刻印を剥がし、代わりに自分と同じ風の刻印を押し付けてあまつさえしっかりと宿してしまった辺りで、レーヴは理解を放り投げた。ここで無駄な才能を発揮するな、非常識。専門職の人も教師も、目を丸くして固まっていた。それ自体は割とよく見られる光景である辺りが何とも言えない。
刻印を宿すには、多少特殊な工程というものが必要となる ―― ただし非常識人員は除く ―― が、刻印自体は通常の人が目にすることもあるし扱うことも出来る。
が、世界には、まず目にすることなどない特殊な刻印というものも存在しているらしい。
聖刻印。
そう呼ばれる刻印がある。数はそう多くはなく、存在が確認できているものだけで両手の指を僅かに超える程度。火や水などのような判り易いものではなく、暴虐や虚無といった具合に物騒かつ聞いた瞬間にそれはやばいと思える属性が付いているものが多い。聖刻印と呼ばれているが、その実態は聖なるものからは程遠いようだ。
どちらかと言えば疫病神だな、と手にした本を見やりながらレーヴは思う。興味を持って読み始めた書物ではあるが、読み進める程に困惑の度合いが増してくる。小さくため息を落としたレーヴは、ぱたりと本を閉じて眉間に軽く指先を当てた。
傍らに置いた本は、元はルーフェの実家にあったものである。借金の形として蔵書を増やしたというふざけた書庫は、アカデミーですら見掛けることのない稀少本の類が多々見受けられるというとてもふざけた仕様になっていた。今手にしている本もそんな稀少本のうちの一冊である。
夏季休暇のほとんどをルーフェの実家で過ごした身としては、稀少本があちこちに散らばっているだとか、よく判らない単位のお金がお手軽にやり取りされている光景だとか、人間と言う枠を無視した戦闘能力でもって模擬戦を行うその様子だとか、日常生活の中で使用される無駄に高度な魔法であるとか、そんな事態にさらされ続けていればもはや少々のことでは驚かなくなるのも道理というものだった。人間、良くも悪くも慣れる生き物なのである。
レーヴは嘆くのではなく諦めた。ここが非常識の生産元かと思って、投げやりにいろんなことを諦めた。ついでに言えば、彼らの実家での話の中よく耳にした名前 ―― ナナイであるとかリノであるとか一番最初に出会ったノーチェであるとか、そういった名前が、軒並みこの国の上層部にずらりと並んでいる事実は、きっと気のせいだと思うことにした。自分は何も気が付かなかった。その方がきっと平和だ。
けれど、すべてを気が付かなかったことにするのは無理だった。ルーフェの実家で目にした聖刻印に関する書物を許可を得てアカデミーへと持ち帰ったのは、気が付いてしまったそれを裏付ける為に、まずは知識が必要だと思ったからだ。
聖刻印に関する書物は驚く程に少ない。少なくともアカデミーには、レーヴの欲する情報はなかった。過去に一度調べたことがあるので、既にそれは知っている。アカデミーでは、聖刻印に関する知識は得られない。聖刻印、という単語すら知らない者も多いので、記述の少なさに関しては納得するしかないのだが。
本を貸して欲しい、と申し出たレーヴに対して、エーリもクロウも軽い調子でいいよと許可をくれた。けれど、その時に自分へと向けられた笑みを見て、レーヴは気付かれたな、と思った。
気付いたことに、気付かれた。にもかかわらず、それはそれで構わないと、見逃されたらしい事実にため息しか出ない。
傍らへと置いた本に、視線を落とす。知りたかったことは知れた。知りたくなかった、などと思う自分の思考は、大概矛盾している。
聖刻印は、別段自分の欲するものではない。むしろ疫病神だな、と思ったのも嘘じゃない。
聖刻印を宿した者は、そこで人としての時が止まる ―――― なんて事実を知った今では、尚更。
「......まったく姿が変わっていなかったのは、そのせいか......」
ソファーの背もたれに全体重を預けながら、レーヴは天井を仰いで瞳を閉じた。
今でもはっきりと思い出せる。
その人の姿は、あの世界で随分と色鮮やかだったから。
幼い頃に見た、赤の王様。少なくとも数年は経っているはずなのに、まったく変わらぬ姿で出迎えられたのだから、さすがに違和感を覚えざるを得ない。年齢が出難い顔と言っても限度はあるだろう。
エーリとクロウ、両者共にその肩書きを考えれば不自然な程に若い。けれどそれが若く見えるだけ ―― 実年齢がまるでそれに見合っていないのならば、見えてくるものはまったく違ってくる。
エーリも、きっとクロウも、時を止めてしまった人たちなのだろう。......正確には、止められてしまった人たち、だろうか。
聖刻印は、宿主を選ぶのだという。明確な意思を持って自らの主を選び、宿主には永劫の時を与える。―― 聖刻印を宿したその瞬間から、宿主は年を取らなくなる。不老になるのだ。
怪我はするし、病気になることもある。ただ、老いによる死は用意されない。
そんな風に、少しばかり不自然な存在へと作り変えられる。それを祝福と取るか呪いと取るのかは、人それぞれだろう。レーヴはそれを呪いだと思った。エーリやクロウはよく判らないが、あの人たちは例えそれを呪いだと捉えていたとしても、それがどうしたと笑える強かさを持ち合わせているように思う。いつから、なんてレーヴは知らない。けれどきっと長い時を生きてなお、あんな風に笑える人たちだから聖刻印に選ばれたのだろう。
けれど。
「どうしたものかな......」
瞳を閉じたまま、レーヴはぽつりと呟いた。
レーヴは、聖刻印を呪いだと思う。自分はそんなに長く生きていたくはない。
しかし、焦がれるようにそれを求める者がいることもよく知っているのだ。
実際、自分の身近にそういった人物がいる。だからこそ、どうしたものかな......と思った。つい先日受け取った手紙が脳裏をちらりと掠める。頭の奥がずしりと重い。
考えることが多すぎる......というより、考えたくないことが多すぎる。そっと息を吐き出せば、その音は静かな室内で不思議とよく響いた。
そこで、気付く。シン......と静まり返った室内に、微かに時計の音だけが響いている。部屋の中が、静かすぎるのだ。
「ルーフェ......?」
名前を呼ぶ。それに返る声はない。レーヴは僅かに眉を顰めて身体を起こした。
図書館に寄って帰る、と言ったルーフェを置いて先に部屋へと戻って来たのは、それなりに前のこと。お互い部屋に戻った際に声を掛ける習慣はあるものの、本に夢中であったとかその他の理由で同室者の帰宅に気付かないこともよくあることで。
けれど室内にはレーヴ以外の人の気配はなく、ルーフェは戻って来ておらず、そして図書館に寄るだけにしては随分と時間が経ちすぎている。
「......っ」
弾かれたようにレーヴは立ち上がった。嫌な予感がする。己の中で膨れ上がる予感を裏付けるかのように、手紙に書かれていた文字を思い出す。
―――― オーランドの養い子を......、
うるさい、と内心で罵倒しながらそれを振り払った。ちっ、と舌打ちが漏れる。
立ち上がった拍子にバサリと床へと落ちた本を拾い上げることもせず、レーヴは身を翻して部屋の入口と走り寄った。そしてそのままの勢いでドアを押し開ける。―― 否、押し開けようと、した。
実際は手を伸ばしたその瞬間に外側からドアが開いたため、その場でたたらを踏んだだけに終わった。開いたドアの向こう側で、夕焼け色の瞳が吃驚したように瞬いている。
「うっわ......! びっくりした、何でそんなとこいんの、レーヴ」
てか危ねっ! オレ今ひょっとしてドアの平面で顔打つとこだったんじゃね? などと賑やかな声を上げる子供を、レーヴは瞬きもせずに見下ろした。は、と短い息が漏れる。
「......ルーフェ?」
「おー......って、ぶっ!」
返事をしたら、前触れなく顔面を叩かれた。意味が判らない。
いきなり何をするのかと喚けば、自分の手のひらとルーフェを順に見やったレーヴがああ、うん......と曖昧に頷いた。
「間違いなくお前だな」
「オレですけどっ!?」
「そうだな。これだけ賑やかに喚く奴なんて、僕はお前以外に知らない」
「そんな理由で認識されてんのオレ!? てか、まさか今そんな理由で叩かれた!? まじで!?」
「おかえり、遅かったな」
「きーて、人の話!? ただいまっ! ってか、ああああああもう! ホントに今日散々だな!」
うがー、と自分の頭を掻き毟るルーフェを、いつも通り適当に宥め流していたレーヴだったが、不意にそこに聞き流せない単語が存在していることに気が付いた。
「......『散々』?」
何が、と思う。教室で別れたその時までレーヴはルーフェとほぼ一緒に行動していたのだ。散々だとルーフェが称するような出来事などなかったと断言できる。図書館で面倒な輩にでも絡まれでもしたのだろうか、と思ったレーヴの予想を超えて、ぶすりとした表情のまま口を開いたルーフェの返答は、何というか斜め上だった。
「ゆーかいされた」
「は?」
「だから、誘拐。図書館出たとこでガツン、と頭殴られて、気が付いたら知らない部屋に縛られて転がされてた」
「......は?」
よく意味が判らない。とりあえず突拍子もないことを聞かされた気がする......とまじまじと見やった相手は、そんでどうにか帰ってきたらよく判んねー理由でレーヴに叩かれるしー! ホント散々! などと賑やかだ。ちょっと待て、誘拐と自分の八つ当たりを同列に並べるな、とレーヴとしては驚けばいいのか呆れればいいのかさえも判らない。お前は本当にちょっと待て。
「誘拐......」
「おー。ま、部屋の中に見張りとか誰もいなかったし、面倒なことになる前に逃げてきたけど」
オレ縄抜け得意、とどう考えても一般的には必要のないスキルを、堂々とルーフェは言い放つ。こう、ぐりっと......手首回す感じで、なんて、コツを聞かされたところでどうしろというのか。
「で、外見たらアカデミーの建物見えたし、下見たらよゆーで飛び降りれる高さだったし、そのまま窓から帰って来た」
あっけらかんと言い切った子供を、レーヴは無言のまま見下ろした。そのまま沈黙が数秒。子供が首を傾げる。
「レーヴ?」
「......怪我は?」
下から覗き込んでくるルーフェの視線を避けるようにして、レーヴが短く問い掛けた。
「んー、殴られたとこ、たんこぶになってる......ぐらい? あ、縛られてた手首いたい」
「後で見てやる。......他には?」
「んにゃ、特にない」
「誘拐犯の顔は?」
「見てねー。部屋の中誰もいなかったし、わざわざ探しに行こうとも思わなかったし」
危機的状況にあったにも関わらず、ばっさりと状況を切って捨てる発言をしたルーフェをちらりと見やった後、レーヴは俯いてはあああぁ......と息を吐き出した。特大のため息だった。そして。
「............今ほどお前が非常識で良かったと思ったことはない」
「え、なにそれ」
ルーフェには欠片も理解されなかったけれども、告げた言葉はまごうことなくレーヴの本心だった。
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