過去の足音

 オーランド商会。

 ツェルニーという国はおろか、それを含む大陸全土に名を轟かせる大商会の名称である。大人から子供まで、多分その名を耳にしたことのない者などいないのではないだろうか。そういうレベルで世間に浸透している商会だ。


 オーランド商会は、大陸における物の流通を網羅し、新たな商品を見付け出すことにも長けている。他国への伝手も山ほど持っていると聞く。ほとんど経済界そのものを牛耳っているといっても過言ではないかもしれない。

 そんな風に有名な商会であるので、レーヴ自身も当然その存在は知っている。……知ってはいるが、まさかその商会の重要人物 ―― 言ってしまえばそこで一番偉い人の自宅で、こうもくつろぐ羽目になるとは思ってもみなかった。


「さすがにこれの予想は無理だろう……」

「? なんか言ったかー?」


 思わず口から零れた声に、ごく間近から返る声がひとつ。間近も間近、ほとんど胸元から聴こえたその声の主を見下ろして、レーヴはそっとため息を吐いた。


「何でもない」

「明らかに何でもなくねー、って顔しながら言われても」


 説得力がないとおもーよ? ともっともなことを言われたが、正論すぎてむかっ腹が立ったのでとりあえず額に一撃を入れておいた。ふぎゃ! と上がった悲鳴はやはり至近距離から。正論を吐くなら、せめてべったりと自分に張り付くのをやめてからにして貰いたい、と思う。思う端から、まぁ無理だろうな、とも思ったが。

 そっと視線を転じれば、薄暗い窓の外が視界に入った。昼間であるにも関わらず、室内へと届く光はひどく淡い。硝子窓を幾筋もつたってゆく水の跡、さぁさぁと微かに響くのは雨音だ。


 本日の天候は雨。おかげで朝起きた瞬間から、ルーフェがべったりと離れない。養い親たちは本日不在らしく、屋敷の中に姿は見えなかった。自由にしていていいという言伝があったので、遠慮なく書庫にこもっている現在である。ちなみに本当に書庫に本は引くほどあった。借金の形、えげつない。

 とりあえず興味のある本を適当に選びソファーに陣取るレーヴに、ルーフェは何をするでもなくただべったりと抱き付いている。本に囲まれながらも本を読んでいないルーフェの姿はある意味で異常であったが、雨の降る日はこれが通常運転である。


 雨が嫌いなら窓のない部屋にでもこもっていればいいだろうとレーヴは思うのだが、ルーフェ曰く人の傍にいる方が安心できるのだという。更に言えば、心臓の音聴いてるのが一番安心する、らしい。確かに初めて風呂場にルーフェを放り込んだ日以降、雨の降る日はルーフェが引っ付き虫と化している。いい加減慣れもした。

 いつもなら打撃を加えた時点でぎゃんぎゃんとうるさくなるのだが、本日はそんな気力もないらしい。むー……と不満そうな表情をしながらも、それ以上声を上げるでもなくルーフェはレーヴに引っ付き直した。多少の不満はぐりぐりと頭を押し付けることで解消することにしたようだ。ちなみに心臓の辺りを抉られると息が詰まって地味に苦しい。立派な嫌がらせになるのだと身をもって知った。


「予想外……いや、ある意味で予想通りの身内だったな」

「え? エーリとクロウのこと?」

「ああ」


 本を手にしたまま、小さく頷く。ルーフェの養い親の話は前々から聞いてはいたが、そこまで詳しく聞いたことはない。普通の常識が期待できない養い親、という時点でそれ以上聞きたくないと思った自分は別に悪くないと思う。今正にこうしてそのしっぺ返しを食らっているのだとしても。


 いつだったか実物を見ないことにはどんなと言っても判り辛いと思うと言われたことがあるが、確かにそれは真実だろう。加えて、実物を見たら余計に訳が判らなくなった。どういうことだ。

 これまでのルーフェの言動から察するに、割と碌でもない相手なんだろうとは思っていたし、それなりの貯えもあるのだろうとはふんでいたが。


「まさかここまでのお偉いさんだとは思ってなかった」

「え、あの二人、オーランド商会のナンバー1とナンバー2」

「……心臓に悪い」

「先に言ったらぜってーレーヴ逃げると思って」


 そういう理解はいらない。

 まず間違いなくそうするだろうな、と思える行動をまったく悪びれなく言い当てられて、思わずレーヴは半眼になった。対するルーフェはどこ吹く風である。ただ、引き剥がすぞお前……と思ったレーヴの内心が伝わったのか何なのか、背中へと回された腕の力が僅かに強くなった。


 オーランド商会トップの養い子。

 既にその肩書きの力が半端ない。しみじみとレーヴは思う。


「……当の本人はこんななのにな」

「あー……今、オレがすんげー馬鹿にされたことだけはわかるー」


 でも反撃する元気もねー……と、先程から強まった雨足にぐったりとしているルーフェが、再びぐりぐりと頭を押し付ける。その嫌がらせは止めろ。


 子供っぽい仕草と言動。中身はそれに輪を掛けて子供っぽくもあるが、その実、知識や思考は大人顔負けなところがある。食べ方が綺麗だとか舌が肥えているだとか、あとは基本的な躾がきちんとされていたので、きっとそれなりにいいところの子供なのだろうとは思っていた。が、思っていた以上にいいところの子供だったので思わず遠い目になったレーヴである。そのレベルの家なら普通はアカデミーに通わせることなく家庭教師一択だ。常識を学びに来たとかいうふざけた理由で子供を外に出すことなどない。

 うー、あー……と自分にしがみ付いたまま呻く子供の頭を、レーヴはぽんと軽く叩いた後にぐしゃぐしゃと撫でた。


「なーにー……?」

「……本当に絶不調だな、お前」

「今日、雨つよいー。むりー」


 むぅ……と眉を寄せるルーフェに、ため息をひとつ。レーヴは手にしたままだった読みかけの本を傍らへと置いた。そして、自由になった両手で自分にしがみ付く子供の耳を塞ぐ。


「? レーヴ?」

「もうお前寝てろ。顔色が悪い」


 雨の音が届かないようにしてやるから、寝ろ。


 淡々と繰り出された言葉に、ルーフェはぱちりと夕焼け色の瞳を瞬いた。やがてゆるゆるとそこに理解の色彩が広がってゆき、ふにゃりと笑みの形に崩れる。


「ふへへー」

「気色の悪い笑い方をするな」

「オレ、レーヴのそゆとこすきー」

「……誤解を招く発言もするな」


 いい加減慣れているが、ルーフェの発言は絶妙に周囲に混乱を招く。アカデミーでは特にだ。


 嫌そうに顔を顰めたレーヴには構わず、機嫌の良い猫のような表情で瞳を閉じたルーフェから小さな寝息が聴こえ始めたのは、それから僅かに数秒後のこと。

 すぅすぅと、あっという間に眠りに落ちた子供を見やって、レーヴはため息を落とした。


「相変わらず、嘘みたいに寝付きのいい奴……」


 寝ろ、と言ったのは自分だが、こうもあっさりと眠りに落ちるのは如何なものか。しかもこんな、寝辛いだろう体勢で。


 耳を塞いでいた手をそっと外して、そのままくしゃりと子供の頭を撫でる。起きる気配はない。

 ルーフェは最初の頃はもっと警戒心が強く、少しの物音でも目を覚ましていた。同室になったばかりの頃なんて、特にそうだった。それに気付かぬふりで狸寝入りを決め込んでいたのは、単に面倒だったという碌でもない理由からだけれども。


 こんなに、関わり合いになるつもりなんてなかったのだ。同室者なんて面倒なだけだと思っていたし、実際にルーフェはかなり手の掛かる部類だと思う。本当に面倒臭い。

 面倒だと、思う。嘘偽りなくそう思うのに、それでも。


 レーヴはルーフェの頭を撫でていた手を下ろして、そっと自分も瞳を閉じた。瞼の裏で揺れる闇の中、つい先日会ったばかりの人の姿が浮かび上がる。


 オーランド商会総責任者、エーリ・ルグウィン。


「赤の、王様……」


 ぽつり、と呟いた声は、誰に拾われることもなく雨音に紛れて消えていった。


 初めて見た時に、あの人は王様だと思った。

 遠い記憶。けれど不思議と鮮明に覚えている。幼い子供の、何の根拠もない直感のような感想だったけれども、どうやらそれは間違っていなかったようだ。


 あの人は、王だ。ごく自然に、人の上に立つひと。


 赤い髪色。彼の肩書きを考えれば、その姿は不自然な程に若い。

 けれどレーヴは、彼がその立場にいることを不自然だとは思わない。

 何年も前と、まるで変わらぬその姿。鮮やかな赤。それを振り払うように、きつく瞳を閉じた。


 オーランド商会、そこの重鎮と養い子。どうしてよりにもよって……と思う己の心情をレーヴは理解していた。


「……心臓に悪い」


 呟いた、先程とまったく同じ台詞は、レーヴの嘘偽りない本心だった。

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