王様
赤の、おうさま。
いつだったか、そう思ったことがある。
遠い、記憶。
鮮やかな赤の髪を背に流し、真っ直ぐに、何も怖いものなんてないとでもいうように立つその人を見て。
王様だ、と。
自分は、確かにそう思ったのだ。
* * *
「エーリ、仕事終わったの?」
紅茶のカップを手にこてんと首を傾げながらそう訊いたルーフェに、彼の養い親はそれはもう輝かんばかりの笑顔で答えた。―― まだ、と。
「終わるわけないじゃん、あんなの」
「いや、開き直られても」
養い子のツッコミに、クロウがフォローするように口を開いた。
「まぁ……さすがにもう二・三日したら終わるだろ」
「……と、思うでしょ? うん、僕もそう思ってた」
ひらひらと手を振ったクロウの台詞を受けて、エーリが更に笑みを深める。元々の造作が整っているだけにその笑みは鑑賞に耐えうるものではあったのだが、同時に背筋が何だか寒くなった。隣にいたルーフェも、うげ……といった表情をしていたので、別に慣れとかそういうものは関係ないのだろう。瞳の笑ってない笑顔は誰が見ても怖い。
妙な迫力を纏った笑みを浮かべたまま、エーリは告げた。
「さっきの……えーっと、誰だったっけ……?」
「泣いて帰ったやつ?」
「そう、それ。……まぁ、誰でもいいか。そいつがね、面倒な案件増やしてくれちゃってさ」
「うっわ……」
「おめでとう。もうひと頑張りが、もうふた頑張りぐらいに進化したよ」
「嬉しくねー」
澱んだ瞳で応じて、クロウが焼き菓子をバリバリと噛み砕く。その隣で、エーリがだよねぇ……と呟いて紅茶に口を付けた。
「……腹が立つからもうちょっと何かしてやれば良かったかな……」
「何かって、何を? つか、お前相手の名前も覚えてないんじゃ無理じゃね?」
「んー……覚えてないのはあれの名前だけであって、どこの誰かぐらいは覚えてる。―― というわけでクロウ、香辛料の交換レート上げよう」
「あ、今のでどこの誰がやらかしてくれたんだか俺にも察しが付いた。地味―ぃな嫌がらせすんね、お前」
「地味だけど効果的で本当に嫌がらせらしい嫌がらせだろ?」
「……てか、そーやって嫌がらせで自分の仕事増やすのもどうかとおもーよ?」
ルーフェのツッコミはもっともだと思えたが、それよりもまずこれが日常会話だというのが本当にどうかと思う。無言のままレーヴは手にした紅茶を啜った。何だか高そうな味がした。
「ま、とにかくそんな感じで今僕たち忙しいから。ごめんね」
「せっかく帰って来てんのに構ってやれなくて悪ぃな」
「や、それは別にいーんだけどさ……」
両側から交互に撫でられるせいで、先程からルーフェの頭がぐらぐらと揺れているが、撫でている方も撫でられている本人もまったくもって気にした様子がない。随分と歪な関係に見えて、その実普通の親子のような空気を纏うその光景に、本当によく判らない……と内心でため息を吐いてレーヴは小さめの焼き菓子の欠片を口にした。こちらも高級な味がした。
確かに普段からこのレベルのものを食べ慣れていれば、寮の食事で大丈夫かなー、などとそんな懸念を口にしたりもするだろう。今更のようにそんなことを納得したレーヴの耳に、あ、そうだ、とエーリの声が届いた。
「ルーフェ……は、訊くまでもないからいいや、うん。えーっと、レーヴくん」
「はい?」
唐突に名前を呼ばれて、レーヴは顔を上げる。というか、くん付けで呼ばれるのは何だか違和感があったので出来れば呼び捨てて欲しい。そう告げれば、さして難しくもない要望はすぐに叶えられ、名前を呼び直された。
「レーヴ、君、本は好き?」
「好きですね」
即答。
ほぼ反射の領域でレーヴは答えた。
実際に、昔から本を読むのは好きである。ジャンルを問わず片っ端から手を出すその姿勢は、その部分だけ取ればルーフェも似たり寄ったりである。つまり、誰も歯止めがいない。お互いに本の世界に没頭して、寝不足どころかそのまま普通に授業をぶっちぎったこともある程だ。そんなレーヴを知っているルーフェは、だよな、とあっさりと頷いて、更にそんなルーフェを知っている養い親たちは、それなら……と笑って言葉を続けた。
「書庫に新しい蔵書山程増やしといたから、それ、好きに読んでていいよ」
「え」
「まじで!?」
「おー、こないだどこぞの屋敷から借金の形として巻き上げたやつ」
「え」
何か今さらっととんでもないこと聞いた。
思わず一瞬固まったレーヴとは逆に、そんな話題には既に慣れっこであるルーフェは素直に歓声を上げて顔を輝かせる。ルーフェにとって重要なのは新しい本がそこにある事実なのであって、多少あれでそれな入手経路は一切問題にならないのである。なので。
「やったー! 好きなだけ本読めるって最高! よっし、行こうぜレーヴ!」
「え、あ、ちょ……! おい、待て……!」
「待たなーい! エーリもクロウもあんがとー! ちょーすきー!」
半ば引き摺られるような恰好のレーヴが制止の声を上げたが、そんなものはどこ吹く風といった様子で、ルーフェは満面の笑みを養い親たちへと向けた。
「おー、あんがとな。俺も好きだぜー」
「我が子ながらほんと現金だよねぇ。はいはい、僕も好きだよー」
余裕の表情で応えるクロウの隣で、エーリがけらけらと笑いながらそう口にする。クロウが肩を竦めた。
「その辺はお前に似たんだよ」
「失礼な。―― あ、ルーフェ。御飯の時は呼びに行くから、素直に本読むの止めて食堂まで来なさいね」
「善処するー」
「うわ……」
「ほらな。お前に似てるだろ」
「今のはちょっと僕もそう思った」
まったくもってあてにならない返答をするルーフェに、エーリがしみじみとそんな感想を漏らした。僕も言うねあれ、とエーリが頷けば、言うな、と更にクロウが同意の頷きを返す。
「だから引っ張るな……っ、ああもう!」
扉が閉じる寸前、レーヴの苛立ったような声と共に、ガコッ! という打撃音が響いた。後追いで、いてぇっ! というルーフェの短い悲鳴が響いたので、おそらくは物理的指導が入ったのだろう。確かにそれは他人の話を聞かない養い子相手には一番手っ取り早い。言って聞かせるよりは物理が効く。
おお、見掛けによらず容赦ない、と笑うエーリの隣で、「それで?」とクロウが頬杖を付く。
「それで、って?」
「会ってみて実際のとこどうよ、『ルーフェのお友達』」
「ほんとにルーフェの面倒見てくれるような子がいたことにまずびっくり」
間髪入れずの返答に、それな、とクロウが頷いた。
ルーフェを外の世界へと送り出すことに、不安がなかったと言えば嘘になる。狭い世界の中だけで生きてきた子供とは違い、エーリもクロウも外の世界がどんなものなのかを知っている。そして、自分たちが世界の基準というものから外れた位置にいるということもきちんと理解しているのだ。ただ自分たちの異常性とも呼べるそれを自覚しつつも、目立たないように己を律して生きていこうとしない辺りがどうしようもなく性質が悪いだけで。
子供には、自分たちが持てるものを全て叩き込んで来た。それはもう、幼子に対する教育じゃない、と周囲がドン引きするレベルのものを教え込んだ。子育てなどしたことのない二人が、世間でいうところの普通も、ついでに言えば加減というものも考慮せずに突っ走ってしまったが故の悲劇である。子供にもそれを受け入れるだけの素養が十分にあったのは、良かったのか悪かったのか。スポンジが水を吸うようにいろんなものをどんどん吸収してゆくものだから、面白がって次々に知識を押し込んで身体を鍛え上げた結果出来上がったのがルーフェである。ナナイが途中で止めなければもっとひどいことになっていた。断言できる。
ルーフェは性格的には人懐っこい部類で、好奇心や素直さの類は子供らしさ十分なのだが、妙な部分が達観しており、全体的にアンバランスな印象を与える羽目になっている。それはきっと、ルーフェの中で自分と他人の境界線が驚くほどにはっきりと明確になっているせいなのだろう。ルーフェには、己の境界の中にあるもの以外をばっさりとすべて切り捨ててしまう冷淡さがある。それはエーリやクロウにも垣間見える側面だ。子が親に忠実に倣った結果、気が付いた時にはそうなっていた。ナナイが頭を抱えていたが、エーリやクロウは僕たちの子ならそんなもんだよね、とあっさりと納得した。
ルーフェは、同年代の子供よりも出来ることが格段に多い。子供らしい言動とは裏腹に、思考はむしろ老成している部分もある。矛盾に満ちた子供は、手が掛からないようでいて、きっと普通よりもずっと手の掛かる子供だった。
「『頭がいいのに馬鹿』」
「あん?」
「レーヴによくそんなこと言われる、って手紙に書いてあったけど」
「ああ、あれな。最初見た時爆笑したわ」
すぐに思い当たったのだろう、クロウがくつくつと喉の奥で笑った。
実際に、エーリもその一文を目にした瞬間に噴き出した記憶がある。とても的確な表現だと思ったからだ。ただそれは、ルーフェという人間をきちんと理解しなければ出て来ない言葉でもある。
「普通だと、『馬鹿みたいに頭のいい子』だよね」
「ああ、そっちの方がよく聞くな」
「まぁ、それはそれで間違ってはないんだけど……完璧にルーフェの『外側の世界』にいる奴らの評価だよね、それ」
「だな」
外側から見る分には、ルーフェは子供らしくない面の多い子供だ。頭の良い、手の掛からない子供。けれど。
「俺、あいつ程手の掛かる子供は知らねぇぞ」
「僕もそう思うよ」
「あ、手の掛かるヤツ、って区分ならお前がぶっちぎり」
「よーし、表出ろ。喧嘩なら買うぞー」
「仕事終わってからな」
にこり、と凄みのある笑みを浮かべたエーリを、はいはいと軽くいなしつつクロウはひらひらと手を振った。そうして、ふとそのまま自分の手のひらへと視線を向ける。そこに残るのは、先程までぐしゃぐしゃと遠慮なく撫でていた養い子のふわふわとした髪の毛の感触だ。
「俺さぁ……」
「うん?」
「ルーフェがここに帰って来る時って、もっと小汚ねーことになってると思ってたんだよ」
「あ、うん、まずそこからして予想外だったよね」
即座に同意を返して、エーリが頷いた。
ルーフェは極端な程に水を恐れる。その原因を知っているから、二人はそんなルーフェの怯えを大げさなと思うことはないけれども。
「ふっつーに考えて、お風呂に入れない、シャワーも無理、って子が寮生活って無理あるよね」
「なぁ? ここでも風呂ひとつ入れるだけで大騒ぎだっての」
嘘でも誇張でもなく、ルーフェを風呂に入れるというのは大仕事なのだ。エーリやクロウであってもやや手を焼く案件であるうえに、当の本人が水が苦手であることを極力他人に隠そうとする。知っているのはルーフェが完全に『内側』だと認識した人間のみだ。
だから、その『内側』の人間など誰もいないアカデミーという場所で、ルーフェが自ら浴室に近付く可能性など皆無に近い。実際、顔を洗う程度でもぎりぎりなのである。そんなルーフェが寮生活を送ろうものなら、帰省の際にどんな惨状になっているのかなんて安易に察せられるだろう。―― その予想は、見事に裏切られたわけだが。
「『容赦なく風呂場に引っ張って行かれるんだぜ、ひでぇ!』―― だっけ?」
「そうそう。『騒いでればそのうち終わる。喚いてろ、って泡まみれにされて、むしろ喚いたら泡に噎せて死ぬかと思った』ってのもあったな」
「あったあった」
手紙の内容を思い出して、二人は顔を見合わせて笑う。
最初にそれを見た時は、嘘だろう、と思ったのだ。もはや反射でそう思った。ルーフェは死ぬかと思った、なんて手紙を寄越してきたけれど、その内容は二人からしてみれば随分と平和極まりない。
「ホントに面倒見てくれちまってる感じだな。むしろ俺らが面倒見てた時より、若干ルーフェの毛艶が良くなってる気がする」
「なにそれすごい。しかもあれ、ルーフェがどんな子供か理解したうえで世話焼いてくれてるよね」
「おう。しかも振り回されてるようでいて、逆に振り回してるな」
「なにそれ見たい」
屋敷に入る直前の出来事を話して聞かせれば、予想以上にエーリが食い付いた。えーなにそれ絶対かわいいやつじゃん、と言うエーリに、まぁ大層微笑ましい光景だったぞ、と返しておく。
「まぁ……何だかんだ言って、良いことだったんじゃないか? ルーフェを『外』に出したのも」
「……だね。ちょっと癪だけど」
台詞通りの表情になっているのは、結局ナナイの言う通りに事が運んでいることが少しばかり面白くないからだろう。ただ、ひとつ息を吐き出した後は、エーリは既にその表情を綺麗さっぱりと消し去っていた。
「あとは……少し気になることがないでもないけど……」
「あ?」
うーん……と今度は僅かに考え込む表情になったエーリに、クロウは怪訝そうに眉を上げた。
「何だ? はっきりしねぇな」
「いや、なんかこう……うーん、気のせいかもしれないんだけどねぇ……」
「や、お前に限ってそれはねぇだろ。言え」
「僕に対するその熱い信頼って何だろね。……あー、はいはい、言います言います。僕、多分あの子に会ったことがある…………んじゃないかなぁ、と」
「は?」
思い切り予想外な言葉に、クロウは間の抜けた声を上げた。エーリの返答がどうにも煮え切らないのも珍しいが、クロウが素で驚いていることも珍しい。
「会ったことがある、って……お前とレーヴが?」
「いや、ちょっと……確証はないんだけど、あの子がね……」
「うん?」
「僕を見て、驚いた顔してたから」
「……お前が上から降って来たせいじゃねぇ?」
多分違うだろうな、と思いながらもそう問えば、きっぱりと首を横に振られた。そもそもそんなことで驚くのならば、クロウが上から降って来た時点でパニックになっているだろう。だよな、とあっさり前言を翻したクロウに、エーリは煮え切らない表情をしたまま先を続けた。
「僕を見て驚いた顔をした後 ―― おうさま、って言ってたんだよねぇ……」
声になってはいなかったけれど、唇がそう象ったのをエーリは見た。
きっと他の誰も気付きはしなかっただろう。レーヴの顔に驚きが見えたのもその一瞬だけのことで、直後には呆れのようなものが勝った表情になっていた。驚きなど欠片も見えず、ただ非常識な行動を取る相手に呆れた、といった様子の。
年齢を考えれば見事なものだと思う。子供は、一瞬表に出した自らの感情を、綺麗に隠してみせた。
「おい、それ……」
「だーかーら言ったじゃん。気になることがないでもない、って」
「『王様』、ねぇ……」
「十中八九、仕事中の僕に会ったことのある感じの反応でしょ、これは」
「『帝王』だもんな、お前の綽名。どっちかってーと暴君のような気もするけど」
「あっはっはー、だから喧嘩なら買うぞー? 暴れるぞー?」
「はいはい、仕事終わってからな」
先程と同じやり取りを繰り返せば、エーリが面白くもなさそうに鼻を鳴らした。そして。
「とりあえず、様子見で」
「仰せのままに。我が王」
にこやかな笑みと共に返された台詞に、エーリ ―――― 経済界の重鎮にして『帝王』の名を冠するオーランド商会の総責任者、エーリ・ルグウィンは、ただ凄みのある笑みでもって応えた。
「―― お前ホントに後で覚えてろよ」
「はいはい。だから仕事が終わった後で付き合ってやるって。お前のストレス発散でもなんでも」
「言質取ったからな」
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