必要措置と恐怖心

 課外授業があった。

 特に何の変哲もない、学園からもほど近い場所での授業。


 問題らしい問題が起こったわけでもなかったのだが、何にせよやんちゃ盛りの少年、野外、しかも授業当日は前日まで降り続いていた雨が上がったばかりで地面が相当にぬかるんでいた ―――― と、こう三拍子そろっていれば、特に何がなくとも授業終了時にはかなり小汚いことになる。

 課外授業なんて何のその、そんな面倒なモノには真面目に参加しない、とばかりの姿勢を貫いていたレーヴはともかく、はしゃぎ回り転げ回りで挙句の果てにはべちゃべちゃの地面にヘッドスライディングまで決めていたルーフェは、小汚いのも通り越して普通に汚かった。

 そこで。


「とっとと風呂に入れ」

「嫌だっ!」


 当然の提案をした者と、それを即答で拒否した者との間で、仁義なき戦いの勃発である。





 そもそも、とレーヴは思う。

 思い返してみれば……、


「お前、大浴場とか行ったこと……」

「ない!」


 清々しいぐらいの断言だった。

 お前そこは即答するところじゃない、とレーヴはルーフェの眉間に手刀を決めながらため息を吐く。


「じゃあ今から行って来い。どうせ場所はキッチリ覚えてるんだろう」


 出会ってからこの方、馬鹿だ阿呆だと数えきれないほどに口にし今も正にそう思っているが、ルーフェの頭の出来自体はアカデミーの誰も敵わないと言っていいだろう。寮内に限らず、アカデミー内の地図ぐらい、ルーフェの脳内で何の苦もなく再現出来るに違いない。


「覚えてるけど、やだ!」


 ……と思っての台詞には、ある意味で予想を裏切らない答えがもたらされたわけだが。

 ああ、本当にそもそも、とレーヴは思う。


「お前、風呂が嫌いなのか?」


 寮の部屋には、一応小さいながらもシャワー室が完備されている。が、今の今までルーフェがそこを使っているのをレーヴは見たことがない。

 何度かタオルで体を拭いているのは見たことはあるし、普段は大浴場にでも行っているのだろうと思って、レーヴもあまり気にしていなかったのだが。


 今更のような問い掛けに、ルーフェはむっつりと押し黙った。それはまるでふてくされた子供とまるで同じ表情だった。そのまま、沈黙が数秒。


「……ん」

「? 何だ?」

「……嫌いなのは、風呂じゃねーもん」


 そっぽを向いたまま、ルーフェは言った。



*  *  *


「……っ、やっぱやだやだやだやだ!」

「……おい」


 ここまで来てそれはない。

 というか、自分は何でこんなことまでしているのだろうか。

 今更のようにそう考えて、灰色の声音で呟いたレーヴの目の前、子供は相変わらずやだやだと駄々を捏ねている。


 状況としては、寮の自室のシャワールーム、半ば問答無用でルーフェを引き摺ってきたレーヴの方は学生服のままではあるが、対するルーフェはシャワーを浴びるにふさわしい恰好となっている。つまりは、素っ裸。

 何でこんなことに……と、逃げ出そうとするルーフェの茶髪のしっぽをしっかりと掴みながら、レーヴは頭痛を堪えるような面持ちになった。


「あだだだだだっ!? 何すんだっ、レーヴ!」

「お前が逃げようとするからだろ。逃げるとハゲが出来るぞ」

「もういっそハゲでいーよ! とにかくヤなモンは嫌なの!」

「……潔いな」


 無駄に、とレーヴは相手を評した。

 よくよく考えてみれば、その頭脳といい運動神経といい、ルーフェは実に無駄のカタマリである。本当に、心底そう思う。


「いいから座れ。面倒臭い」


 ため息を、ひとつ。それを押し流すようにキュッと蛇口を捻ってお湯を出せば、ビクリと目の前の身体が大げさなぐらい震えた。

 大きく見開かれた、夕焼け色の瞳。


「? おい……?」

「っ、……!」

「ルーフェ?」

「こわ、い……っ」


 流れる水音に比例するように、カタカタと震える小柄な身体。



 ―――― 嫌いなのは、風呂じゃねーもん。



 ああ、こういうことか、とすとんとレーヴは納得した。

 ルーフェが嫌いなのは、風呂だとか、そういうのじゃなくて。


「お前、水が怖いのか」

「……っ」


 答えは、なかったけれど。

 縋るように伸びてきた腕と、そこに込められた力が、何よりの答えだと思った。

 無言のままのルーフェに、ぎゅうっと腰の辺りに抱きつかれて、ぐりぐりと頭を押し付けられる。―― 気のせいでなければ、鳩尾を正確に抉りこまれてはいないだろうか。やたら息が詰まる。


 怖いのだと言った。考えてみれば、課外授業の時もそれ以外の日常生活の中でも、ルーフェは決して水辺に近寄ろうとしていなかったではないか。

 怖いのだという、その理由は知らない。

 元々ルーフェのことなど、レーヴは数える程度しか知らない。知らなくても別に支障はなかったし、今必要なのは『理由』ではないのだと思う。


 面倒だな、と。人でなしの思考が、頭を掠めないわけでもなかったのだけれど。

 レーヴはひとつため息を吐いた。流れ出る水を、蛇口を捻ることで止める。

 意思と反射とを秤に掛けたら、何故だか後者が勝った。考えるより先に手は伸びていた。伸ばした手は、ぎこちなくルーフェの茶の髪をさらう。何度か宥めるように撫でた後、頭から肩へ、肩から背中へ。ゆっくりと移動したその終着点で、今度はちょっと考えてからその手にぎゅっと力を込めた。


 記憶を探ってみても、こんな事態の前例など存在していないので何の参考にもならない。

 そもそもレーヴは、圧倒的にスキンシップ不足のまま育ったような子供である。こんな身近に誰かの体温を感じることもそうそうなく、寮が同室になって以降、こちらはスキンシップ過多とも言える育ち方をしたルーフェに抱きつかれ纏わりつかれしている中で他人の体温というのはあったかいのだと知ったようなものだ。嫌な具合に筋金が入っている。


 けれど今、抱きしめたルーフェの身体はいつもよりもずっと冷たくて。

 …………というか、いつまでもこのまんまだと風邪を引くよな普通、と今更のように思考がそこに行き着いた。どうやら何だかんだ言いつつレーヴも混乱していたらしい。

 ポン、とルーフェの背をひとつ叩いて、零れ落ちそうになったため息を、今度は押し止めて。


「―――― 大丈夫だ。ここにいる」


 ポン、と合図するように、もうひとつ。


 ここに、いるのだと。

 告げた言葉は、意思というよりはやはり反射に近いものだったのだけれど。


 ルーフェは、顔を上げない。

 けれど、ぎゅうっとしがみ付く力が、少しだけ強くなった。


「……レーヴ」

「ああ」


 呼ぶ声には、頷きをひとつ。

 ただ名前を呼んだというよりは、そこにいることを確認するかのような、不安と怯えの雑じった声。縋れる何かを必死で探しているかのような、そんな頼りない声音だった。

 らしくないそれを受け止めて、レーヴは再びルーフェの背中をポンと叩く。


「お前、雨の日とかどうしてたんだ? 平気なのか?」


 そう長くもない日数の中でも、雨の日はあった。その日の記憶がいまいち思い出せずに問い掛けたレーヴに、ルーフェはふるりと頭を振った。


「平気じゃねー。大っっっ嫌い」


 即答。かつ、平坦な声ながらも力説だった。

 雨の日は出来るだけ外に出ねー。窓の見えない位置でシーツ被って丸まっとく、との答えに、ああそういえば……とレーヴはひとつ頷いた。そんな光景が、確かにあった。


「雨音は?」

「……ぎりぎり」


 言葉よりも声に。声よりもそこに滲み出る雰囲気に。

 嫌なモンはもう本っっ当に嫌なんだけどっ! という、感情をこれでもかというぐらいそこに乗せて、ルーフェは淀んだ声音で呟いた。

 これは「ぎりぎり」というのは嘘でも誇張でもなく本当にぎりぎりなんだな、というのがあからさまに察せられる声だった。


 レーヴは短く吐息を落とす。

 ぎりぎりでも何でも、それが確かに許容範囲であると言うのなら。

 ゆっくりとレーヴは蛇口を捻った。流れるお湯はごくごく弱く、けれどサァァッ……と響いたその音に、ルーフェはビクリと顕著に背を震わせた。


「……雨音だと思っておけ」


 湯の温度を確かめながらレーヴは言う。

 がっちりとレーヴにしがみ付きながら、ルーフェはぶんぶんと首を振った。


「っ、むちゃ……いうな……っ!」

「音自体は似てるだろう」

「だっ、や、雨、音だけ……じゃ、ねーだろ……!」


 濡れるじゃん! つか普通に! 普通以上に! 雨音も嫌いなんだよオレはーっ! とルーフェが叫ぶ。いつもならば間髪入れずにうるさいと頭を叩いているところだが、この際好都合だ。

 怯えより不安より、そうやって騒いでいてくれる方が余程やりやすい。


「っ、も、ホント無理っ!」

「適当に騒いでろ。そのうち終わる」

「やーっやだやだやだやだ無理無理無理無理!」

「その調子その調子」

「……っ、鬼ーっ! まじ、で……っ、こわいこわいこわい……!」


 半ば以上声が泣いている。ぎゅうぎゅうとしがみ付くというよりは、もはや締め付けてきているルーフェの背をポンと片手で撫で、レーヴは淡々と口を開いた。


「大丈夫だ。ここにいる」


 それは、つい先刻も口にした言葉。

 何となくそうすることが必要だと感じて繰り返したそれに、反応を示したルーフェは回した腕に更なる力を込める。子供の力とはいえ、腰回りを容赦なくぎゅうぎゅうと締め上げられ、正直なところ苦しいことこの上ないのだが、多分今苦しいのは自分よりもルーフェの方だろうと思い文句を言うことはしなかった。


「そのまましがみ付いてろ。―――― ちゃんと、ここにいるから」


 頼れるものじゃないかもしれないけれど、無くなるものでもない。

 ここにいる、と。込められた力の強さに少しだけ眉を顰めてレーヴは言った。


 サァァッ……と雨音のようにシャワーの音が響いて、直後弾かれたようにルーフェが顔を上げた。真ん丸に瞠られた夕焼け色の瞳と目が合う。


「……何だ?」

「え……や、うん……」


 散々騒いで、しがみ付いて喚いて ―― それでも。


 この時ルーフェは、初めてレーヴを見たような、そんな表情をした。


「えーっと……」

「だから何だ?」

「えー、あー、うー、何てーか…………水も滴るイイ男?」

「この状況で言うことがソレか」


 確かにルーフェに付き合ってシャワールームに入り、しかも密着した状態で相手にシャワーなんぞを浴びせているのだ。いい加減びしょ濡れにもなろうかというものだが、しかし。

 どういう教育をしたらこういう人間になるのか、これの養い親だとかいう輩に心底問い詰めたくて仕方ない。レーヴは呆れ雑じりの感情でそう思う。


「…………大丈夫そうだな」

「へっ? え、いや、ちょ……ひぎゃーっ!」


 再開したシャワーによる攻撃に、ルーフェが即座に悲鳴を上げてレーヴに抱き付き直した。やだやだこわいこわいと大騒ぎするものの、そこには先程までのような切迫した響きはない。


 ぎゅうっと、確かめるように腕を伸ばして。

 そこにいるのだと、知っているから。


「ぎゃーっ! 死ぬ死ぬ死ぬやだやだこわい!」

「……人聞きの悪いことを叫ぶな」


 いっそ完全防音の部屋が欲しいな、と少し現実逃避染みたことを考えながら、レーヴはルーフェの茶色の髪をわしゃわしゃと泡立てたのだった。

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