受け取るべきか受け取らざるべきか

UMI(うみ)

受け取るべきか受け取らざるべきか

 恵子の前でくつくつと湯気を立てて鍋が美味そうな匂いを立てている。私を食べてと言わんばかりに身をくねらせる豚バラ肉。艶やか白菜さん、紅一点の人参さん。白菜と豚バラ肉のミルフィーユ鍋だ。食事当番の恵子が準備した。

 そもそもと恵子は思うのだ。母は専業主婦で恵子は働いている、お稽古ごとに明け暮れる母が準備すべきではないかと。何故に仕事をしている自分が食事の支度をせねばならない。理不尽だ。そんな恵子の心を知ってか知らずが、幼馴染の小暮樹(こぐれ いつき)は鍋奉行を嬉々として名乗り出て、鍋の具をよそったお椀を恵子に渡す。

「はい、恵ちゃん」

 にっこり笑って手渡されたそれを受け取る。

「……どうも」

 何故か一回り下の幼馴染の樹はこうして仕事で帰りが遅くなる日以外は当たり前のように食事にやって来る。そう、子供の頃から。その理由は樹は隣に住んでいるのだが、子供の頃に突然両親を亡くしたのだった。それ以来恵子の親は半分親代わりとして樹に接している。時々、我が子の恵子よりも樹の方が可愛いと思っているんじゃないかと思う時があるくらいだ。

「ああん、樹君、おばさんにもよそって」

「はい、お母さん」

 樹よ。言っておくがそのおばさんは私の母親だぞ。お前の母親じゃないからな。恵子は思わず心の中で毒づく。

「俺にも頼むよ、樹君」

「はい、お父さん」

 だからそれは私の父親であって、あんたの父親ではないんだぞ。だが恵子を置き去りにしまたまま会話は続く。

「樹君が本当にうちの子になってくれればいいのに」

「全くだよ。恵子をやるからうちの息子になってくれないか?」

「いや、お父さん、それはまだちょっと早いかなと」

「そうよ、恵子なんておばさんじゃない。樹君が可哀そうよ」

 実の娘に対しても母は容赦がない。

(確かに、私はおばさんですよ!)

 恵子、鏑木恵子(かぶらぎ けいこ)は今年で三十五歳の行けず後家である、経歴もぱっとしない。三流大学を出た後、五十人足らずの中小企業に就職し(そこしか内定がもらえなかった)雑務ばっかりやっている。その反面、樹は眉目秀麗、文武両道を絵に描いたような奴で、当たり前のように一流外資系の会社に幹部候補生として入社した。歳は未来溢れる二十五歳だ。稼ぎは恵子なんかよりもずっといいに違いない。恵子はそんな彼を出来の良すぎる弟としか思っていなかった。向こうだって似たようなものだろう。突然両親を同時に事故で失った樹に対して家族のように接してきた鏑木一家に彼が懐くのも無理のない話だとは思っている。

 恵子は箸を置くと席を立った。

「ごちそうさま」

「もっと食べないの?」

 樹がそう言うが恵子は首を振った。

「恵子ちゃんはもっとぼっちゃりした方が可愛いよ」

 はっきり言って嫌味にしか聞こえない。

「ダイエット中なの」

 そう言えば母が容赦なく返してきた。

「また無駄な努力をしているの?」

「そうそう、母さんの言う通りだぞ」

 ああ、この二人は本当に私の実の両親なのでしょうか。恵子は自室へと引き籠った。一階では恵子抜きで楽しく鍋パーティーをしているに違いない。

(私ってなんなんだろう……)

 仕事もぱっとしなければ、年齢イコール彼氏いない歴の自分は結婚願望が全くないといえば嘘になる。でも婚活したら負けかなと思って今までしたことはない。いや、既に社会的に見れば十分負け組であろう。同期入社の女の子たちは皆結婚して寿退社してしまった。ご祝儀は出ていくばかりでもらう当てはこれっぽちも全くない。

(どうして、こうなっちゃったのかな)

 努力が足りなかったのだろうか。恵子なりに頑張ってきたつもりなのだが。樹は両親を亡くすという悲劇に見舞われたが、前途洋々の成功された未来が待っている。人生の運は平等ということなのだろう。

 両親の亡くなった葬式の席で一人取り残された樹を自宅に呼んで具のない塩握りを食べさせた。その時に樹はこう言ったのだ。

『恵ちゃんと結婚する、待っていて』

 そんなことを言ったなんて樹はきっと忘れている。懐かしいことを思い出したなと思った。今日はもう風呂に入らずに寝てしまおうと思い、パジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。明日も仕事がある。


「部品が納品されていないってどういうことだ!?」

 営業部長の叱責が飛んだ。

「生産が追い付かない状況だと連絡がありました」

「そこを何とかするのがお前の仕事だろ!」

 いやいやと恵子はうんざりした。納期の折衝は前にいる上司を含めて営業の仕事のはずだ。購買は現場の指示で飛んでくる注文をメーカーに発注して、納品されたものを検品するのが仕事だ、納期の折衝をする権限はない、ないはずだ。

「この無能が!何年この仕事をしていると思っている!」

 無能はそっちだろうと、心の中で罵る。声には出さないけれど。

「とにかく何とかしろ。さもなきゃお前の今期の評価下げるよう上に言っておくからな」

 捨て台詞を残して部長は立ち去った。

(あーあ……)

 周りからはひそひそ話す声やくすくす笑う声がする。慣れたからもういいけど。どうもあの営業部長とは相性が悪いのか、しょっちゅう今みたいに怒鳴られる。本社から飛ばされた腹いせだろうと恵子は思っていた。別に評価を下げられても痛くも痒くもない、自慢じゃないがここ十年恵子の給料は横ばいだ。忘れられているのだろうなあと思う。それにしても仕事も出来ないのに態度だけは一人前だ。飛ばされても仕方ないだろう。こっちはいい迷惑だが。愚痴っていても仕様がない。恵子は受話器を取った。


 自宅の最寄りの駅で偶然に樹に会った。

「お疲れ、恵ちゃん」

 尻尾を振るかのように駆け寄って来る。スーツ姿もすっかり板についたなと思う。

「樹もお疲れ。今日は早いのね」

「ノー残業デーなんだ」

「ふうん」

「今日の夕飯はなに?」

 今日もしっかりとうちにたかりに来るつもりらしい。

「茄子のカレーとポテトサラダ」

 素っ気なくそう言うと、樹はやったと子供のように歓声を上げた。

「俺、恵ちゃんのカレー好きだな。なんか懐かしい味で」

「そう?」

 何の変哲もないカレーのはずである。おろしニンニクと擦った生姜をたっぷり入れている以外は。二人でスーパーに立ち寄り具材を買った。荷物は自分が持つと樹は言い張るので遠慮なく持ってもらった。

 両親が亡くなる前はこんな子じゃなかったのになあと思う。酷い悪戯ばかりして恵子は樹が大嫌いだった。何せ突然バケツで水をかけてくるは、ガムを髪に引っ付けられるは、カエルを背中に放り込んできたりもしたのだ。その悪戯が発覚する度に樹の両親は頭を下げにやって来た。そりゃ嫌いにもなる。それが変わったのが十五年前、樹の両親が当然事故で他界した時からだ。


 樹の両親の葬儀は自宅葬でひっそりと行われた。葬儀社などへの手続きは恵子の両親が行った。親類縁者がいなかったため、弔問客も少なかった。弔問客が全て帰った後、樹は両親の遺骸が収まった棺桶の前でじっと座り込んでいた。泣きもせずに。いつもの悪戯小僧の面影は全くなかった。十歳の子供が突然一人ぼっちになってしまったのだ。さすがの恵子も哀れに思い、黙って横に座った。かけるべき言葉がなかった。

 どれぐらいそうしていただろうか。突然、十人ばかりの大人がどやどやと足音を立ててやって来たのだ。誰なの?何なの?と思う暇もなく、大人たちは樹を取り囲むように座ると口々に話かけた。


「樹君にはまだ親が必要でしょ」

「大きくなったわね。おばさんずっと心配していたのよ」

「まだ子供なんだからお金の管理とか無理でしょ。心配しなくていいよ」

「だからおじさんの所へおいでよ」


 大人たちの言葉と態度はあからさまだった。要するに樹の両親が残した遺産や保険金目当てに樹を引き取ろうという算段なのだ。隠そうともしない下心に怒りが込み上げた。何が心配だ。今までも顔すら見せなかったくせに。恵子の両親と樹の両親は仲が良かったため、恵子は両親からそれとなく聞いていたのだ。樹の両親はかけおち同然だったのだと。それを今になってのこのこ出てきて。どうせ引き取るなんて形だけだ。金を自分たちのものにしたら樹は身ぐるみ剥がされて施設にでも放り込まれるに違いない。我慢ならなくなって口を開いた。

「お引き取り下さい」

 自分でも驚くほど低い声だった。

「は、そういえば、あんた誰?」

「隣人です」

「関係ない子は引っ込んでいて頂戴」

 恵子は立ち上がった。

「関係なくはありません!こっちは樹がおしめしていた頃から知っているんです!」

「所詮他人でしょ!」

「遠くの親戚より近くの他人でしょ!樹はうちで面倒みます」

「なに、勝手なことを言っているんだ!この小娘」

「勝手なのはそっちでしょ!この汚いハイエナ!」

「なんだと!?」

 胸倉を掴まれそうになって咄嗟に台所に逃げた、反射的に包丁を掴んでいた。

「それ以上私に近寄るな!樹にも近寄るな!」

「はは、そんなもん出してどうするんだ。刺そうってのかい?

 下品このうえない下卑た笑みを浮かべる男に恵子の頭は真っ白になった。

 そして。気付けば。

 思い切り自分の左手の甲に包丁を突き刺していた。

 誰かが「ひっ」悲鳴を上げた。

 手の甲から血がぼたぼた流れ落ちる。

「帰れ……」

 恵子は叫んでいた。

「帰れ!二度と来るな!このケダモノどもめ!」

 大人たちは目を彷徨わせると逃げるように玄関から出て行った。

「……恵ちゃん」

 ずっとだんまりだった樹が掠れた声を上げた。

「手、大丈夫?」

 樹の声に恵子は自分の左手の甲を見た。真っ赤になったそこに一瞬気が遠くなった。

「病院!俺、おじさんとおばさん呼んでくる!」

 包丁を刺したのだと自覚した途端に痛みが襲って来た。

「痛い!痛いよー!」


 なんだか懐かしいことを思い出してしまった。よくあんなことが出来たと今でも思う。二度と出来ないと思うけど。その時に付いた傷跡はまだ薄っすらと残っている。まあ、名誉の負傷だと恵子は思っている。

「恵ちゃん」

 ふいに樹が声をかけてきた。

「なに?」

「手を繋ごうよ」

「は?嫌よ。あんた幾つだと思っているの」

「昔は良く手を繋いでくれたに」

 樹は非難がましい声を出す。

「あんたが十歳くらいの話でしょ」

 夕焼けが二人を照らし、商店街の道に長い影を作っていた。


 恵子はぼんやりとベッドで横になりながらスマホを弄っていた。ラインは登録してある。だがしてあるだけだ。やりとりする相手はいない。あ、一人いたか。樹だ。しかし恵子が見ているのはラインではなく所謂出会い系サイトだ。会社の同期は皆結婚して退職してしまい、学生時代の友達もやっぱり結婚したり出産したりで縁遠くなってしまっている。恵子も出産を考えるなら年齢的にも今が最後のチャンスだろう。

(でもなあ……)

 自分はないわけではないが、それほど結婚願望が強いわけでもないのだろうと思う。どうしても子供が欲しいわけでもない。きっと、と思う。自分はただ寂しいのだ。

(樹だって……)

 今は「恵ちゃん、恵ちゃん」とカルガモのようだが、そのうちに恋をして彼女を作るだろう。

『恵ちゃん、俺の彼女です』

 なんて紹介してきて。

『恵ちゃん、結婚することになりました』

 なんて言って式の招待状を恵子に渡してくるのだ。きっとそれは時間の問題だ。

(樹だって二十五だしなあ)

 彼女がいてもおかしくはない。早ければ結婚していても不自然な年齢ではないのだ。なにせ樹は大企業の幹部候補生。顔もいい。相手は選り取り見取りだろうに。皆変わっていく。どんどん前に進んでいく。恵子だけが取り残されていく。そんな錯覚を覚えた。

(考えてもしょうがないっていうの)

 恵子は婚活サイトを閉じて、いつも入り浸っているネット小説の投稿サイトで暇つぶしになる小説を探し始めた。


 樹は今日も今日とて飯をたかりにやって来る。

「今夜はハンバーグだね。俺、恵ちゃんのハンバーグ大好き」

 しかも恵子の食事当番の日を狙ってやって来ている気がする。

「美味い!」

 ハンバーグを一口食べて樹は言った。

(そりゃ、ね)

 恵子は思う。週に四日も食事を作っていれば誰だって上手になるだろう。それにしても恵子の母親は専業主婦だというのに、何故自分がここまで食事の支度しなければならないのだろうと思う。理不尽だ。甚だ理不尽である。

「そんなに恵子の料理が好きなら、お婿に来ればいいのにぃ」

「ははは、恥ずかしいですよ。お母さん」

 恵子の気持ちを置き去りにして母親と樹は能天気な会話を続けている。憤懣やるかたない気持ちでハンバーグを口に放り込んだ。

「ところで、恵ちゃん」

「なによ」

 樹の呼びかけについ棘のある返事をしてしまう。

「恵ちゃんの好きな宝石ってなに?」

「は?」

 恵子はアクセサリーの類を身に着けない。興味がないからだ。何を好き好んでバカ高い宝石を買って身を飾らなければならないのか。腹の足しにもならないのに。まあ、要するに宝石の種類なんて知らない。ダイヤ、ルビー、エメラルド、サファイアぐらいしか名前が浮かばない。好みなんてあるわけない。

「さあ、特には」

 なんでこんな質問を唐突にしてきたのだろう。

「でも、なんで?」

「いや、別に……」

 少しだけ樹は目を逸らした。まあいいやと恵子は思い、食事を再開させた。


 そして今日も今日とて、営業部長の小言で一日が始まる。

「いいか、鏑木。今日は大切な取引先が見えるんだ。失礼のないようにな」

「はい」

「なんだ、その気の抜けた返事は」

「すみません」

「わかってるのか!」

「はい、わかっています」

 全く何が気に入らないんだろう。こいつは。怒りを通り越して呆れてしまう。

「たくっ」

 営業部長はぶつぶつ言いながら立ち去っていた。ちなみにお茶くみ係は恵子である。もっと若い子もいるのに十年ずっとお茶くみをさえられている。取引先が来たと声がかかったので給湯室でお茶を盆に乗せて来客室へ向かった。ノックをして「失礼致します」と部屋に入ると「恵ちゃん」と呼ばれた。

「はい?」

 ソファに腰掛けていたのは、樹だった。隣にはベージュのスーツを着た栗色の髪の長い女性、その正面には営業部長が座っている。

「知り合いですか?主任」

 栗色の髪の女性が質問する。

「ああ、隣に住んでいるんだよ」

「そうなんですか」

 女性がなるほど一つ頷いた。一言でいえば美人だ。二十代中頃だろうか。恵子はお茶を置くと、失礼しますと一礼してドアを閉めた。ドア越しに営業部長の声が聞こえた。

「いやあ、鏑木君はベテラン事務員でして。気が利くしとても助かっています。それにしても小暮さんと知り合いだったのは驚きました。ははははは」

 なんていけしゃあしゃあと話をしている。そんなことこれっぽっちも思ってないくせに。小さくあっかんべえをして恵子は自分の席へと戻った。

 

 後日商談は成立したが、営業部長は担当を外された。何でも樹が支部長に言ったらしい。

「新商品の出来は素晴らしいのでぜひ採用させて下さい。ただ今の担当の方はどうも信用がおけません。はっきり言って少しばかり不愉快な思いをしましたので。変更して下さい」

 営業部長は担当を外され、おまけに六か月間の減給となった。樹が私情を挟んだとは思えないし、そもそも恵子がこの営業部長から嫌がらせのような言動を受けているとは知らないはずだ。まあ、なんにせよ、いい気味とだと思った。営業部長はまた異動させられることになったし恵子としては万々歳なのだった。


 ある晴れた休日、恵子は珍しくお洒落をして街にでた。お洒落といってもあくまで恵子にしてはというレベルなので大したことはないが。珍しくウィンドウショッピングでもしようと思ったのだ。あの営業部長とおさらば出来て気分が上向いたというのもあった。

 行先はいつもの所帯じみた商店街なんかではなくて、お洒落なブティックや有名ブランドが並ぶ大通りだ。休日は歩行者天国になっている。冬物が痛んできているし、ちょっと奮発しようかなと思って歩いていた矢先だった。

 樹の姿を見かけた。一人じゃない。あの時会社に来た栗色の髪の美人と一緒だ。二人で何か話しながらすいっと店の中に入っていく。思わず近寄って確認すれば、そこは恵子ですら知っている高級宝飾店だった。

(うわあああ……)

 我ながらなんてべったべったな展開だろう。


『恵ちゃん、俺の彼女です』

 なんて紹介してきて。

『恵ちゃん、結婚することになりました』


 先日考えていた想像がこうも早く現実になるなんて。恵子は何となくいたたまれず、その場を後にした。そして結局いつもの商店街へと戻ってしまい、リサイクルショップで服を何着か買って、ハンバーガーショップでお昼を食べて家へと帰ってしまった。折角いい気分で過ごすはずの休日が樹のせいで台無しだ。

(いや、樹は悪くないのか……)

 勝手に右往左往しているのは恵子だ。結婚したらもう恵ちゃん、恵ちゃんと纏わり付いてくることもないんだろうなあ。そしてまた恵子は取り残されていくのだ。

(本気で私も結婚を考えた方がいいのかも)

 こんな行き遅れをもらってくれる奇特な男がいればの話だが。だがこのままでは寂しい老後が待っているのは間違いない。恵子はベッドの上でごろごろしながらスマホを弄り始めた。


 それから一か月経った頃だった。大分寒くなり、木枯らしが吹く日だった。樹からうちに来て欲しいと言われた。特に気を遣う仲でもないので恵子は部屋着にドテラという恰好で樹の自宅に行った。隣なので行くといっても一分もかからない。リビングに通され座ってと言われる。勿論遠慮なくソファに座った。

「今、コーヒー淹れるね」

「別にいらない。で、なんの用?」

 樹はいつも恵子の家に押しかけてくるので、樹が家に来て欲しいと言うのは珍しい。樹は恵子の前に座り落ち着かなくそわそわしている。自宅なのに。

「どうしたの?」

「あ、うん、えーと、あの」

「なんなの」

 いらいらしてくる。

「よっし!」

 樹は良くわからない掛け声と共に、小さなケースを取り出した。そしてパカっと開けた。

 そこに鎮座しているのは大粒のダイヤの嵌った指輪だった。

「恵ちゃん、俺と結婚して下さい」

 樹ははっきりとそう言った。

「はあ?」

 今こいつはなんて言った?

「結婚して下さい」

「いや、急に言われても!」

 恵子は戸惑いの声を上げた。

「急じゃないよ。昔もそう言ったよ」

 確かに言った。

「でもそれは子供の頃の話で」

「確かに子供だったけど、本気で言ったんだ」

「いや、あの、この指輪は私のためのものなの?」

「他に誰がいるの?部下に恥を忍んで一緒に付いて来てもらってまで買ったのに」

 ああ、そういうことか。

「色々悩んだけど、やっぱり定番のダイヤかなと思って」

 しばらく沈黙が続く。高級宝飾店のダイヤの指輪の前にドテラ姿の自分。なんてシュールな光景だろう。口火を切ったのは樹だった。

「両親が死んだ時、葬式の席で恵ちゃんが俺を助けてくれたのを俺は忘れたことないよ」

「あれは、あいつらがむかついただけの話であって……別に助けたわけじゃ」

「恵ちゃんの動機はどうでもいいんだ。あいつらに啖呵切って、怪我までして追い返してくれて俺は本当に感謝しているんだ」

 樹は恵子の左手を取った。

「病院で手当てしたこの手でおにぎりを作ってくれた。本当に嬉しかった、確かにおにぎりは不格好だったけど」

 悪かったな、不格好で。

「恵ちゃんしか結婚相手は考えられないよ」

「えーと、でも、年齢差とか」

「あと十年も経てばそんなのどうでもよくなるよ」

 お願いと樹は言う。

「この指輪を受け取って」

 恵子は爛々と輝く指輪を見つめた。この指輪を手に取れば幸せになれるのだろうか。また取り残されたという懊悩から解放されるのだろうか。思わず手を伸ばしかけるが、ちょっと待てと心の中で警笛が鳴り響く。なにか肝心なことを忘れてやしないか。


 私はそもそも樹のことが、目の前の男が好きなのだろうか?


 これって結構重要なことではないだろうか。恵子は考えた。

 嫌い、ではないと思う。では恋愛感情かと訊かれるとなんともいえない。

 てか、そもそもまだ付き合ってもいないよね。


「恵ちゃん、お願い」


 樹が促してくる。

 ダイヤは早く私を受け取ってと輝きを放っている。


 私はどうすればいいんだろう。


 受け取るべきか受け取らざるべきか、それが問題だ。




 


 


 










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