魔術師の弟子

UMI(うみ)

魔術師の弟子

 透けるような青空の下、一人の少年が走っていた。おざなり切られた黒髪を振り乱し、なだらかな草原を成長途中の細い足を懸命に動かしている。早く早く一刻も早く。自分に翼があったら良かったのにと思うほど心は急いていた。時折転びそうになる足をもどかし気に必死に。草原の先には小さなこんもりとした森とも言えない程小さな森があり、少年は迷いなく飛び込んでいく。森の小道を飛ぶように走りに抜けると、少年は人影を見つけた。

「ラプレス!」

 満面の笑みでその名を呼び大きく手を振る。

「レイゾン、来たのかい」

 少年、レイゾンに呼ばれた人影は暖かな日差しの中でにっこりと笑った。銀糸の髪が陽光を反射してきらきらと輝いていた。深い青の瞳は見たことない海を連想させた。ラプレスと呼ばれた青年は大きな籠を持っており、その中には青々とした草が山のように入っている。レイゾンはこのラプレスという青年に会うのを何よりも楽しみにしているのだった。

「何をしていたの?」

 そう言ってレイゾンは籠の中を覗き込む。

「薬草を取っていたんだよ」

 ラプレスは腰を屈めて籠の中身をレイゾンに見せた。けれどレイゾンにはただの青臭い匂いのする雑草にしか見えない。

「薬草?薬になるの?」

「そう、君の妹にも使ったものだよ」

「へええ」

「色々な効能があるんだよ」

 ラプレスは薬草を一掴み取ってレイゾンに見せた。

「うん、そのおかげで妹はすっかり元気になったよ」

 レイゾンの幼い妹は酷い病に侵されて村の医者も匙を投げたほどだった。「この子は手の施しようがありません」と言った医者を藪医者とレイゾンは心の中で罵った。死を待つだけの生まれたばかりの妹だったが、ふらりと村にやってきたラプレスの薬で一命を取り留めたのだ。この青年が何処から来たのかレイゾンは知らない。ただラプレスは自分のことを「魔術師」と名乗っただけだった。それ以来村から離れたこの場所で彼は使われなくなった炭焼き小屋を改装し、ひっそりと自給自足の生活をしている。レイゾンが暮らしているのはよそ者を毛嫌いする小さな村だ。それでもラプレスの薬を求めて村人がこっそり彼の元を訪れているのをレイゾンは知っている。ラプレスという青年はレイゾンにとって憧憬と羨望、尊敬の対象だった。

「凄いなあ、ラプレスは。ラプレスは魔術師なんでしょ、僕も大きくなったら魔術師になりたい」

 レイゾンが無邪気にそう言うと、ラプレスは返事をせず小さく項垂れた。横顔に悲し気な影が走ったのを見てレイゾンは訝し気にラプレスに呼びかける。

「ラプレス?」

「ああ、ごめん」

 顔を上げて優しく微笑んだ。

「レイゾンの好きなハーブ茶でお茶にでもしようか」

 もうそこには先ほどの悲し気な影は何処になかった。

「本当?」

「ああ」

 やったあと両手を上げ、ぴょこんと跳ねてレイゾンは喜びを表す。

「甘パンもあるよ」

「ラプレス大好き」

 レイゾンはラプレスの腰に抱き着いた。

「そんなに暴れると籠がひっくり返るよ」

二人の笑い声が風に乗って木々を揺らす。ラプレスは妹を助けてくれた大恩人であった。また同時に父親のいないレイゾンは優しく接してくれる彼に父親の面影見ていた。レイゾンは犬ころのようにラプレスに纏わりつきながら彼の小屋へと招き入れられた。


 夕暮れになり、自宅に帰ったレイゾンは食卓でいつものように母と共に夕食を取っていた時だった。

「ねえ、レイゾン」

 豆のスープを啜るレイゾンに彼の母親は剣のある口調て呼びかけた。

「またあんた、あの男のところに行ったんでしょう」

 レイゾンはことりとテーブルの上に木のスプーンを置いた。

「あれほど言ったのに」

 母の咎める口調にレイゾンはあからさまにむっとする。

「聞いてるのレイゾン」

 レイゾンはきっと母親を睨みつけた。

「何が魔術師よ。村の人たちが言っていたわ、あの男は……」

 ばんとテーブルを叩きつけてレイゾンは立ち上がった。その拍子にがたんと音を立てて椅子が倒れる。

「黙ってよ!」

 レイゾンは母親を怒鳴りつけた。

「母さんこそ、何だよ!悪口ばっかり!」

 小さな揺りかごで眠る妹を指差して言う。

「妹が助かったのは、誰のおかげだと思っているのさ!」

「それは……」

 口籠る母親にレイゾンは言い放った。

「母さんなんて、大嫌いだ!」

 そう言い捨ててレイゾンは家を飛び出した。


 向かった先は勿論ラプレスが暮らしている小さな小屋だった。暖炉と木のテーブル椅子が二つ。日用品を入れておく棚に簡素なベッド。それしかない質素な部屋だ。奥の部屋は採取した薬草の為の調合室になっているらしく入ったことがない。暖炉の上には何故か砂時計が置かれていてさらさらと音を立てている。夜中に突然押しかけて来たレイゾンにラプレスは嫌な顔一つせず、小屋の中に招き入れてくれた、レイゾン話を聞き終わると、くすりとラプレスは笑った。

「へえ、それでレイゾンはお母さんと喧嘩しちゃったわけだ」

 暖炉の前に敷かれた絨毯の上で座っているレイゾンはむっつりしたままだ。ラプレスが淹れてくれたハーブ茶もすっかり冷めきってしまっている。

「庇ってくれて嬉しいけど、お母さんのことを大嫌いだなんて言うのは良くないよ」

 ラプレスに諭されてレイゾンはむっとする、彼をけなした母を何故ラプレスは庇うのだろうか。

「だって、ラプレスは僕の妹を助けてくれたんだよ!おかしいじゃないか。村の人たちだってそうだよ。ラプレスから薬をもらっているのを知ってるんだから!それなのにラプレスのことをインチキだの、詐欺師だの胡散臭い奴だって悪口ばっかり!」

 自分は悪くない、悪いのは母だ、村の人たちだ。そう言おうとしたが、ラプレスに遮られた。

「君のお母さんは正しい。村の人たちだってあながち間違ってないよ」

 ラプレスに言葉にレイゾンは目を見開く。

「魔術師なんて碌な人間じゃない」

 彼の信じがたい言葉にレイゾンは声を荒げた。

「そんなこと……!」

「レイゾン」

 諭すようにラプレスは静かに言った。

「私はね、妻と子供を捨てた」

 告解するかのようにラプレスは言う。そこにはどんな感情も読み取れなかった。

「魔術師になるためにね」

 いきなりのラプレスの告白にレイゾンは言葉が出てこなかった。「どうして」とも「何故」とも聞けなかった。

「さあ、レイゾン。話は終わりだよ。お母さんが心配している、送ろう」

 有無を言わせないラプレスの口調だったが、レイゾンはまだ帰りたくなかった。この小屋にまだいたかった。ラプレスと話がしたかった。そのための言い訳を探すためにレイゾンは部屋を見渡した。目のつくものは特にない物のない部屋だったが、唯一目についたのは時を小さく刻む砂時計。よく見れば砂粒は銀色をしていてキラキラ光っていた。

「レイゾン?どうしたの帰るよ」

 訝し気な声にレイゾンは振り返る。

「あ、うん。不思議な砂だなと思って」

 今更のように気付く。さっきからそれなりの時間が経っているのに砂時計の砂粒はちっとも減ったように見えない。レイゾンの掌に乗ってしまうほどの小さな砂時計なのに。

「ああ、この砂時計のことかい」

「うん」

 レイゾンは小さく頷く。

「綺麗な砂だね」

「ふふふ、この砂はね月光の粒なんだよ」

 含み笑いをしながらラプレスは言う。

「月光?」

「そう、月光。月の光。夜空から降ってきた月光の雫を乾かして小瓶に集めたんだ。満月の時じゃないと降って来ないから、ここまで集めるのには時間がかかったよ」

 何処か得意げにラプレスは言った。

「これも魔術なの?」

「うん、魔術の一種さ」

 レイゾンは砂時計に近づいてまじまじと見つめる。砂粒は銀の光を瞬かせながら、さらさらと上から下へと流れ落ちていく。けれども砂粒はいっこうに減っていく様子がない。

「全然減らないんだね」

「減ってはいるんだよ。ただとても時間がかかっているだけ。時が来れば砂は全部落ちるよ」

「時が来れば?」

 抽象的な物言いにレイゾンは首を傾ける。

「そのままの意味だよ。時が来て、月が満ちる時。砂は全て落ちる」

「砂が全部落ちたら、どうなるの?」

 ラプレスは返事をしなかった。ただ曖昧に笑っただけ。彼は黙ってカンテラに火を灯した。

「さあ、レイゾン。今度こそ送るよ」

 レイゾンはそれ以上何も言えずに項垂れた。


 暗い夜道に星々の明かりが空を灯していた。レイゾンはラプレスの半歩後ろを歩きながらとぼとぼと付いて行く。そして恐る恐るラプレスに訊ねる。

「ラプレスは、その、あの……どうして魔術師に?」

 レイゾンは魔術師といった存在がどんなものかよくわかっていなかった。妹を救ってくれた凄い人という漠然としたイメージしかなかった。レイゾンはラプレスを優しい人だと思っている。そんな彼が妻子を捨ててまでなりたかった魔術師とはどんなものなのだろうか。ラプレスから直ぐには返事はなかった。少し考えているようだった。カンテラの明かりが不安定に揺れる。

「……知りたかったから」

「知りたかった?」

 一体何を彼は知りたかったというのだろう。

「ねえ、レイゾン。人は生きている間にどれだけのことを知りえるだろうか?」

 ラプレスはレイゾンの目を見ていたが、どこか世界の果てをみるかのようで、レイゾンを映していなかった。

「それは砂漠の砂の一掴み。いや、一粒にさえ満たないかもしれない」

 レイゾンに語るというよりも、まるで自分に言い聞かせているようだった。

「それでも知りたかった。少しでも多くの砂粒を得ようとして」

 片手を広げラプレスは静かに語り続ける。彼の細く長い指の隙間から零れ落ちる砂粒が見えたような気がした。

「そのために旅に出て、その結果……妻子を捨てることになってしまった」

 ラプレスは自嘲気味に笑った。夜の帳の中、彼の乾いた笑いが響く。

「魔術師というのは、そういう人でなしだ」

 自分を卑下するラプレスの言葉にレイゾンは許せなくて声を上げて反論した。

「でも!ラプレスは僕の妹を助けてくれたじゃないか!村の人たちだってたくさん助けてくれた!」

 ラプレスが旅に出て、その結果妻子を捨てることになったとしても、その事実は変わらない。

「……うん、ありがとう、レイゾン」

 悲し気に俯きながら微笑んだラプレスの横顔はカンテラに明かりで橙色に染まっている。レイゾンは痛む胸を抑えることしか出来ない。

「お母さんと仲直りするんだよ」

 諭すようにラプレスは言う。

「レイゾンと君の妹を女で一人で育てているんだ。それはとても大変なことだと思う。感謝しなくちゃいけないよ」

 ラプレスは月の出ていない星の瞬く夜空を見上げなら言った。

「奥さんと子供のことが心配?」

 レイゾンはラプレスに問いかけたが、彼は首を振った。

「心配する資格なんて自分にはないよ」

 ラプレスは優しい人だとレイゾンは信じている。愛していたのだろうと思う。妻と子供を。それでも少しでも多くの砂粒を得るために捨てたという。どれだけの砂粒をその手にえたら彼は満足するのだろうか。満足なんてしないのだろうな。レイゾンはふと思った、この人はどんなに多くの砂粒を得てもきっと満足しない。両手で抱えきれなくなるほどの砂粒を得てもきっと。



 季節は廻り、ラプレスが来てから半年の月日が流れていた。砂時計の砂粒はラプレスの言う通り徐々に徐々に少なっていった。それを確認する度にどうしようもない不安に駆られていく。レイゾンは母に叱られても村人から白い目で見られてもラプレスに元に通い続けた。どうしても彼を一人にしておけなかったのだ。ラプレスもまたそれを咎めることはなかったし、何よりも彼は物知りだった。レイゾンは村の子供たちと遊ぶよりもラプレスから色々ものを教わることの方が楽しくて仕方がなかったのだ。

 そしてあの日の夜のように星が瞬く中、レイゾンは夜空の下でラプレスの話に耳を傾けていた。

「見てご覧、あの山の頂の大きな星を」

 そう言ってラプレスは指を一際大きく輝く星に向かって指を向ける。

「あの星は一年中動かない。だから旅人はあの星を導に旅をする」

 旅という言葉にレイゾンはどきりとする。ラプレスは旅に出たと言った。今も旅の途中なのだろうか。ラプレスはまた旅をしたいと思っているのだろうか。砂粒を得るために。彼はここを離れて行ってしまうのだろうか。不安になった胸をレイゾンは抑える。黙ってしまった彼を不審に思ったのだろう。ラプレスは顔を覗き込んできた。

「どうしたの?レイゾン」

 レイゾンは胸を押さえながら、口を開いた。

「あの、ラプレス」

「うん?」

「僕、やっぱり魔術師になりたい。弟子にしてよ」

 以前も口にした望みをまた伝える。そうしたらきっとラプレスは何処にも行かないで此処にいてくれるんじゃないだろうか。そんな幼い考えだった。彼は驚いたように目を見開いた。

「ラプレスみたいに魔術師になってたくさんの人を助けたい」

 だがラプレスはかぶりを振った。

「駄目だよ。前も言ったろう、魔術師なんてただの人でなしだと」

「でも……」

「人を助けたいなら薬師にでもなればいい」

 ラプレスの言葉は素っ気ないを通り越して冷たいとも言えるものだった。そんな彼の声音を聞いたいことなどなかった。

「魔術師というのはね人を助ける存在じゃない。薬草の知識は旅をするのに都合がよかったから学んだだけのことだ。魔術師というのはただ己が好奇心を満たすための自分勝手な存在なんだ」

 まるで吐き捨てるかのように言う。

「そのために。レイゾンは捨てられるの?家族を」

 レイゾンは口籠るしかなかった。脳裏に過ったのは母とまだ一歳に満たない妹の姿。その二人を捨てるという重い決断は下せそうになかった。

「それでいいんだよ」

 優しくラプレスは微笑む。しかしその笑みは酷く寂し気に見えた。ほんの少しだとしてもラプレスもレイゾンと一緒にいたいと思ってくれているのだろうか。それならばせめてと、レイゾンは願う。

「明日はさ、星の読み方を教えて欲しいな」

 せめて約束が欲しかった。何でもいいから約束が。明日もここにいるよという約束が。けれど ラプレスはゆるく首を振った。

「ごめん、ラプレス。明日は駄目なんだ」

「どうして!?」

「明日は満月だから」

 レイゾンの問いにラプレスは簡潔に答える。

「だから、星は見えない。ごめんね、レイゾン」

 星が見えない、そう言われてはレイゾンには返す言葉がない。

「さあ、もう今日は遅い。帰りなさい」

「うん、でも、あの」

 未練がましく他に何か約束を取り付けられないかと、レイゾンはもごもごと口を動かしながら考える。そんなレイゾンの様子にラプレスは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

「そうそう言い忘れていたんだけど」

「なに?」

 ラプレスは急に真面目な顔つきで指を立てて言った。

「満月の夜には時たま、あの世への扉が開くんだよ」

「は?」

 一瞬ラプレスが何を言っているのかわからなかった。

「だから満月の夜に軽々しく外に出てはいけないよ」

「え……」

「あの世から這い出た亡者はレイゾンみたいな可愛い子を食べてしまうからね」

 思わず脳裏に黒々と蠢くお化けを想像してしまい、両手でシャツを握り締めた。そんなレイゾンの様子にラプレスはくすりと笑う。

「本気にした?」

 お道化た様子のラプレスにからかわれたと気付いて、思わずレイゾンは拳を振り上げた。

「おっと、危ない」

 ひらりとそれを躱してみせる。

「ラプレス!逃げるな」

「悪い、悪い」

 あはははとラプレスは腹を抱えるようにして、ひとしきり笑った。目尻に溜まった涙を拭う。

「まあ、冗談はこのくらいにして。お休みレイゾン」

 ラプレスがお休みというのは、つまり今日はここまでということだ。釈然としないものを抱えながらもレイゾンは頷くしかない。結局明日の約束を取り付けることは出来なかった。山の頂からは旅人を導くという白く燃える星が変わらずに輝いている。この星がなければラプレスはもう旅には行かないだろうかと、どうしようもなく馬鹿なことまで考えた。



 蝋燭の火が朧げに揺れている。そしてふっと掻き消えた。

 窓から差し込む月光から逃げ隠れるように。

 さらさらと砂は流れる。

 最後の一粒までもう僅か。

 ラプレスは月の光しかない部屋の中でただ月を見上げていた。

 そして月を腕に抱き込むように両手を広げる。

「月は満ちる、時は来たれり」

 ふいにラプレスの脳裏に一人の少年姿が過る。

『どうしてラプレスは魔術師に……?』

 ラプレスは両手で顔を覆った。

(私はまた同じことをしようとしている……それでも)



 私は知るために行かねばならない。



 音もないのに目が覚めた。ぼんやりと薄目を開けるとやたらと部屋が明るい。一瞬夜明けが来たのかと思うほどだった。けれどその割には静まり返っていて鳥の鳴き声一つしない。レイゾンは目を擦って体を起こした。目に映ったのは白銀の見事な満月。あまりの眩しさに思わず目を細める。部屋が明るかったのはこの満月のせいだと理解する。そしてそれを理解した途端、レイゾンはベッドから飛び降りた。とてつもなく嫌な予感がしたのだ。

『満月の夜には時たま、あの世への扉が開くんだよ』

 昨夜のラプレスの言葉が蘇る。あの世の扉なんて与太話なんか信じてはいない。信じてはいないけど。逸る心を抑えてパジャマのままで靴を履いた。がたつく窓を開けて外に飛び出す。

 そして月へと向かって駆け出した。その方向にはラプレスの小屋がある。


 ラプレスの姿を見た瞬間、その異常な光景に驚愕するよりも先に彼の名を叫んでいた。

「ラプレス!」

 ラプレスはびくりと肩を震わせ、振り向いた。その表情は驚きと痛みに彩られている。長い外套を纏ったその姿で、旅に出るのだとわかった。

 ラプレスは月へと向かって歩いていた。硝子で出来たような階段を一歩一歩踏みしめ登っていた。その階段は螺旋を描きながら月へと続いていた。ラプレスが上るたびに階段は消えていく。闇夜に浮かぶ硝子細工の階段は月光を反射し銀箔に輝いている。

「ラプレス!何処に行くの!?」

 ラプレスは行こうとしている。二度と帰らぬ旅路に。もはや止める術はないのだと心の何処かで思っていても、呼び止めずにはいられなかった。

「僕も連れて行って!」

 止める術がないのならせめて。

「星の読み方だって教わってないよ!」

 どんなに強引でも約束を取り交わせばよかったと悔やむ。ラプレスが約束を違えたことはないのだから。

「ラプレス!」

 ラプレスは苦しそうに顔を歪ませる。それも一瞬。彼は再び月へと向かって歩き出す。

「ラプレス!」

 レイゾンは喉が張り裂けんばかりに彼の名を叫んだ。だがラプレスは振り返らない。無情にも硝子の螺旋階段を上っていく。追いかけようと一歩踏み出すが、もはやそこに階段はもはや存在しない。追うことの出来な自分はただ彼の名を呼ぶことだけ。幾度も幾度もレイゾンはラプレスの名を呼んだ。それこそ喉が掠れるまで、血が出るまで。呼び続けた。彼の姿が月の中に吸い込まれ消えていくまで。



 ラプレスは最後まで振り返ることはなかった。



「これが僕が旅に出た理由ですよ」

 寂れた町の裏通りの片隅で、青年は言った。空は曇天模様で一雨来るかもしれない。

「信じがたい話だねえ。月へと向かう階段だって?」

 青年の隣で座り込み煙管を吸う初老の男はふうんと面白そうに目元に皺を柔らかく寄せた。

「ええ、もう十年になります」

 青年、レイゾンは懐かし気に目を細める。そうだ、もう十年にもなるのだ。それでもまだ彼の人は見つからない。

「あの人に会いたくて。あの人のように世界を知りたくて」

 レイゾンは小さな砂時計を手の中で弄んだ。小屋の中に残され砂時計。不思議なことにあの銀の砂は一粒残さず消えていた。

「世界ねえ」

 男はふうっと煙を口から吐き出した。二人の横をガラガラと荷馬車が駆けて行く。土埃で視界が白く染まり、レイゾンは外套を口元まで引き上げた。

「あの人は世界の全てを知るために旅に出てしまった」

「月に向かって?」

 男は意地悪気に笑うが、レイゾンは気にした風もない。

「ええ。月の向こう側に行ったのだと思います。そこにはきっと森羅万象、あらゆるものの真実が在るのでないかと……」

 男はコンと煙管で石畳を叩いた。

「それは大層な話だねえ。お前さんも、その月の向こう側とやらに行ってあらゆる真実を知りたいのかい」

 男は声を立てて笑う。

「ええ、知りたい。一掴み、一つまみの砂粒じゃ満足出来やしません」

 レイゾンは淀みなくはっきりと答えた。

「僕は知りたい。ただその為にだけに、老いた母と幼い妹を捨てたのです」

 レイゾンの薄い唇が酷薄そうに歪んだ笑みを形作る。だがその目には迷いがなかった。

「あの頃の僕にはその決断が出来なかった」

 何もかも捨て去る決意を持つにはあまりにも幼かった。レイゾンの手から空っぽの砂時計が落ちて石畳に転がる。

「僕はついに人でなしになることができました。あの人のように」

 何処かそれは嬉し気な口調で。

「あの人の背中に向かって、一歩踏み出した瞬間に」

 レイゾンは満足げに目を細める。瞼の裏に浮かぶのはあの夜の銀の月。



「そう、僕は魔術師の弟子となったのです」



















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魔術師の弟子 UMI(うみ) @umilovetyatya

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