第18話 また春が

 根雪がすっかりとけてしまった三月半ば、五十年史がとうとう出来上がった。総務課の倉庫の中に、たくさんの段ボールが積み上げられ、俺はその中から見本誌として印刷所から言頂いた一冊を取り出し、かたいページをめくってみる。



 満足感とともに、この仕事が手を離れる寂しさがあり、それは心の中の、もうひとつの大きな寂しさとつながっている。



 一緒に仕事をしてきた島村に、異動の内示が出て、彼女は総務課を三月末で去ることになった。移動先は、短大から少し離れた場所にある、本部の総合大学の経理課のほうだった。



 異動報告のメールが、俺のところにも回って来たとき、思いがけないほどの、寂しい、という気持ちに襲われた。



 俺が風邪を引いた日、みかんやゼリーを届けてくれて、家の中で少し話をしたが、あのあと、島村からは、とくにリアクションはなく、すがすがしいほどに、俺にも職場で、普通の接し方をしてくれていた。



 俺の「もっといい人を見つけられると思う」という言葉を、真正直に、真正面から受け取ってのことだろう。



 俺は見本誌を段ボールの中に戻し、倉庫の電気を消すと、そのまま廊下を歩いて、課のほうへ戻ろうとした。



 と、角を曲がってきた人とぶつかりそうになって「すみませ」と言ったところで気が付いた。島村、だった。


「矢知さん」


 俺を見上げた島村に、俺は咳払いをひとつすると言った。


「島村、新しい場所でも、がんばってな。五十年史、一緒にやれてよかった。たくさん助けてもらった。ありがとう」


 島村は、そっとうつむいた後、顔を上げ、やわらかく笑った。桜の花が咲いたみたいな笑顔で。


「――私こそ、矢知さんと一緒にお仕事できてよかったです。たくさん、こちらこそ教えてもらえました。矢知さんも、またお仕事がんばってください」



 お互いに、深々と、礼をした。一瞬だけ、次の約束をするなら今だ、と思ったが、どうしても口に出せなかった。


 二人でどこかに出かけよう、一緒に桜が咲いたら見に行こう。花火大会だって、秋の紅葉だって、冬の温泉だって、いくらでも、一緒に行こうと思えばできるのに、俺の心の中には、光希がまだ、膝を抱えて途方に暮れている気がして、その言葉は言えなかった。


「お元気で」


 島村が、そう言って、俺にすっと手を差し出した。迷いのない、ふっきれたようなそのしぐさに、俺も迷わず、その細い手を握った。春まだ浅いいまだから、とてもつめたい指先と手のひらだった。


 握手が終わると、島村は、さっとお辞儀をして、走り去っていった。たぶんだけど、泣きそうになったのを、見られないためじゃないかと思った。そういう俺自身こそ、不意に涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえていた。


 ありがとう、何も言えない代わりに、遠ざかっていく背中に向かって、そうつぶやいていた。


 廊下の大きなガラス窓から、きらきらと早春のひざしが入ってきて、俺はまぶしさに目を細めた。今年度が終わり、また来年度が始まる。どこにも行けないまま、何も動けないまま、また春がめぐってくるのだ。

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