第17話 見つけてくれた
日の出湯の二階で、あたたかいストーブの火がちらちらと燃える中、俺は茉奈と向かい合っている。茉奈にこれから話すのは、俺の過去だ。
「――俺は、恋人だった人を、あの海で亡くした。堤防から夜中、二月の海に飛び込んだんだ。誰も飛び込んだのを見た人はいなくて、事故も疑われたんだけど、部屋に俺宛ての遺書があった。そこには『順ちゃんごめんね、ずっと順ちゃんの幸せを祈っています』としか書かれていなかった」
組んだ手の甲に額をつけ、少しうつむいて俺は茉奈に語り掛ける。目を合わせて語れたらいいのだろうが、言葉にするだけでも、辛い思いが蘇り、とつとつとしか話せない。
「自分がいなくなって、残った人が、幸せになれるだろうか。――俺は、なれないと思った。自分の経験から。俺の幸せは、光希が生き続けてくれることだった。それ以外に、本当になかったんだ。ぜんぜん、生きることを上手くやれなくても、どんなにかっこ悪くても、あがいてあがいて、俺と一緒に生きていてほしかったんだ」
茉奈がうなずく。
「あの海で、君が倒れているのを見たとき、本当に光希に重なって見えたんだ。今度こそ助けろと、神様か誰かに言われている気がしたんだ。もちろん、俺の妄想に過ぎないんだけど。だから、本当に、君には、生きて欲しい。俺だけじゃなく、文乃だけでもなく、本当にそう思ってる。たぶん、君がこの先出会うだろう、大切な人も、そう思うに違いないから」
茉奈の目のふちが赤い。泣いているのかもしれない。
「――私、お兄さんにまだ言ってないことがある」
「なに?」
茉奈はうつむいて涙を手の甲でぬぐうと、語りだした。
「私、父にも、母にも、抱きしめられた記憶がないの。父も、母も、口調では、私のためを思ってだとか、そういうもっともらしいことをたくさん言うけど、小さい頃から、甘えることがちゃんとできた記憶がない。だから、いつも、寒くて。心が。
食べるものは出て来るし、寝るところだってちゃんとあるし、でも、どうしてこんなにいつも寂しいんだろうって、ずっと苦しく思ってた。――だから、お兄さんが、最初に私をあの海で見つけてくれたとき、待ってたものが来た、って気がした。ずっと、ずっと、誰かに助けてほしかった。
そんな贅沢、叶うわけないと思ってたのに、お兄さんは、私を二回も見つけてくれた。私、はじめて、あたたかいってこういうことなんだって、分かった気がするんだよ」
言葉の終わりごろは、嗚咽しながら茉奈は語った。俺は、その言葉を心の芯で受け止めて、ゆっくりと口を開く。
「――俺はそんなだいそれた存在じゃない。ヒーローでもない。神様でもない。だけど、きっと、茉奈が本当にこれから幸せになるために、茉奈と俺の人生が、ひとたび交差したんだと思う。
俺は、茉奈にとって、ちょっと出会って、通りすぎるだけの人間で、この先をずっと支えられるわけじゃない。だけど、茉奈が向かっている方向を、それが死だとしたら、ちょっとその方向をいじって、生のほうへ向かわせる、そんな存在なんだと思う、俺自身は」
泣きぬれた顔をあげた茉奈に向かって、俺はしっかりと口にする。
「茉奈が死なないように、きっと神様が俺を茉奈に出会わせたんだと思うよ」
「そうだね」
ふっと茉奈の表情がゆるみ、少しだけ笑顔が戻る。
「それから思っていたことだけれど」
俺は言葉を継ぐ。
「お父さんとお母さんが、勧めている大学受験、それを利用して、一度家から出てしまえばいいと思うんだ。遠くの大学へ行って、うまく就職活動ができれば、親から自立ができる。お父さんやお母さんが、なかなか来られないような場所で、新しく人生を始めることだってできる。受験は辛いかもしれないが、家を出ることを目標に、がんばってみたらいいと思う」
茉奈は真剣な顔で、こくりとうなずく。
階段を上る音が聞こえて、文乃が俺たちに、熱いお茶と月餅を運んできてくれた。
「あたしもそれがいいと思うよ。茉奈ちゃん、順はね、こう見えて、大学職員として働いているし、なかなか頭はいい男なんだ。勉強の相談や、志望校の相談にも、乗ってくれると思うよ。親御さんから、無事自立できれば、きっといいことも待っていると思うよ」
「――ありがとう」
茉奈はぽつりと言って、文乃が置いた月餅の皿にそっと手を伸ばした。
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