第16話 帰ろう
風邪がようやく本当に治ったので、俺は久しぶりに、二月の中旬過ぎに日の出湯に顔を出した。道が凍りつくほどの、底冷えのする寒い日だった。まあ、この地域のこの時期は、例年そうなのだが。
番台には文乃が座っていた。きょろきょろと茉奈を探したが、いなかった。今日は日曜日なのに、と思っていると、文乃が俺に気が付いて、声をかけてくる。
「順! 久しぶりじゃない。もう、あんたが来ないうちに、茉奈ちゃんも来なくなっちゃったじゃないか」
「え、来ていないのか? 日の出湯に?」
驚くと、文乃は心配そうな表情をする。
「そう、年末はクリスマスケーキをみんなで食べた後、一度来たのに、年明けからまったく来なくなっちゃってね。もう一月半になるよ。かといって、携帯の番号を知ってるわけでもないし、自宅も知らないから、ちょっと気がかりでね。何事もなかったら、いいんだけど」
「そうだな」
文乃の懸念がどうも当たるような気がして、俺も心配になった。若い女の子の気まぐれで、ここに来ることにただ飽きたのだったら、問題ないのだが、もし、家でなにかあったのだとして、それを俺や文乃にも上手く伝えられない理由が何かあるのだとしたら。
ふっと、予感がして、俺は文乃に言った。
「俺、ちょっと、海の方見て来るわ」
「海、ってまさか」
「いてもいなくても見てきたらすぐに連絡するから」
俺は雪混じりの北風が吹きつける外に飛び出すと、車のエンジンを入れ、海のほうへと向かった。ハンドルを握りしめる手に、思いがけなく力がこもり、自分が焦っているのに気付く。
(落ち着け……、落ち着け)
浜辺に着くと、俺は積雪に足をとられながら、転がるようにして波打ち際を目指した。海も、浜も、どこかしこも真っ白で、目が痛くなるほどだ。
茉奈の名前を叫んでみた。一度、二度……三度。答えてくれる保証はない、そもそもこの海にいる保証もない。でも、俺は、茉奈が俺に対して何かSOS信号を出すとしたら、この海だと思った。
俺が、最初に茉奈を見つけた、この海だと思ったのだ。
そのとき、ふっと視界のすみに、何かが横切った気がした。遠くの波打ち際に、一人、誰か立っている。俺は、必死で走った。名前を呼んだ。
点に見えた人影が、だんだん大きくなる。判別がつく。茉奈に、間違いない。
茉奈は、遠くの水平線をぼうっと見つめながら、コートも着ずにセーターと厚手のスカート姿でそこにいた。俺を見定めると、みるみる眉がへの字に下がり、目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「お兄さん」
「茉奈」
茉奈は膝を折ると、その場にくずおれた。絞り出すような声が続いた。
「消えたいのに、消えられなくて。ほんとうに、なんど消えてしまおうかと思ったの。でも、ここで待ってたら、お兄さんがまた見つけてくれるような気がして……」
茉奈の小さな肩を、俺は両手でそっと支える。
「良かった、ちゃんと生きてて。――死んでなくて。本当に、良かった。さあ、文乃のところに帰ろう」
「先週も、先々週も、その前も、ここで待ってたの。でも、今日やっと来た」
「うん。早く来れなくてごめんな」
「来たから、いいよ」
そうして俺は、茉奈と、冬の海辺でしばらくのあいだ立ち尽くしていた。
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