第3話 日の出湯

 日の出湯に着くと、文乃と文乃の夫である孝太郎が出迎えてくれた。小学生の頃から知っている幼馴染の文乃は、恰幅の良さに加えて、ちゃきちゃきとした接客で、日の出湯の番台に座り、孝太郎という婿を迎えて、きっちりこの銭湯の跡取り娘として、役割を果たしている。

 

 小さい頃から、俺は文乃に何かと助けてもらうことが多い。文乃の福々しい顔つきは、たぶん誰もを安心させる。


 俺の後ろに隠れるようにして、銭湯に入って来た茉奈を見て、文乃は言った。


「ちょっと、順! この子どうしたの? まだ高校生じゃない」


「海で行き倒れてたところを拾った。ラーメン食わせたけど、まだ体冷えてるだろうから、連れて来た。悪いけど、着替えとかあったら、この子に貸してやってくんねえ?」


「行き倒れてたのを拾った、って、動物じゃないんだから、女の子だよ? あんたも昔っから、捨て犬や捨て猫ばかり拾うくせがあるけど、まったくもう。瑞樹の服でよければあるけど、それでいい?」


 瑞樹とは、文乃の大学生の妹で、今は県外の大学に行っているはずだ。


「おう、じゅうぶん。さ、茉奈さんだっけか、とりあえず風呂入って、あったかくしてから、これからどうするか、聞くから」


「なんで、そんなに、私なんかに……」


 かまうの、と言いたかったのだろうが、声は小さくなって消えた。文乃がバスタオルと着替えを渡すと、彼女はぺこりとお辞儀をして、女湯ののれんの中に消えた。


 彼女が脱衣所に入ったのを見計らって、文乃が俺にひそひそと言った。


「なーんか、わけありっぽいよね」


「だろ? あの子、冬の海辺に倒れて、凍死をもくろんでたらしい。まあ、さすがに海に飛び込んでなくてまだよかったけど、さ……って、なんだよ」


 文乃はじーっと俺を見つめると、ずばっと言ってきた。


「順、あんた、光希さんのことを思い出したんでしょう」

「べ、べつに」


「そりゃあ、思い出したっていいけど、ていうか、光希さんと順は恋人だったんだから、忘れる必要もないんだけど、さ。あんたがいつまでも次のいい人を見付けて、身を固めないでいて、あれから6年経っても、こんな風に、思い出をえぐるようにして、死にたがってる子を拾ってきたりするから、あたしは心配だよ」


「へっ」


 鼻から息を吐いたら、変な声が出た。わかっている。わかっちゃいるが。


 俺の恋人だった光希が、2月の海に飛び込んで死んだとき、俺は、自分を責めるとともに、やっぱりこうなってしまったか、と、自分が彼女の心の傷に対して何もできなかったことを思い知らされた。


 海岸掃除は、十五歳のときから続けていた俺のルーティンワークだったが、光希があの海で死んでからは、いつも、俺なりの追悼を捧げる気持ちで、清掃をしている。


 光希も、生まれ育った家庭に問題を抱えていて、手首にはリストカットの傷が、そこいらじゅうに走っていた。俺より、5つも年上のくせして、甘えたがりで泣き虫の光希を、結局俺は、救ってやることができなかった。


 光希を、光希がおぼれている泥の中から、助けてあげたいのは真実の思いだった。でも、届かないことがあることを、俺は思い知り、もうこんな思いは二度とごめんだと思っていたのに。


 光希を見送った海で、また死にたがっている女に出会うとは、神様はいったい俺の人生に何を仕組もうとしているのだろう。


「俺も、ひとっ風呂浴びるわ。体冷えたし」


 俺は、男湯ののれんをくぐり、服を脱ぐと、浴場へのガラス戸を開けて、かけ湯をし、広い湯船に体を沈めた。


 体に、湯そのものが染みわたって行く気がした。俺が上がる頃と、茉奈が女湯から出るのは、どちらが先だろうか。飲みもののひとつくらい、買ってやるかと思いながら、俺はざぶんと音を立て、肩まで湯のなかに沈み込んだ。

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