第4話 朝が来る
俺が脱衣所から銭湯の入口付近へ戻ると、茉奈はもう湯から上がっていて、バスタオルを肩にかけ、あたたかそうな恰好をしていた。そうして、俺と、文乃を見て、ぺこりと頭を下げた。
「――お兄さん、お姉さん。ご飯とお風呂、ありがとうございました。お湯に浸かっていたら、だいぶ落ち着いてきたの。私、大人しくこれから家に帰ります」
不意を突かれて、俺は黙った。文乃も心配そうに言う。
「茉奈ちゃん、あなた、本当に大丈夫なの? さっきおうちに居場所がないって、順に言っていたんでしょう」
茉奈の黒々とした目が光る。
「お兄さんたちにできることは、あとは私を警察に連れて行くことくらいでしょう。私、今までも何回か、保護されて警察に連れていかれたことがあった。あのとき、すごく怖くて嫌だったの。私、ちゃんと帰る……ちゃんと帰れます。服は、必ず返しにくるから、このまま貸してください」
「いいけど」
茉奈の有無を言わさない口調に、俺も文乃も黙るしかなかった。しょうがないので、少ししかめっ面をして言った。
「もう、海で転がってちゃ駄目だぞ」
「わかってる。――ありがとう」
茉奈はそう言うと、ぺこりとお辞儀をして、文乃にバスタオルを返すと、銭湯の引き戸をガラガラピシャンと閉めて出ていった。口先だけの約束だとは思ったが、これ以上深入りしてもしょうがない。今日、俺は、誰とも出会わなかった。誰のことも思い出さなかった。そう思って、また明日からの仕事の日々を、乗り切ろうと思うことしかできなかった。
その日の晩、光希の夢を見た。少し俺の行く前を、ふざけながら振り返りながら、スキップで歩く光希は、とても楽しそうで、満面の笑顔だった。光希が幸せそうに笑っている姿を、見ることはあまりないことだったから、俺も嬉しく思った。
光希の茶色いショートカットの髪が、さらさらと陽の光に透け――そして、髪の先、笑った横顔、首筋に光る俺のあげたネックレスのチャーム……がひとつずつ、風にさらわれる砂のように透明になっていく。消えてしまう、俺のもとから、そう思って、
「光希さん!」
――大声を出したところで目が覚めた。
うっすらとかいた汗とともに飛び起きて、俺は両手で顔を覆った。
「――あれから六年も経ってるんだぞ……」
自分がいまでも、光希が遺した思い出に囚われていることは、承知していた。恋人を、死という結果で喪ったという事実は、真正面から受け止めるにはあまりにも酷で、仕事をしているときは忙しさで忘れていられるし、海の清掃をしているときだけは、比較的穏やかな気持ちでいられるけれども、不意に背後から現れるおばけのように俺を責めさいなむ。
気付くと、窓の外はしらじらと明け始めていた。冬の遅い夜明けに、もう寝直す時間はなかった。茉奈には、この先もずっと生きていてほしい、と切に思ったが、自分ができることなど、結局ないに等しいのだった。
寝床から起き上がり、熱いコーヒーを淹れると、俺はちびちびと飲み始めた。
――今日も、朝が来る。
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