第二章

第9話 竜は友を呼ぶ

 夕闇がせまる頃、アレンは焼きあがったばかりのパンをのせた皿を手に館の外へ出た。地にうずくまる巨大な影が、アレンに気づいて首をもたげる。ドラゴンの姿にもどったデイジーだった。


 その腹に背をあずけて両足を投げだしている男が一人。男の口から白い煙の輪が立ちのぼり、夕暮れの空にとけていった。


「食うか?」


 パイプをふかしていたシグルトに、アレンは皿をさしだした。乾酪チーズと塩漬け肉の薄切りまでそえた、アレンにとってはけっこうなご馳走であるそれを、シグルトは礼も言わずに受けとった。


「ギイ坊はどうしてる」


 わかんね、とアレンは答え、デイジーが「こちらへどうぞ」とばかりに翼をどかしてくれた場所にシグルトと並んで座った。背中に感じる生き物の熱と鼓動が心地よい。


「部屋に閉じこもったきり出てこないんだ。あんた、ちっとばかしやりすぎたんじゃねえの」

「よく言うぜ。おまえもけしかけたくせに」

「それはそうなんだけどさ……」


 だけど、あの見事な白髪白髯を黒こげのちりっちりにされたうえ、頭頂部だけ綺麗に燃やしつくされた賢者の姿は――


「……ぶっ、くくくくく」


 思い出すと、同情より先に笑いがこみあげてきてしまう。デイジーの翼に顔をおしつけて笑いころげるアレンをあきれたような目で見やって、シグルトはパンをかじった。


「……美味うまい」

「だろ?」


 アレンは得意満面の笑みを浮かべた。この中年男、いろいろと性格に問題はあるが、美味いものを素直に美味いと言うところは大変よろしい。


「おれが焼いたんだから」


 自慢ではないが、昨年のアルスダイン王国春のパン職人祭りで新人賞を獲得したアレンである。材料を勝手に頂戴したお詫びとお礼をかねて、ギルロイの部屋の前にも皿をおいてきた。焼きたてのうちに食べてくれるといいのだが。


「……前々から思ってたんだが、おまえ本当に王子か」

「あーそれ、おれもたまに自信なくなるわ」


 アレンが夕食の皿と一緒に持ってきた葡萄酒の瓶から紅玉ルビー色の芳醇な液体を杯にそそいでいると、横からのびてきた手に瓶ごとかっさらわれた。全部飲むなよ、とアレンはいちおう釘をさしたが、葡萄酒の帰還が絶望的であることはわかっていた。


「おまえ、これからどうするんだ」

「どうすっかなあ……」


 葡萄酒をなめながら、アレンは夕星ゆうづつまたたく群青の空を見上げた。


「……帰るかな」


 結局、それ以外に道はないのだ。故郷に帰れば待っているのは望まない結婚。だが、それもやむなしとアレンは腹をくくっていた。もろもろの怒りや悔しさ、やるせなさは、すべてパン生地にたたきつけた。おかげで気分はすっきり、パンはもっちりである。


「ふん、化け物と結婚する覚悟はできてるってか」

「それはさすがにあっちに失礼。ま、老い先短い婆さんの相手をするくらい、どうってことないかなって。それで財政難が解決するなら……」

「馬鹿か」


 その声があまりに乾いていたので、アレンはつい怒りそびれてしまった。


「なんでおまえがそこまでやってやる必要があるんだよ。王子ったって、どうせろくな暮らしもさせてもらえなかったんだろ? 国がどうなろうと気にせず好きに生きりゃあいいのに、なに格好つけてんだか……」


 そこでシグルトは言葉を切り、己の顔をまじまじと見つめているアレンをにらみつけた。


「なんだよ、気持ち悪いな」

「いや……」


 アレンは目をしばたたいた。正直、ひどく驚いていた。この男が、人生訓めいたものを垂れたことに。ものすごく遠回しで、もしかしたら勘違いなのかもしれないが、アレンの身のふり方を気にかけてくれたことに。


「おれはべつに……」


 アレンはなんとなしにデイジーの翼をなでた。ごわついていて硬い表皮だが、覆われていると毛布にくるまれているように暖かい。


「べつに、格好つけてるとかじゃなくてさ」


 自己犠牲に酔っているわけでもなく、


「……嫌なんだよなあ」

「なにが」

「人が、死ぬのが」


 ぼそりとアレンはつぶやいた。


「うちの国、貧乏なんだよ。そりゃもう半端なく。ちょっとでも気候が荒れて不作になったり、病気が流行ったりなんかすると、ばたばた人が死んでさあ」


 飢饉と流行病はやりやまい。ひとつでも充分恐ろしい災厄が手を組んでアルスダインに襲いかかったのは、アレンが五歳の年の冬だった。


「あの時はひどかったらしいぜ。おれ、まだ子どもだったからよくわかんなかったけどさ、それでも毎日ちょっとずつまわりの人間が減っていくのは怖かったな」


 まるで世界に真っ黒な大穴があき、それが意思をもって次々と人を呑みこんでいくかのようだった。


「おれの友達も大勢もっていかれてさ」


 いまでもよく覚えている。ぼろ布にくるまれた小さな亡骸と、それを囲んでうなだれる大人たちの横顔を。涙さえ涸れ果てたといったその顔は、朽ちた木のうろにも似ていた。


「不治の病なんてものじゃなかった。ちゃんと食うもの食って、あったかくしてれば治るやつだったんだ。けど、うちの国じゃだめだったんだよなあ」


 その年の冬はことのほか厳しく、国中が寒さと飢えに苦しんだ。国倉をすっかりからにしても食糧は民に行きわたるには足りず、口減らしのために老人は自ら雪山に入った。


 友人が亡くなった日、その祖父の姿が見えないことを不思議に思ったアレンはまわりの大人たちに尋ねてみたが、誰も答えてくれなかった。誰も、探しにいこうとは言わなかった。


「嫌なんだよ」


 アレンはくりかえした。


「ああいうさ、右見ても左見ても、もう仕方ない、どうしようもないって顔ばっかり目に入ってくるのが。仕方なくなんかない。金さえあればいいんだ。だから、王子って肩書きだけでもありがたがって大枚はたいてくれる客がいるなら、せいぜい高く売りつけてやるさ。そうすれば、誰も死なない」


 あのときのような、救いようのない暗い顔を見なくてもすむ。


「そんだけ」


 少し、しゃべりすぎたかもしれない。照れかくしのように肩をすくめたアレンを、シグルトは感情の読みとれない薄い色の眼でひとなでした。


「やっぱり、おまえガキだな」

「はあっ?」


 アレンの声が裏返った。いまわりといい話をしていたつもりなのだが、やはりこの男、感受性というものがぶっ壊れているのではなかろうか。


 シグルトは瓶をかたむけて葡萄酒をひと口飲んだ。


「人はどうせ死ぬ。おまえが泣こうがわめこうが関係なく、な」

「それくらいわかってるって。おれが言いたいのはそういうことじゃなくてだな……」


 抗議しかけて、アレンはふと口をつぐんだ。


 そういえば、と思う。この魔術師の眠りは百年。その間、どれだけの人が生に別れを告げたのだろう。長寿を得たギルロイのほかに、この男に知己というものはどれほど残っているのだろう。


 そんな思いを言葉にしようとしたアレンだったが、口にするとなぜか身もふたもない台詞になってしまった。


「あんた、友達いる?」

「喧嘩売ってんのか、てめえ」


 あ、そうじゃなくて、と言いかけたところで、アレンはぎくりと身を強ばらせた。寄りかかっていたデイジーも、それに気づいて威嚇するように翼を広げる。


 西の空の彼方、残照を背に大きな鳥が三羽こちらへ向かってくる。いな、鳥にしては大きすぎる影は、すぐにその正体をあらわした。


 力強い翼、長い首と均衡をとるように左右にゆったりふれる太い尾。


「ドラゴン――!?」


 はじかれたように立ち上がったアレンの横で、シグルトはデイジーのつぶらな瞳に問いかけた。


「友達か?」


 さあどうでしょう、と言うようにデイジーは小さくいた。

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