第5話 小骨毀れて子凡脳故本能
第5章 コボネコボ、コボンノウコホンノウ
1
陣内は父親のことを陣内と呼んだ。
自分だって陣内だろうに。
「養子かなにかか」
「まあそんなとこじゃね?」
それ以上言わなかったので俺も聞かなかった。
ただ、俺が陣内のことを陣内と呼ぶと、陣内にとっての陣内は父親のことを指すわけだから、多少なりとも会話に混乱が生じた。そのため、俺は別の呼び方を思案する必要に迫られた。
「下の名前でいいぞ」
「なんだったか」
「知らねえの?なんで」
「なんでもなにも、知らないものは知らない」
「ひっでえ。俺あ知ってんのに」
知らないわけではない。知らないことにしたほうが都合がよかった。
「ほらよ」
学生証。
「で?」
「で、じゃない。書いてあんだろ。憶えろ」
陣内ちひろ。
「なんて読むんだ?」
「はあ?お前、字」
「読めるに決まってるだろ。そうじゃない。読み方が」
「まんまだよ。そう構えねえで正直に読んでみ」
ちひろ。
なのだが、実は。
知ってるのだ。これを本当は。
「根性捻じ曲がってんじゃねえの?」
「かもしれない」
奴はちひろということにしてあるが。
単に訂正が面倒なのだ。何度も間違えられてそのたび訂正し続けることに疲れた。そうゆう諦めの。
なんで聞いてしまったのか。忘れればよかった。
「いいや。別に困ってねえし」本当は陣内とは呼ばれたくない。顔に書いてある。
嫌悪。確執。詮索する権利もなにも。
「つーか、話しすんのお前くらいだし」
「探偵」
聞こえなかった。
聞き間違えた。みたいな顔で振り返る。
「探偵でどうだ。ぴったりだろ」
しばらくは返事をしてくれなかった。無視だったりわざとあさってのほうを向いたり。そのうち、ちひろと同じく諦めがついたようで。
「呼ばれる俺はいいとして、よかねえけどさ。恥ずかしかねえか」
「どの辺が」
「どの辺て。え、お前気づいてねえの?」
「気は小さいんだな」
「でっけえナリしてな。だっせえの」
探偵はよく、父親つまり陣内から捜査資料を借りて俺に見せてくれた。借りたというと語弊があるかもしれない。探偵は陣内直々に捜査協力を求められていた。資料は無理矢理手渡された、といったほうが正しい。
「俺使ってのし上がりやがったからさ。手放したくねえわけ」
陣内は探偵の言うことは何でも聞いた。欲しいというものは何でも与えた。探偵本人は何も欲しくないし何も求めていなかったのが、最高の皮肉だが。
「まさか、そのために」
養子に。
「さあ、どうだかな」
さすがに図書館で捜査資料を広げるのは躊躇われたので、構内で一番古い建物。来年取り壊す、いや来年こそは取り壊すといってかれこれ十年は経ってるとかいう。木造で、冬は凍えるほどに寒いが夏はひんやりとしてクーラ要らずの。
探偵はそこで、俺だけに推理を披露してくれた。
ミステリィで最も盛り上がるシーン。探偵は探偵だとして、俺は。
無能な刑事?平凡な関係者?それとも。
「下らねえ」
言ってる意味がわからなかった。捜査協力は名誉なことで。協力できているということは誇り以外の何物でも。
ないんじゃ。ないのか?
それが。
「正義だろ」
俺は、お前に。
見つけたと思って。
「今回で仕舞ぇだ。閉会だよ」
「どうして。俺に聞かせたくなかったなら」
何の関係もない一般人の俺に聞かせていることがケーサツ的に問題なのだろう。今までのほうが特別だった。なぜ見逃されていたのか。
解答。
探偵がそう望んだから。探偵が望まなくなれば。
「悪かった、いままで。でも誰にも言わない。それは約束で」
そうじゃねんだよ。探偵が吐き捨てる。
捜査資料が床に。
「なにするんだ。これは」
「んなのどうだっていんだよ。たかが紙だろ」
たかが紙だがされど。正義の手掛かり。
少なくとも俺はそう思っている。
そう言ったら、探偵は。
「俺んち来るか」
俺の家よりでかかった。巨大すぎる探偵の背丈に合わせているにしたって。
「空間の無駄使いだろ」
「忙しいんだな」陣内は常に不在。
「さあてな」
部屋で待てといわれた。移動中に立て続けにかかってくる電話を片っ端から切っていたから応対してくるのだろう。
でかいベッド。体長が2メートルもあれば特注になる。
やけ静かだ。時計がなかった。でかいベッドとでかいソファと。
本棚をざっと。
つい笑ってしまった。ほとんどミステリィだ。笑うしかない。
なんだ。満更でもないんじゃ。
探偵ってのも。
「なにニヤニヤしてんだよ」探偵が戻ってきた。
「好きなんだろ」
「バレたか」ち。と、舌打ち。
「バラすために誘った。違うか」
んだよとっくにバレてたか。と、息で笑って。
圧し掛かってきた。
押し倒すにしては強力に腕を。そういう意図なら床でなくたって。すぐそこにおあつらい向きの場所があるのだから。
なんだ。そうじゃ、なくて。
痛い。指を。
全体重が。脚と足に。
眼が。
おかしい。どうした。
赤い。舌だとわかるのに致命的なタイムラグ。
「俺は」
お前を。
バラシタクテショウガナイ。指を。
口を開けたタイミングで一気に。
入った。弱まる。
ひっくり返す。距離を。
呼吸を整える。
視界が狭い。メガネが。曲がったらしい。
ブリッジを押さえる。
駄目だ。落ちてくる。
「正気か」
前髪が眼にかかって。
「本気だっつったら」
指を口元に持っていって。どうするのかと。
赤い。
二度目のタイムラグ。摑んだ手が。
くすんだ包帯。
「これ、聞かなかったのお前が」
2人目。
「最初じゃないのか」
「さっき話した、あれ。動物園の。やけに詳しかったろ。俺が」
第一発見者。
「一番怪しいだろ」
「冗談も休み休み」
陣内が。
「到着する。それまで大人しく自宅待機だとよ」
鳴り続いた電話。そういう用件だった。
のだろうか。
指先までぐるぐるに。両手。
「見せてやるよ」
外す。くるくると。解く。
「なにが」
あるんだ。
「逆だ」
ねんだよ。
「なにが」
「まあ焦るなって。迎え来るまで時間潰すんだからよ」
動物園で変死体が発見された。全裸の女性。両腕と頸部を切断されており。両腕は。すべての指が切られており。付近を捜索するも頭部と十本の指は発見されず。
両腕は。それぞれ、
膣と肛門に植えてあった。
「お前がそれをする意図がわからない」
「そうしてくれってゆわれたもんでな」
被害者。
「誰に」
「旧い知り合い」
共犯者。
「おらよ。眼ん玉がん開いてよく数えろ。何本」
ある?
ない。左第3の。
「生まれつきなかったわけじゃねんだ。生まれたときはあったんじゃねえの?思い出せねえけど」喰われた。
そいつに。そうしてくれといった。
「切った十本も腹ん中かもな」
被害者の?
加害者の?
「死んだのか」
「そこまでやりゃ、フツー死ぬわな」
捜査資料を必死で思い出そうとしてる。解剖結果。
「無意味だって。殺った本人がここにいんだから」
「俺も」
そうするのか。
「して」
ほしいのか。
お前は。
「殺したくない」
突き飛ばされる。
背中が床に。眼球も天井に。
地響き。地鳴り。
上体を起こす。メガネのブリッジを。
視界に、
巨大な影。俺に。
正義はないあるだろお前の。
どこだ。
それは。脳じゃないなら。
最終試験の結果が出る前に探偵は、大学を自主退学した。何も言わずに。
2
指が動かない。
「動かしゃあいいだろ」
そういう意味じゃないよ。しばらく触ってないから。
「触りゃあいいわけか」
リハビリが要る。ピアノ買って。
「無茶言うな。どこにそんなスペース」
カネの心配じゃないとこが君らしいね。
「でっけえやつなんだろ。あの、蓋がぱこぱこ」
そんなピアノないよ。ピアノじゃないね。
んじゃなんだよ。
名前を呼ばれる。下の。
吃驚して指の指すほうを。
あっちゃあ。
聞かれた。
「知ってたわけか。知ってて。へえ」
「やっと辿り着いた」鬼立が言う。
「んじゃこれ要らねえな」
切る。回路切断。
鬼立にカーテンを引き千切られる。
水滴が落ちる。
「濡らしてないだろうな」
「防水だ」鬼立が言う。
見上げる。
見下ろす。
「服着ろ」鬼立が言う。
「そらっとぼけやがって」
知ってたんじゃねえか。俺の下の名前。
ちひろ。
正しいルビ。
「呼びたくなかった」鬼立が言う。
「返事しねえぞ」
探偵じゃ。
「きっちり弁償しろよ」
「カーテンはな」鬼立が言う。
手招き。ない指。
包帯がぐっしょり水を含んで。
張り付く。纏わり付く。
髪もシャツもコートも。
服。
着てシャワー浴びる阿呆の気が知れない。
「脱げの間違いだろ」
落とす。邪魔な機器。こんなのなくても俺は。
繋がれる。
テレパス。
思考になる前段階のアレが共有できる。なんて情欲。
「お前がやったのか」鬼立が言う。
「えんでだ」
「やったんだな」
「えんでだっつってんだろ。俺じゃねえ」
僕のせいにしないでよ。
「だ、そうだ」
黙れよ。
コックをぶっ壊す。水が噴き出る。
温度調節不可能。
冷水と熱湯が混ざる。
「次は俺か」鬼立が言う。
「言ったろ。お前は」
殺したくない、て。
「なんで切った?」
「お前が俺に執着する理由言ってみろよ」
おんなじだよ。
「言われたからか」鬼立が言う。
電波。幻聴。命令。
見えてない。レンズが滝で。
壊すんじゃなかった。
「執着する理由はなんだ」鬼立が言う。
だ
か
ら
「おんなじだっつってっだろ。しっつけえなあ」
陣内。
そう呼ぶと俺が不快になるのを知っている。知っててやってるから悪質極まりない。
俺は陣内じゃない。えんででもない。
「俺のも」鬼立が言う。
右手の小指。
切れるもんなら切ってみろ。そうゆう意味だ。「切れよ」
現行犯。
「やだね」
よく聞こえない。ざあざあうるさい。
滝に打たれてるような。打たれたことなんかないが。
水が入ったのかも。耳鳴りがひどい。
湯気でアタマがぼやけてくる。息が咽る。
垂れ流し。
栓しとけばよかった。湯船に浸かれる。
寒い。
熱い。同時に襲うもんだから。
「死んだんじゃなかったのか」鬼立が言う。
自首した男は取調べ中に。
「俺じゃねえよ」
勝手に自首して勝手に自殺した奴なんか。
僕の用件。
へいへい。忘れてた。
来週土曜の。ともるのリサイタル。
「やらせろや」
「駄目だ」鬼立が言う。
「客入れずに会場封鎖して張り込んでろっつてんだよ」
「断る」
「なんで」
お前を。
「捕まえたくない」鬼立が言う。
現役ケーサツ官の。
「セリフじゃねえわな」
「捕まりに来るんだろ。大体中榧ともるは」
意識不明の。
「道が渋滞してる、の間違いじゃねえの?」
重態。
確めもしないでヒトの言うことを鵜呑みにするな。
「なんで」鬼立が言う。
「の、あとに来んのは?」
殺した。
切った。
「俺に」鬼立が言う。
「相談しろってか。えんでの教え子の指切りてんだけどってか。莫迦も大概に」
「気づかなかった」
忘れるように仕向けた。だからお前が責任感じることじゃない。
僕のせいでもない。
お前のせいだよ。
「んなことより」
どこもかしこも濡れに濡れてることだし。
服着るためにはまず。脱がなきゃいけないわけで。
ゆびきりさん。
「あれもお前か」鬼立が言う。
「いんや」
「博士って誰だ」
「会ったんじゃ」
あ、いや。違ったかな。あの如何わしい教授の兄が。
「余計なこたいいだろ」
鬼立に触るのは。
何十年ぶり。
ユビガナイノデ。
「お前じゃない」鬼立が言う。
「さっきからそう言ってっだろうがよ」
陣内は。
「俺は」
「もう已めてくれ」鬼立が言う。
触るのを?
切るのを?
殺すのを。
「殺してるわけじゃない。切ったら死んだ。そんだけだ」
「なんで」
切った。
「おんなじこと何遍も」
「欲しかったんだろ」鬼立が言う。
ホシカッタ。
「ないから」
ナイカラ。
「羨ましかっただけじゃないのか」鬼立が言う。
だったら。
「なんだ」
「手に入ったか」鬼立が言う。
ハイッタ。
オクマデ。
見えない。レンズが湯気で曇る。
こんなときくらい外せよ。
外したら見えないのか。困りものだ。
喰って。
「ないんだろ」鬼立が言う。
それは、あれだ。あなたのお母さんは死んでいませんね、のテク。
死んでしまっていまはもういない。
死んではいないいままだ生きてる。
欲しかったから。
「切ったんじゃねえよ」
切ることが目的。
切るという手段によって、切るという目的が達せられる。
わからないのだ。鬼立には。
わかってほしくない。鬼立だけには。
僕にはよくわかる。
「知ってどうする?」
知ったって。動機なんかないんだから。
書類上空欄を埋めなきゃいけない。
切りたかったから。では駄目なのだ。
殺したかったわけじゃない。
切ったあとのことは小事。
「やめろ」鬼立が言う。
なにを。
「やめられないなら」鬼立が言う。
やめさせる。
「やめてほしくねえみてえだけど」
出世するんだろ。偉くなってそんで正義を。
正義は、
「どこにもない」鬼立が言う。
「探しもしねえで」
「探した。探したんだ。お前がいなくなったあとも、いまもずっと」
探してるけど。
探し続けても。
「なかったらお前、自前で」
「できない」鬼立が言う。
「なんで」
いないから。
あるだろ、そこに。それ。
見えてねえの?湯気で。ちょいレンズ拭ってみろって。
ない。
ヌグウユビガ。
「なんで」鬼立が言う。
陣内ちひろ。
何も言わなくて。
指も動かない。
「その定義だと」
死んでるね。
「死んだんだ」
会話が出来ないから。
3
ニンゲンじゃないあれは。
ニンギョウだ。の一点張り。
もどかしくてイライラが止まらないから交代。
したいのは山々だが、生憎と俺は取り調べの類は。
呼び出し。
そろそろ来る頃だろうと思っていた。むしろ待っていた。
ようやく。
照明が落ちており。スイッチを手探りで壁を。
「ああ、そのまま」陣内が言う。
理由はすぐにわかる。
スクリーン。映し出されているのは。
「不正がないかどうかチェックをしている」
スピーカ。流れてくるのは。
「あったらどうするおつもりですか」
「忘れるよ。残念なことに録画機能が故障しているようだから」
付けていないのだ。初めから。
「監視なら私が」
「君の主観を信じていないわけではないのだよ。思い込むと視野狭窄に陥る致命的なね。気をつけたまえ」
「お言葉ですが」
ニンギョウだっつってんだろうがよ。
音割れするくらいの。空気が放電する。
「君から見てどうだ」陣内が言う。
「冤罪かと」
「自ら出頭してきたというのに」
「自ら出頭させた人物に心当たりがあります」
ほお。
音量を際限なく上げる。俺の次の発言だけを都合よく掻き消すつもりだ。
てめえらはニンギョウとニンゲンの区別もつかねえのか。
解剖の必要がどこにある。見りゃわかんだろ。
あれは。
そうゆう作風なんだよ。えげつねえかもしんねえけど。
「首謀者は別にいる。頼まれでもしなければあんなこと」
「だったら」
「こうして誘き出しているんだ。追い詰められてあとがなくなるまで」
尋問。繰り返し繰り返し。
お前がやったお前がやったお前が。
「自分がやったことは認めている。だからこそ足を運んだのだよ。名前を聞くだけで虫唾が走る私の元に」
自首は。
「証拠不十分です」
「じきに見れる。掛けなさい」陣内が言う。
鎌か。
電話か。メガネか。
頼まれでもしなきゃ誰がんなこと。
「頼まれた?どうゆうことです?」
頼まれたら。頼まれたから。
頼まれればやるのだろうか。
「依頼主を吊るし上げたい。何が何でも私に会いたくないのだろうな」
「会われたことは」
「一瞬。すれ違った程度だよ。向こうは私に気づいているが、私は通り過ぎてしばらく経った後、そうかもしれなかったと推測するだけさ。摑みどころのない」
俺は。
「会ったことがありますか」
「君の記憶まではね。しかし、長い付き合いだ。眼にしている可能性は」
「会えばすぐそれとわかりますか」
「わかると思うがね。そこまで気を許した人間は君が」
二人目。
一人目が。
「左手中指の欠損の原因ですね」
見てどうすんだよ。ねえよ。悪いか。
おい。やめ。
なにしやが。見せびらかして面白れえようなもんでもなんでもねえだろうが。
返せよ。かえ、
してよ。
返して。見られたくないってゆってるんだから。
「初見ではないね」陣内が言う。
探偵の独り言の相手。独り言とはいわないのかもしれない。
低い重い鈍い。
高い軽い鋭い。
似ても似つかない声が。
「誰なんですか」
「生きているよ」陣内が言う。
「ですから誰だと」
表情に変化はない。人相も探偵のまま。
ただ声だけが増える。
「掛けなさい。君にだけ教えよう」陣内が言う。
トイレに行きたい。
なんで?漏らすよ。
「結構です」
「ただの証人だよ」陣内が言う。
逮捕。
「やってないと言っている。それがなによりの」陣内が言う。
「握り潰した、いまその手にあるのが」
証拠。
「ではないのですか。なんのために」
正義。
「とでも言っておけば満足かな」陣内が言う。「性質の悪い悪戯に振り回されるなと、一喝してはくれないか。無能ばかりで心苦しいよ」
「人形だから。ですか」
僕の作品だよ。僕が作って。
頼んだ。
置いてきてって。
ねえ、本当に漏れるんだけど。
「そうまでして手元に」
「同じことを君に問いたいね」陣内が言う。
君のせいで。
「私に協力しないと言ってきた。あんな騒ぎまで起こして。私が拾っていなければいまごろ」
「やめたかったのでは。探偵を辞めるには」
犯人。
「面白い推理だね。興味深いよ」陣内が言う。「でも無駄だ。私の畑で小火を起こしたところで。元通りに耕して作物を実らせる何事もなかったように。枯らしはしない。させない」
スイッチ。
行かせてやりなさい。
スクリーンが無人になる。音声が遠ざかる。
「失礼します」
「君に任せることにしよう。手綱を」
放すな。
離さない。
「証拠不十分で釈放です」
「それでいい。充分だ」陣内が言う。
トイレから出てきた探偵は、包帯がしてあった。両手にしっかり。
そのためにトイレに立ちたかったのでは。
「俺じゃない」
知ってる。
「俺じゃないんだ」
わかってる。
見られたくない。見てしまった。
見せてくれた。
「なんか、言われたんじゃねえの」
「親公認というやつだ」
「なんだそりゃ」探偵が訝しげな顔になる。
生きている。
「会えないか」
「伝えとく」探偵が言う。
「そうじゃない。いるんだろ?」
実際に。
探偵の外側に。
「入院してっからな」探偵が言う。
「病気なのか」
「治らないんだとよ」
脳が。
「聞いたんじゃねえの?」探偵が言う。
「断った」
「俺に訊きゃあいいとか思ったんだろ。どうすっかな」
「会わせたくないならいい」
「そのがいいかもな」
後日、報道されたであろう事件の内容は。
腹が立つので遮断した一切合財を。
おかげですっかり。
ヌケていた。
ヌケヨ。
刀か。車か。
力か。
「死んでねえって。じゃあここにいる俺は」
誰だよ。
「言いたくない」
「なんで」探偵が言う。
「言いたくないんだ」
言ったら。認めてしまう。
厭だ。
生きて。存在るのに。生きて。
存在ない。死んで。存在るのに。
死んで。
存在ない。
「言いたくない」
「だいじょーか。あんま追い詰めるな」
ここにあるのに。
ここにない。指は。
なかった。
俺が見たときすでに。いつ、
失くしたのか。
奪った奴が羨ましい。悔しい。
なんで。
「死んだ」
被疑者は取調べ中に。
「信じてんの?揉み消しやがったんだ。知って」
知ってる。お前が。
お前が陣内から逃れるためにやったこと。
探偵という役割から降りるには、
被害者になるか。
加害者になるか。
殺される側か殺す側か。
捕まえる側か捕まえられる側か。
刑事になるか犯人になるか、死体になるか。
「なかったんだ。報道されなかった。揉み消されて」
だから、あれは。
起きていない。
龍華たちが言う、十年以上前のあの。
動物園での女性の全裸死体は。
「二度目なんだ。まったく同じ場所でまったく同じことが」
起きて。別人?
別人でなかったとしたら。本当に。
一回目はニンギョウだったかもしれない。
作品。でも、
二回目がニンゲンだったら。
殺人。
「お前が殺してそのあとお前も」
死んだ。
知ってる。
知ってるに決まってる。だって俺が。
俺が捕まえて。俺が。
「不慣れなことすっからだ」探偵が言う。
取り調べた。
陣内に指名されて。
4
離れたほうがいいね。えんでに言われなくたって。
「会わせてやるよ」
はい交代。
指の動きが格段に。ともるもそれに気づいた。
弾き終わったら帰れよ。
「ビックリした?」えんでが言う。
首も固定。
眼球も。
「これで満足?」
「ほ、んとうに」ともるが言う。
「僕じゃなきゃ誰?」
この音がなによりの証拠。だろうに。
「先生」
「上手になったね」えんでが言う。
泣くかと思ったが。ないか。それはない。
鬼立だって泣かなかったんだから。
比べてんの?
うっせ。
「嫉妬したんじゃない?」えんでが言う。
「でしょうか」ともるが言う。
「殺したって君が
「わかってます。けど、僕は」
殺してない。
「だろうね。君は臆病だから。ピアノに」
放火が関の山。
「なんで燃やしたの?」えんでが言う。
わかってるくせに。
傍観者の君に教えてあげようと思って。
そりゃどうも。
「燃やしたのはなんで」えんでが言う。
「弾きたくなくなったんだろうと思います」ともるが言う。
「ふうん。僕に敵わないと悟って」
「あとは親に心配させたかったのだと」
「幼稚だね」
あんま追い詰めるな。
死ぬ?
殺したら許さねえからな。
「なにか勘違いしてるみたいだからゆっとくけど、僕はね。指だったらのべつ幕なし欲しいわけじゃないんだよ。例えば君の指は要らないし、亜州甫くんの指だって。そーすけの指はもっと要らない。欲しいわけじゃないんだ」
切りたい。
所有は馴染まない。
そーすけって誰だよ。
「僕が欲しいのはただの十本だけ。予約してるんだ。死んだらちょーだいって。だから君たちがやったことはほんと無駄。意味がない」
つーか、そーすけって?
「その他三人もさ、僕を理由に勝手に死んで。まるで僕のせいみたいじゃん。僕はね、もうどうでもいいんだ。ピアノもこれも」
作品。指の彫刻。
ともるがぐるりと周りを。
鑑賞。
「どーでもいいの。君たち教え子も。死んでようが生きてようが。ピアノやってようが辞めてようが。リサイタルとかCDとか。いい加減にしてくれない? 僕から卒業して」
演奏中止。
蓋まで閉めた。
「せ、んせ」ともるが言う。
「ばいばい」えんでが言う。
はい交代。
気分悪い。寝る。
幼稚なのどっちだよ。
「僕は必要ないってことですか」ともるが言う。
「さあてな」
「先生は」
「死んだ」
「じゃあいまの」
「機嫌損ねたみてえだぞ」
あんまりだろ。
寝てるから返事しないよ。
「俺がやったことは」ともるが言う。
「なにした?」
殺した。
「誰を」
「死んだ。確かに俺が」
殺した。
だ
か
ら
「だれを?」
亜州甫かなまはここにいる。
そこの椅子に座ってピアノと向かい合ってる。
のは、誰だって?
「人違ぇだよ。確めたか」
否定したいのはよくわかる。首を。振って払おうとしたって。
首は、確かに。
赤を噴いたのだ。
俺も見た。鬼立の監視係だって。
見たのは。
亜州甫かなまじゃなくて。
「弾いてねえだろ。弾く前に切っちまったから」
確めようがない。なにせ、誰も。
聴いていない。音を。
あの音が弾けるのは。えんでとその教え子の。
亜州甫かなまくらいの。
「亜州甫かなまは」
死んでない。死んだのは。
「誰だ」ともるが言う。
えんでに。
なり損ねた。
「お前らだよ」
どこからともなく刃物を。躊躇いもなく真一文字。
こうゆうとこに性格が出る。
君なら曲がる?
ちーろ。
こうゆうときしか呼ばない。返事をする気も失せる。
ちーろ。
ちーろ。
黙れという代わりに挿れる。前は俺の中。後ろはえんで作。
持ち出し禁止じゃなかった?
返しときゃ問題ねえだろ。
ガラスの向こうにあったはずだけど。あ。
知ぃらないよ。
へいすけも独占欲の塊だから。
誰なんだよ。
「窃盗の」
「容疑じゃねぇだろ。盗んだんだって」
妙なプレイおっ始めやがって。
逮捕。
鬼立に捕まるのは。
「今度は逃がさない」
「すっげえ殺し文句」
鳴ってるよ。
気のせいだろ。いま、
イイトコ?無尽蔵だね。
鳴ってるって。
なにが。
ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ。
目覚まし?んなもん止めとけよ。
「鳴ってないか」鬼立が言う。
「お前まで」
「悪い」
お前のかよ。妙な呼び出し音に。
タオルなんか。誰も見てねえだろうが。
それよかぼたぼた垂れてる水滴。
垂れ流れる。
白い。あ、しまった。
挿れっぱ。
「なにやってたんだ」鬼立が言う。
うわ。お冠。
違う。
みたいだ。電話の相手。
「当て?あるわけが」鬼立が言う。
俺を、
睨み付ける。眼が。「行くぞ」
「どうしたって?」
逃げた。
えんでの元担当ナース。
「トイレに立ったときに、その」有能な部下が言う。
どっかで聞いた流れだな。
「顛末はいい。出入り口全部」
「やってますよ。やってますが」お坊ちゃんが言う。
ザルだろあんな。
「俺は反対だったんだ」鬼立が言う。
「風通しのいい組織を目指すって掲げたの誰の」
「揉めてる場合かよ」
流石は前を見ずに道交法を遵守できる。ケーサツ官の鑑。信号はすべて青に見える。イカサマのレンズ。
加速度と遠心力で吐きそうだ。髪を乾かしている暇がなかった。
染みが。
黒い肩。膝にも。
なんだか忍びない。一応、鬼立警部はいつなんどきでも完璧な身なりでいらっしゃる、で通っているはずだから。雨でも降ってくれれば誤魔化せるのに。
ウィンドウに。まじかよ。
お前か。
天候まで操れないよ。
ワイパが視界にちらちら。鬱陶しい。
雨。
「お前か」鬼立が言う。
「なにが」
逃がした。
「どうやって?俺のアリバイはお前の」
「俺じゃない」鬼立が言う。
「だろ?んじゃあ、俺でもない」
あいつが逃げ出す理由。
逃げたかったわけじゃない。逃げてまでやることが。
なるほど。
「わかったんだろ」鬼立が言う。
「行きたくねんだけど」
通信。優秀な部下くんへ。
「てめえにしては珍しい」
口滑らすなんざ。
「なんで僕が。警部なんじゃないですか」龍華が言う。
「だとよ」
「俺のアリバイはお前のじゃなかったか」鬼立が言う。
歩く失言の鬼立でもないとすれば。
やっぱ、お前か。
えんで。
「サキなんか」
生きてたって死んでたってどうだって。
でも、先生に死なれると困るから。
寝ないでね。今度こそ。
「鬼立」
ブレーキって知ってるか。
天国に逝きたくない奴が弾くんだとよ。
5
本当はあれを持っていきたかった。
取りに戻る時間が惜しいのと。
俺じゃ許可が下りない。
絶対に中てる自信がある。
人殺しなんざ。「させたくないってゆう計らいじゃね?」探偵が言う。
二度も。
一度目は。
「殺してない」
「正義のためなら殺せんだろ」探偵が言う。
俺を。
「その話は」
悲鳴。ナースが尻餅ついて。
光る。刃物。
サキが睨みつける。「どこにやったの?」
いないだろう。いないと思う。
これを想定して、移したのだから。
「どこなの?」
「教えない」探偵が言い切る。
「教えなさい。教えないと」
人質。
患者。心臓止まるか止まらないかの瀬戸際の奴を盾にしたとこで。
ぶちぶちと。
コードやらなんやらが外れる。警告音。
エラー。
付け直せとの。
「言いなさい」
「いねえよ」探偵が言う。
「いないはずが」
「死んだって。どっかの誰かさんがそこのロビィで切って」
嘘を。
「留め差したんだろ?てめえが手加減しなきゃ」探偵が言う。
「してないわよ。心停止だって確認」
「んなら来る場所間違ってる」
生死の境みたいなこんな白い空間でもたもたしてねえで。
「閻魔様に言えっての」探偵が言う。
「主治医は。呼びなさい」
「仕事中だろ」
「呼んで」
隅で固まっていた白衣が。
指名。
「知ってますよね」
首も振れない。
「早くして」
ようやく電気が通う。第一歩をこけて、走る。
席を外させたのかもしれない。
巻き込まないように。たぶん、次の人質候補だった。
スタッフに眼線で。「動かないで」
そうでもなかったか。
「どこ」
「地獄じゃね?」探偵が言う。
「生きてるんでしょ。わかるのよ私。騙そうとしたって」
せっかく。せっかく、
捕まってあげたのに。
「生きてるんじゃなんの意味もないじゃない。なんで生きてんのよ、なんで」
こうゆうのに長けてる連中はまだか。
なにしてる。龍華。
探偵は少々煽りすぎだ。これでは人質諸共死んでしまう。
眼線も合わせられない。
やりすぎだと伝えることも出来ない。
「どこなの?」
「言ったらどうする?」探偵が言う。
「決まってるでしょ。行くわ」
「地獄にか」
「私の命なんかどうでもいいの。そう言ってるんでしょ。わかってるの。だったら、最初から相手にされてないんだから。怖くない。最期に」
嫌われたい。怨まれたい。
そこまでして。
「伝言聞くか」永片えんでからの。
「本人からならね、正真正銘」
言うことは。
「なんもない。以上。そんだけ」探偵が無感動に言い放つ。
サキが人質見捨てて。歯向かう文字通り。
手首。足首。
払って。
縺れる。倒れ込む。
鼻先。
押さえる。
「放して」
そういえば、手錠がない。
してなかったのか。取ったか。
どうやって。
トイレ?
「莫迦」鬼立。
莫迦とはなんだ莫迦とは。
いきなり莫迦呼ばわりされるいわれは。
黒い。そうだろう。黒い服なのだから。
しかし、
触った手まで黒くなるのは。
「退いて」
どうして、遠くに。
何も言わずに。黙って行くことは。
当てが何もなかった。
何も知らなかった。俺は探偵のこと。
本名までおぼろげだった。
探偵。と呼びすぎて。
なんだこれ。死に際のアレじゃないだろうな。
やめてくれ。
こんなとこでくたばるわけには。まだなにも。
なにもわかっていないのに。
なにも。なんにも。
「莫迦」動くな。
「俺はいい」
あいつを。サキを。
大丈夫。
なにが。
「来た」
なにが。ああ、
遅い。
「遅くなりました」龍華が敬礼。こんなときだけ。
とにもかくにも遅すぎる。
眠くなってきた。寝てもいいと思うか。
寝るなと、誰かに言われた気が。
誰だったか。
えんで。
探偵の旧い知り合い。本当に?
本当にそうなのだろうか。
最初から存在なかったとしたら。
最初は存在たのかもしれないが。
とにかく眠い。
あれだけ■れば疲れるか。
「元気?」
だといいのですが。
「敬語?」
初対面ですので。
「距離を取りたい?」
だと思います。
「嫉妬?」
するだけのものがあります。
「僕は僕だし私は私。ちーろはちーろ。違うかな」
先週の金曜ここで、私に電話をしたのは。
「私」
探偵と旧い付き合いなのは。
「僕と私」
なに、取調べみたいなこと。
やってるんだろう。
「尋問?正直に言うよ。なんでも訊いて」
「何を訊けばいいのか」
わからない。
たぶん、陣内の顔だった。
「深くはないそうだ」
「サキは」
白い。
腹部の重み。
眩暈。天井と床の違いは。
「サキは」
ちひろ。
「から聞いたほうがいい」陣内が言う。
「捕まえたんですよね。怪我人は」
人質は。無事。
生と死の境を再び。
「私が言っても信じないだろうから」陣内が言う。
「せめて捕まえたのかどうかだけ」
「確保は、したさ」
確保は。
した。
「どういう」
ちひろ。
「から聞くといい」陣内が言う。
戻るよ。そんな、何も言わずに。
「待ってください。探偵は」
「そう呼ばないほうが」
喜ぶんじゃないか。
管が繋がってて。白い場所から出られない。
陣内。
貴方が、知らないはずないでしょう。なんで。
言ってくれないんですか。
どうして。言わないなら言わないだけの理由を。
「君は怪我を治すことが最優先だ」陣内が言う。
下腹部が疼く。
触れない。腕が、
固定、されて。
何故?
「憶えていないのか」陣内が言う。
ああ、そうか。
君は。
俺がどうだというのだ。
ドアに手を掛けた陣内が踵を返す。丸イスに。「憶えてなかったのか」
「話が見えません」
「その、腕」
折れてる。
「わけじゃない。どう考える?」
「どうって。質問の意図をはっきり」
「すまない。こう見えて取り乱してるんだ。そのね、あんなことに」
陣内にしては奇異だ。奥歯に物が挟まったような。
「なにが」
あったのか。
聞く権利は俺にだって。わざわざ探偵を問い詰める時間が。
問い詰める?誰が誰を。
無理だ。俺に探偵の口を割らせるなんて。
「連絡はつかないのか」陣内が言う。
「連絡というと?」
厭な間。
陣内が床を見る。
「またどこか行ったんですか。断りもなしに」
「そう考えてくれていい」陣内が言う。
「ケータイは。電源切って」
首を振る。
「当ては。私にもありませんが」
首を振る。
「何か摑んだんじゃないでしょうか。そのうちふらっと帰って」
首を。
振る。
「もういいよ。もう」
いいんだ。
「何がです? もういいどころかまだ何も」
首を。
「もういい」陣内が言う。
縦に。
「二度目はつらすぎる」
医者が様子を見にきた。固定された腕を。
腕じゃない。固定されてるのは。
その先の。
「見ないほうがいい」陣内が言う。
見たくないのは。
陣内。
「貴方では?」
俺の眼が、メガネを掛けてれば。もっとよく見えたかもしれないが。
おかしい。おかしいのは俺の。
眼?脳?
指が。
「付いて」
くるなと云われたよ。伝えろと。
誰に。
「このまま大人しく怪我を治せと言ったところで君は、無理を承知で真相を探ろうとするだろう。それでは私が困るのだ。最期の約束を守らないといけないからね」
医者がくれぐれも絶対安静、と言い残して去る。
「死んだよ」
ちーろ。
陣内が俺を謀ろうとしている。
G
ちひろ。同じ名前に親近感を覚えただけかもしれない。
アタマのいい子が欲しかった。
選り取り見取り。好きなのを持っていっていいと言う。
カネさえ払えば。
見合う地位は後で得ればいい、とも。文字通り出世払い。
敷居が低くてかえって警戒した。ここを突き止めるだけで相当の。
首切り口封じより抱き込んだほうが身が安泰か。
手の平で踊っていると見せかけて。全部、根こそぎ。
俺のものにしてやる。
学校みたいな施設だった。違うのは父兄が観に来ないこと。PTAもなかった。PもTもないのだから。Aを組織できない。
ピアノの。
妙に耳に障って。不快ではないのだが心地よいかといわれれば。
音源が見つからない。四方八方から聞こえる。反響して。
尋ねようにも通じない。郷に入っては郷に。従いたのだがその郷がわからない。俺と同じでないことは確かなのだが。
媚を売れば或いは。
思いつかないのか。思いつけないのか。
誰も俺に関心がない。
なまじ参観日のほうがまだ。未体験なので憶測だが。
ひときわ背の高い。
尾行いていったら辿り着けた。連れて行ってくれたのかもしれない。
「来んな」
そう言ったようだった。郷が違うので雰囲気を読んだ。
「入んな。これ以上」
見んな。
音が止まる。
「てめえのせいだ」
「気を散らせたなら謝るよ。邪魔するつもりはなかった。すまない」
眼が。
よかった。一目で気に入った。
とにかく俺を殺したくて堪らない。
そういう眼だった。
彼宛てに封書を送った。今世間を騒がしている奇怪な事件。その捜査資料。俺が手に入れられるものはすべて。管轄内だが俺の担当でもなんでもない。こんな新人。
「どうかな」
「なにが」
「送ったろ。その事件」
「捨てた」
「そうか」
いきなり不躾すぎた。か。
「つまんねえから」
下らねえ。
「どう下らない?教えてほしい」
その、下らない理由をメモして文書にして提出したら。
呼び出された。
首か島流しか。そのどちらでもなかった。
「利用させて」
もらう条件として。
彼には仲のいい友だちがいた。その子を。
「構わないよ」
しかし、頑なに拒絶した。私を。彼が言っても無駄だった。
彼は。自分だけ幸せになるのが厭だったわけではない。私と。一緒に来たところで何も変わらない。もっと悪化するかもしれないことを予測していた。彼は。
その子を入院させてほしいと言ってきた。私は。
知り合いのいる病院に連れて行った。
「治るといいね」
「治らねえよ」
脳は。
「自殺しちまう。一緒にいれないから。そんだけ」
四六時中見張ってられないから。あそこにいれば、死ぬのだけは防いでくれる。どうせ中身は。それ以上どうもならないくらい。荒廃して。いるのだそうだ。
実を言うと、その子と会話がない。
私はまだ。
信用するに足らないのだ。
彼は毎日見舞いに行った。私は入院費だけ払った。知り合いにこっそり尋ねた。退院の見込みは。ない。そうか。それで、彼は毎日会いに行くのだ。
義務教育も終えて、予備校。彼は。初めて私に、
欲しいものがあると言ってきた。
名を聞いた。
「できんのかできねえのか」
「出来ないことはない、と虚勢を張らせてくれるのならね」
「どっちだ」
私に無理難題を吹っ掛けて困らせようとか、私にどれだけの権限と権力が備わったのかとか、そんなことは心底どうでもいい。彼は本気で。
欲しい。
欲しがっている。そこまで入れ込む理由を。
「聞く権利は」
「ねえな。黙ってしこしこ裏工作してこいや」
聞くのは駄目だが、調べてはいけないとも言われていない。知りたければ勝手に調べろの意、と受け取った。
何の変哲もない。
年は一つ下。同学年になることを望んでいるので、大学直前で足踏みするか大学中に足踏みするか。どちらかを提案した。
出会いは、冤罪。
管轄外でやったところで。いや、目標の居住地が俺の管轄外だっただけのことだろう。彼は隠してもいないし誤魔化してもいない。現にすぐ知れた。
「手に入れてどうするんだね」
「どうも。観てると面白れえだけ」
愛でも性でもなく。
「莫迦なんだよ」
正義が。
「あると思ってる。ただの莫迦」
信じた正義が。
八百長だったのも知らずに。
冤罪も大学も学部も事件も犯人もすべて。
「最期だから教えてやんよ。てめえが送りつけたあれ」
俺の、
旧い知り合い。入院中の。
「わかるわきゃねえだろ。ただのガキに。言っただろうが」
下らねえ、て。
「よく教えてくれたね」
「教えてやれってよ。最期だからな」
えんでを。
「退院させろ」
すぐに病院に連絡を入れた。絶対に、
「約束が」
「なにを。言っているのかよくわからないがね」
そんな異常者。
一生、死ぬまで。
「縁切る」
「生きていけるかな。私なしで、この世は君たちには」
普通すぎる。
異物。違和感。
「切りたい理由を教えてくれないかな。最期に」
死ぬ意味すらない。
指。遅かった。
主治医の手から根こそぎ。
逃げられた。異国に。
結局一度も口を利いてくれなかった。こうなることを見越していたのかもしれない。えんでは。彼以上に。
いまだ私の指が切られていないのは。
そして、二度目の動物園。
一度目は確実に私への反抗。私が守らなかった約束を。
最期の。
「死んだよ」
ここまで言って無理なら。無理なのだろう。
死んだら。二度はない。
そういうことだ。
「死ななければいけない理由がわかりません」鬼立くんが言う。
「死んだんだ」
信じられないかもしれないが。
なにより君が、信じていないから。
「どうして死んだのかと訊いているんです」鬼立くんが言う。
「どうしてわからない?」
どうして、て。
「わからないわけがない」
わからないわけが。
「見るといい。よく」
これをそれを。
なにがあって、なにがないのか。
摑む。
眼前。絶対安静の。
外れない。外してはいけない。外すなと。
開く。
曝す。
「見ろ」
あるのは指で。ないのも。
「何本ある?何本だ。数えろ。数えてみろ」
わかるはずだ。
君みたいに。アタマのいい子なら。
中央の。
欠落。
「サキが」
違う。
「俺が」
違う。とも言い切れないが本質は。
「俺じゃない」
俺は、たぶん。
俺じゃない。
「君を庇って」
死んだんだ。
「君を生かすために」
死んだ。
「君に」
死んでほしくない。
二度目は、
つらすぎる。
鬼立は俺が嫌いになっただろうか。
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