第2話 人皮剥ぎの月狂い差しも

 第2章 ジンガワハ、ツキクル、サ


      1


 暴君社長がサングラスを掛けている理由はお洒落でも格好付けでもなんでもない。この国でとかく好まれる白い照明の下では不都合で。機能的な問題だった。

「わかっている」社長が言う。

「だったら」鬼立キリュウが異を唱える。

「わかるだろう」社長が言いたいのは、社名に傷がつくとかそうゆうことではない。

 犯罪者。殺人鬼。逮捕。

 そんなこともどうでもいいのだ。社長が気にしているのは。

「いまが絶頂期なんだ」

「ではこのまま黙って被害者を増やせと」鬼立が言いたいこともよくわかる。

 俺だってできることなら止めたい。

 えんでが殺してるみたいだから。

 えんでの模倣犯に。

「絶頂期ってこた」絶頂期じゃない時期もあったということで。

「最初はコアなファン層に食いつかせるつもりだった」社長が言う。「嬉しい誤算だよ。彼の特異なパーソナリティによるところのものが多いがな」

「捕まったら捕まったで伝説になるんじゃねえの」半分冗談だが。

「そんなもの一時的に過ぎない。ハエとイヌは使いようだ」

 なるほどそれで、

 俺を使ったのか。

 鬼立がイヌで。

亜州甫アスウラかなま氏が、中榧ナカヤともる君を殺す、とそう仰りたいのですね」鬼立が言う。

「どっちにも死なれたら困る。逮捕も同様にな」社長が言う。

「カネ儲けのために」笑ってやるにはサービスが過ぎる。

「それ以外になにがある」社長が言う。「無駄な時間はこれくらいにしてもらいたい。あとは有能な君たちに任せるよ」

 呼び止める時間も無駄だった。

 鬼立が叩き割りそうな勢いだったので、カップを下げさせる。手付かず。俺はコーヒーが大嫌いだし、鬼立はあのメーカの泥水しか飲まない。

 ピアノの音が已む。

 隣の部屋だ。聞かれていたかもしれない。

「俺は戻るが」鬼立が上着を整えつつ立ち上がる。乱れてねっての。

「押し付けんのかよ」

「利用されてるだけじゃないか」暴君社長の宣伝活動の一環で。

 それは、

 考えなくもなかったが。

 ピアノの音が増える。やっぱ聞かれたかも。

「ああ、そうだ。こうゆうのを」鬼立が上着の内ポケットから紙切れを取り出す。

 CDEFGAHB

「なんで早く」これを先に見てれば。

「ついさっきだ。被害妄想の精神科医から」

結佐ユサじゃねえだろうな」精神科医と聞くとこいつしか浮かばない。のがすごく厭だ。

「知り合いか」鬼立が言う。

 とすると、

 あいつも気づいた。

「いま龍華タチハナに前妻の」

「踊らされてんじゃねえよ。自作自演だ」結佐はそうゆう奴だ。

「なんで早く」鬼立が言う。

「だからそう言ったろ。早く見せろって」

「冗談だろ」鬼立が項垂れる。

 さぞ重要な手掛かり足掛かりを摑んだと思って浮かれてたんだろう。熟考型じゃないんだから無闇に思い悩むな。

「帰る」鬼立が言う。

「教えてやれよ」有能な部下に。「勘違いだっつって」

「帰ってきたらな」

 前妻も国家権力に根掘り葉掘り気の毒に。まったくの無関係だってのに。

 ピアノの音が減ったのを見計らって、隣の部屋をのぞく。

 ともるは聴衆だった。

 声を出すのが憚られたので勝手に隣に掛ける。音は続く。

「いつもの大掛かりな宣伝だ」ともるが言う。

 喋っていいのか。眼線で尋ねたら睨まれた。

 どっちだ。

 いいのかいけないのか。

「護衛は必要ない」ともるが言う。

「僕だよ」亜州甫かなまの手は止まらない。

 いま気づく。壁は防音仕様。

 俺の耳がイかれてる。

 脳か。おかしいのは。

「社長のやり方はわかってます」ともるが声を張り上げる。ピアノの音に負けじと。

「来ないほうがいいよ。指、切られたくないなら」

 被害者候補を護衛するよりは、犯罪者候補を監視してたほうが。

 俺がもつかどうか。

 音が終わると、ともるは拍手して退室した。

 亜州甫かなまは、すかさず空席を埋める。

 左側。

 左手。

「取っていい?」亜州甫かなまが言う。

「返せよ」

 毎朝取り替えるのにすでに薄汚れて。手を洗えないからだ。

「こっちは必要ないよね」

 右手。

「あるんでしょ」

「片方だけだと怪しいだろ」

「このが怪しいよ。中身ないみたいじゃん」

「確かめてみりゃいい」

 錯覚しそうになる。似すぎてる。

 えんでの毒に当てられた。

 オセロで八方を囲まれて裏返さざるを得ない。染まる。

 黒か白かはわからない。

「なんでないの?」亜州甫かなまが言う。

「てめえで言ったことだろうが」

 わかってること。

「訊くなよ」

「そだねおいし」

 かったかどうかわすれちゃったけど。

 床に落とす。余計汚れるじゃないか。

 ごお、よん、さん、にい。

「一本足りない」

 いち、にい、さん、しい。

「ごお」

「三人目は」

「どーしよっかなあ。迷ってるんだよ実は」

 俺か。ともるか。

「一人目は」

「憶えてないよ」

「じゃあ二人目」

「わすれちゃっただっておいし」

 くなかったんだもん。

「俺じゃねんだろ」

「きみにするとおいし」

 いかどうかたしかめらんないよね。

「やめろっつたら」

「会わせてくれる?」

 咥える唾液と。

 加える粘液と。

「お前だけ会いたくてもなあ」

「死ぬよ」亜州甫かなまが言う。

「切るよ、だろが」

「そ。そっちが」

 目当て。

 劣化コピィ摸造。

 と言ったものなら、ともるはすべての指を失うことになる。禁句。

 歩く失言の鬼立といえど、オリジナルを知らないなら爆弾着火させられるわけはないが。問題は。

 被害妄想の精神科医。あいつの狙いを探らないことには。

 妨害になり得るなら早々に。同じ方面なら手を取っても。

「水曜なんだな?」

「来てくれれば見せるよ」亜州甫かなまが言う。

「絶対か。その前にやんなよ」

「待ちきれないかも」

 脅せば逆効果だ。放任も過激煽動。なんという扱いにくい。

 四六時中監視は前者。

 全面信頼は後者。

 平均は駄目だ。あれは当てにならない。足し合わせる二つに格差がありすぎる。

「結佐って知ってっか」

「ほじょーちゃん?」亜州甫かなまが言う。

 切り返しに困る。


      2


 ゆびきりさん?

「最近ちょっとした話題になってるんですよ。主にネット上ですが」龍華が得意そうにキィを叩いてる様子が浮かぶ。

 かたかたかたかた。音まで聞こえてきた。

「なにか関係するのか」

「ゆびきりさんは、約束を守らないと指を持っていくそうです」

「それがなんだって?」

 駄目だ。何か言ってることはわかるのだが音に反応して適当な茶々を入れてるだけだ。意味なんかとれない。

 ゆびきりさん?

「こっくりさんみたいなもんか」とか言ってる自分がどうしてこっくりさんを例として挙げたのかちっともわからない。キツネがおイナリさん銜えて走ってく情景が。「単なる都市伝説だろ」

「そうですね。実際に指を持ってかれたっていう報告は一件も確認されてません」

「関係ないじゃないか」

「噂自体も、とある大学の教授が実験のために流したものだったそうです。幽霊の正体見たり、というやつでしょう」

 眠くて仕方ない、と伏せたら。

 では眠気覚ましに、と。時間潰しに、だったかもしれない。やる前から徒労だった龍華を笑い飛ばす余裕もない。

 認めよう。

 本当の本当に睡眠を採ったほうがよさそうだ。

「悪いんだが」

「休まれますか。それがいいでしょうね」

 相当酷い顔なのだろう。心なしか眼線が合わない。俺の焦点がぶれてるせいか。

「なんで監視が要る?」

「命令です」龍華の声が遠くで聞こえる。

 彼女の名前を聞きそびれた。どうでもいいか。俺の行動やら言動やらを逐一上に垂れ流すためだけにやってきた厄介な。

 なんで監視が要る?

 俺の監視ではないのだ。俺でなくて。俺の傍にいる。

 探偵が何か仕出かしたか。仕出かす予定なのか。

 夢の中でも捜査方針を考え直していた。身体の休息が取れただけでもよしとする。そう簡単に隈は消えてくれないが。

 空の色が変わっていなくてほっとする。どうせ会議も暗礁に乗り上げた。招集をかける当人が不在では進展も何もないだろう。

 彼女は龍華と談笑していた。俺の姿を見つけると表情を引き締める。

 龍華なんかわざとらしくモニタと向かい合った。

「俺に言えないようなことか」

「自意識過剰なんじゃないですか」龍華は、相変わらず礼儀を知らない。

 なんでこいつが俺の直下なのだ。俺に人事権があれば真っ先に飛ばしてやるのに。

 首だけ。シベリア辺りに。

「面白いと思うけどなあ」彼女が呟く。

「いいですって」龍華が首と手を振る。「荒唐無稽にもほどがありますし」

「なんだ。言ってみろ」

 龍華は彼女のゴーサインを受け取ってしぶしぶ口を開いた。「被害者はもしかすると、ゆびきりさんに切られた被害者でもあるんじゃないかって」

「どういうことだ」

「ですから、ゆびきりさんに切られたあと、程なくして犯人に殺されてしまった。だから殺される前に指を切られているし、切られた指も発見されていない。どうです?」

「荒唐無稽だな」

「ほら。ね。こうゆう人なんですよ。やめましょう」龍華が言う。

「そうかなあ。私は興味深いと思いますけど」

「ゆびきりさんとやらが共犯なら話は別だが」

 龍華の眼球をモニタから奪うことに成功しただけでも儲けもの。

「実験とか言ってたな。その人騒がせな教授と」

「やめたほうがいいですよ」彼女は即答だった。

「そいつが黒幕濃厚だろうが」

「僕も賛成です。荒唐無稽な仮説に付き合ってるお暇なんて微塵もないでしょうに」

「ちょっと話を聞くだけだ」

「そのちょっと話、でどれだけ僕らの信用を落としているか。省みたことありますか?」

「疑わしいとこは片っ端から潰すべきだ。教えろ。どこのどいつだ」

 黙りやがって。

 意地でも吐かないつもりか。

「龍華」

「そんなことより、僕の報告聞きません? 使いっぱしりさせられた感想文など」

「勘違いだ」

「これを見てもそれが言えますか」

 紙。

 CDEFGAHB

「だからそいつは医者の自作自演」

「前妻の元にも届いたんですよ」龍華が言う。

「そいつが送ったんだよ。ご丁寧に」

「よく見てください。微妙に違うんですよね」

「違うやつを送ったんだ。わざわざ二種類作って」

「そうする意味は?」龍華が言う。

「自作自演の上に偽装工作だ。ふてぶてしい」

「同じものが届くならわかります。偽装工作だけなら同じものでいいと思いませんか。わざわざ違うものを作って」

「知るか。あいつに訊け」

「訊きました」龍華が言う。

「ほお、なんて? とぼけたんだろ。知らないって」

 ちらっと横目で見てみると。


 Celebrate

 Darling

 Engage

 Fiance

 Gestation

 Accomplice

 Heir Bride


 ちょっとどころか。

「全然別もんじゃないか」

「届いた時期も違います。結婚式当日、式場に届いたそうです。電報で」

 もう一枚。龍華の意訳付。


 Celebrate  祝

 Darling   最愛の人

 Engage   婚約

 Fiance   婚約者

 Gestation  妊娠

 Accomplice 共犯者

 Heir Bride 後継者・花嫁


 一つを除いてさほど結婚式の場に似つかわしくないとも思えないが。

「共犯者ってのは」

「これを眼にしたときの彼の様子がいまでも忘れられないと」前妻談か。

 共犯者は?

「奥さんがこっそり隠し持っていたそうです。これが離婚の決め手になったわけではないらしいですけど」

「共犯者と後継者が気になるなあ」彼女が紙を爪の先でつつく。

 そうだろう。

 やはり共犯者に眼をつけるべきだ。

「ねえ、妊娠てことは」彼女が言う。

「子どもはいないそうです。いたらいたで殺されていたのではないかと」

 送り主に。

「こいつに別れさせられたんだろ、要は。そうか。医者の」

 同居人。妻、と言わなかった理由がようやく。

 ということはなにがなんでも。

「同居人とやらを」

「そこまでわかってて捜さないわけがないでしょうが」龍華が言う。

 紙の束。ダブルクリップで留めてある。

「始末書か」

「こんな状況で薄ら寒いギャグ飛ばさないでください。面白くないですから。死んでるんです。十年以上前に。憶えてらっしゃいませんか。管轄外ですけど、当時だいぶ騒がれた事件ですよ。マスコミ好みの。いわゆる異常殺人てやつです」

 確かに当時は管轄外だが。いまは。

「あったか、んなこと」

「そこの動物園ですよね。いまもう誰も話題にもしないけど」彼女がふんふんと頷く。

 知らないのは俺だけのようだ。

 十年以上前なら龍華だってまだ学生。彼女だって、龍華とそう変わらない年代の。どこぞの俺と違って島流しに遭っていない。

 出世コースを着実に。妬ましい。

「ちょっと待て。じゃあ」

 せっかく雪国にまで遠路遥々。アトリエは端っから。十年以上も前から。

「完全勇み足の無駄足でした。お疲れ様です」龍華がぺこんと頭を下げる。

「まさか、とは思うが」

 全部知ってて。

 なんだその含み笑いは。

「だって、ご自身の眼で見ないものは信じないでしょう。わかっていただけたなら光栄です」

 ぱらぱらと捲る限り、あることないこと根掘り葉掘り。何が真実かわかったもんじゃない。

 ここに真実はないのだろう。

 そもそもどこにもないんだから。

 全裸死体。両腕切断。すべての指が切られ。

「同一犯の可能性はないでしょうね」龍華が言う。

「なにを根拠に」

「犯人捕まってるんですよ。でも取調べ中に自殺を図ったそうで」

「そいつじゃなかったんじゃないのか。冤罪で」

「そこら辺はこっちに書いときましたので。僕が眠ったあとにでもどうぞ」

「丸投げか。自分で取り上げといて」

「さっきまでぐうぐう高いびき掻いてた人に言われたくありません。お先に、じゃないですね。おあとに」龍華が退室する。

 怒鳴りつけてやろうかと思ったが。

 俺が休んでいる間にせっせと作っていたらしい。彼女が苦笑いする。

 仕方ない。眼を通すまでの間だけ。

 こんなの読むより、当時の担当に訊けば手っ取り早い。

「おかしいと思いません?」彼女が身を乗り出す。胸部を強調してるのがわかってうんざりした。「そんな異常な死体が発見されたとこが廃業に追い込まれていないなんて」

「時が経てば忘れる。十年前だ」

「そうかなあ?」何か知ってるような口ぶりが腹立たしい。

 誘導されてる?

「どういう意味だ」

「事件後、従業員が次々と辞めている。そんなことがあった現場です。来たがるでしょうか。動物園ですよ? 客は圧倒的に親子連れ。イメージの回復に必要なのはたった一つ。援助の手が入ったんですよ」

 つやつやの指で差す。記事の。

 息を吸い損ねた。

 音楽関係最大手企業。

「事件担当者に話をお伺いするより、面白くなりそうじゃありません?」

 第一の被害者。

 第二の被害者。

 容疑者。

 被害者候補。

 重要参考人。

 また、

 お前か。暴君社長。


      3


 居ついてるのはえんでじゃない。

 えんでは死んだのだ。確かに。

 第一発見者が俺なんだから。

「お久しぶりですね、ええ。実に」葬式以来。

 結佐は、わざと言わなかった。

 言う必要のないことがとかく多すぎる。

 えんでは。「死んだよな?」

「何を仰るのかと思えば、今更。笑ってますよ」

 そうだよ。

 邪魔するな。取り込み中だ。

「では、ここにいらっしゃるのは」結佐が言う。

「抜け殻」

「霊魂は不滅だとでも? 成程。ニンゲンだったかどうかすら怪しいですしねえ」

 キリンの前で立ち止まる。つい。

 結佐は興味がないらしく、柵を背もたれに。俺と眼を合わせたくなかっただけかもしれない。

「むしろ霊魂ですかねえ」

 先生元気みたいだね。

「お元気そうで何よりですよ」結佐が言う。

「なんで結婚した?」

「離婚した理由と同義です」

 離れられない逃げられない逃がさない。離さない。

 えんでからは。

 よく見るとグロテスクだ。キリンに限ったことじゃない。

 ニンゲンだってよく見ると。

 よくもこんなのの狭間で。

「聴きに行かれるんでしょう」リサイタル。

「もらった分は働く」一生こき使われても見合わないような額だが。

「いつから貴方カネで動くようにおなりに」

 わかるだろ。

「しっかり摑まえとかないといけませんねえ」結佐が言う。

 大義名分だ。えんでにこれ以上。

 ニセモノだとしても。

 こんなことさせたくない。

「ではまた」お互い生きていましたら。結佐はそれを省略した。

 わざと。

 キリンを見てたので例のあの顔を見ずに済んだ。俺でさえ三日は消えない。初対面なら最低一ヶ月ちらつく。

 時間差でようやく笑顔だとわかる強烈な表情。

 結佐が何か隠してるのはいまに始まったことじゃないから。

 過去掘り返すのは厭だ。探偵じゃないっつってるのに。

 結佐と前妻が結婚したのは、確か。学生のとき。

 そのあと、俺が鬼立と再会したあたりだから、十年も一緒にいない。えんでに別れさせられた。

 どんな手を使ったのかは想像に難くない。えんでに迂回はできない。直接言ったのだろう。別れろ、と。

 えんではピアニストを目指してた時期がある。途中で断念してピアノ講師になったのだが、それも辞めた。結佐のとこに居つくようになってから。転職した。

 指の彫刻家。

 えんでが作ってるのは指を模したなにか、ではない。指だ。

 指そのものを自らの指で創り出している。指先による指先の創造。

 あまりに個性的な作風のため、長らくパトロンが現れなかったが。それでも個展を開くまでには漕ぎ着けた。蓼食う虫も、というやつだろう。俺もその虫の一匹だが。

 なんで結佐のとこからいなくなった?

 あんなに先生先生ゆってたのに。

 死ぬため?

「死んでないって」

 寝る間際に入ってこないでくれ。

「じゃあ寝なきゃいい。先生とは離れてないよ」

 死んだよな?

「きみの定義だと死んでない。ただ、鬼立の定義なら」

 死んだ。

 んじゃ、やっぱあれは。動物園の。

「ほんとに僕だと思ってる? 確認したの?」

 死んでないんだな?

「きみの定義ならね。あれはね、僕の成れの果てみたいなもんだから。死に方しか選べないじゃん?ニンゲンて。死に方も選べないフコーなのもいるけど。僕が死ぬんならあの方法がよかったってだけ。先生の眼の前、てのも考えたんだけどさ」

 死んでない。えんでは。

 亜州甫かなまは教え子だ。すぐわかった。

 しかも、えんでに傾倒してる。

 えんでの弾き方を真似しようとしたんじゃない。えんでそのものになって、ピアノを。えんでが叶えられなかったピアニストという夢を。代理行動。

 そんなこと頼んでないのにね。

「来てくれるかなあ」亜州甫はそう言った。

「呼べっつうことか」

「見せてあげたいんだ」

 聞かせてやりたい、じゃなくて?

 火曜の深夜まで気を張ってたせいか、水曜は朝からぐったりだった。

 リハーサルだとかで。その割に、会場に来てからただの一度もピアノに触れてない。亜州甫は最前列のシートですやすや居眠りを始めた。

 出入り口という出入り口に制服と私服を配備。させたかったんだろうが、営業妨害だと暴君直々にクレームが付き。

 有能なら君一人で充分だろ、と。

「ですが、何かあってからでは」鬼立が食い下がるも。

「何も起こすな。それが仕事だろう」社長が言う。

 俺がいなかったら殴りかかってたかもしれない。鬼立がいなかったら俺が殴りかかってたが。

「ステージの上にいる奴がどうやって、客席の人間を殺しに行けるんだ。聴衆全員が証言できる。何か間違っているか」暴君は客席に眼線を。亜州甫が眠っている。「そこまで言うなら特別席をやろう。あの上」二階席。ステージを見下ろせる。「と、そこだ」袖。いつでもステージに駆けつけられる。「せいぜい眼でも光らせていろ」

「お聴きになられないのですか」鬼立が念のため尋ねた。いちいち細かいところまで気が回る。

「開演まで何時間あると思っている?」社長が言う。

 公演中に殺せないんなら、公演前後に殺すしかない。

 仕事熱心な鬼立が言いたかったのはそうゆうことだ。

 やる気あんのか。

 鬼立が息を吐く。「眼、離すなよ」

「お坊ちゃんは」どこにいるのか。何をしているのか。

 切れすぎる鬼立警部の、優秀すぎる部下・龍華はああ見えて、出どころの悪いお坊ちゃんなのだ。誰も知らないが。

「開演まで何時間あると、じゃないのか」溜息。

 甲高い音階が響く。亜州甫が跳ね起きたときの絶叫。

 時間差で龍華が走ってくる。慌ただしく動き回るスタッフとぶつかり謝りしながら。

「持ち場を離れるなと」鬼立がうんざりした表情で言う。

「入れろって聞かないもんですから」龍華は自分に非がないという顔で言う。

 あまりに堂々としすぎて気づかなかった。

 亜州甫が両手を広げる。「待ってたよ」

 悪魔くん。

 全身黒の。しかし、悪魔という呼称はそうゆう意味ではないようだ。

 すかさず龍華が参考資料を引っ張り出す。モニタ。暴君社長と契約するアーティストの紹介。

「ん?悪魔の」読めない。

「ゆーきょーです。誘響。なんでも社長直々命名の煽り名だそうで」

 亜州甫がともるに。「返事聞かせてよ」

「はい。お受けします」

「ほんとー? やったあ。これで盛り上がるね」

 何の話だ?

 亜州甫はともるの手を摑んで大袈裟に万歳。その勢いでステージに飛び乗る。案外身のこなしが軽い。

 鬼立があからさまに顔を背けたのは。

 ああそうか。

 無駄なところがなんともはや。見たってどうってことない。とは思えないから見なかったのか。しかしあんだけ短かければ見るなと言うほうが。

 こんなんじゃ、ステージ衣装なんか見たら卒倒しかねない。

 仕方ない。俺が袖で。

「頼む」鬼立が言う。

「なんだ。妙に」

 萎らしい。

 いつもならお前に任せておけない、とかでぎゃんぎゃん食いついて。

 おかしい。

 どうした。「鬼立?」

 マイク。亜州甫が高らかに宣言する。

 悪魔くんが飛び入り参加で弾いてくれることになったよ。

「よろしければ僕が代わって」部下の真の意図が見え見えで。

「いい。帰れ」ボスの代わりに追い返す。

 開場時刻を回って、客がわらわら集まりだす。圧倒的に女が多い。アイドルのコンサートかなにかか。

 龍華は似たようなものですよ、と言い捨てて持ち場に戻った。ボスの睨み不可視光線が降り注いだのかもしれない。

 入れ違いで、グレイのスーツを装備した背の高い女が袖にやってきた。ヒールが床を苛め抜いている。きょろきょろと周囲を見回して。

「上だぞ」鬼立の居所だろう。

 電話口の女。

「よく私だとわかりましたね。初対面なのに」

「部下に女はいない」

「中榧君はどちらに?」

「楽屋じゃねえの?」

「お邪魔ですか」

「鬼立と同意見」

 客席の照明が落ちる。ぶーという開演の合図。

 ともるがピアノと向かい合う。音が増える。

 思わず聴き入ってしまう。間抜け面を見られはしなかったかと隣を。

 女はぽかんと口を開けて。

 表には亜州甫の単独公演としか銘打っていない。事前通告も何もなかった。疑問も疑念も全部吹っ飛ぶ。

 これは、すげえ。

 暴君社長が死なせたくないと言った理由がよくわかる。あっという間だったのか相当の時間経ったのか。音が消えるまで、ともるが袖に戻ってくるまで。

 照明が落ちる。

 ようやく拍手。

 遅い。鬼立の位置が羨ましい。

 ここからじゃ背中しか。

 指が見たかった。きっと、光より速い。

 袖には心許ない白熱灯。

 音が。

 して幕が上がる音。じーという。

 音が。

 しなくなってステージに明かりが。

 飛び散る。

 しゅーという。

 赤い。黒い。

 ライト。

 飛沫。

 鬼立が怒鳴る声がした。

 幕を。早く。

 なんで下ろすんだ。いま上げたったばっかじゃ。

 音が。

 大丈夫。鬼立の声が聞こえたんだ。

 耳は。

「なにしてんだ。幕」

 なんで動かない。気づかないのか。

 観ろ。

 いるだろ。

 聴け。

 いないんだ。

 あまりに鮮烈な。暗闇になってやっと。

 音して。

 亜州甫かなまが椅子から。


      4


 なにやってたんだ、と怒鳴る権利は俺にはない。

 怒鳴られる義務なら大いに。

 袖にいた探偵の眼を盗んで。どうやって?

 頚動脈掻き切って。

 亜州甫かなまを殺したいなら他のタイミングのほうが確実だ。いくらでもチャンスはある。なにもステージ上でなくたって。

 そんなことより、殺されるのは亜州甫かなまでなくて中榧ともるのほうじゃないのか。

 指だって。

 左の中指じゃ。間違えた? 

 どこをどうしたら。

 隣だから?

 違う。人差し指と中指は。狂った?

 手元。予定。

 指はまた見つからない。

「お前もう考えるな」と、探偵に言われても。

 俺が考えなければ誰が。

「あっから見ててなんか」二階席。

 俺はそこにいた。

「お前こそ」袖なら見えてないはずが。

「入れ違いになるときに一瞬な、暗くなったんだよ。やるんなら」

「出来るのか」

「やる気の問題じゃねえ?」探偵が言う。

「そうじゃない。可能かどうか」

 暗いということは、探偵から見られないが。やった本人も亜州甫かなまが見えなかったのでは。

 いや、見えたのだ。

 見えたから亜州甫かなまは。「ペンライトでも持ってれば」

「そうだったら俺が気づくだろうが。なんもなかった」

「ええ、何も」見慣れた缶。

 眠気覚ましに、と監視役の彼女が買ってきてくれた。

 ということは。

「帰られましたよ」

 彼女には。暴君社長の相手を立候補したので任せていたのだが。

「どうやって?」

「謝罪しました。我々が至らないばかりに、て」

 念のため、聴衆一人ひとりの連絡先を控えさせる。おそらく完全に無駄手間だ。龍華は露骨に厭な顔をした。自分の役割をよく理解している。

 ホールでは。飲食禁止の注意書きが眼に入る。

 現場だ、と言い聞かせて我慢する。アタマが冴えないのはこれが切れているせいだろう。眼も霞む。

 自分は一体何を見ていたのだ。

「飲まねえの?」と探偵。

「どうぞ。遠慮せずに」と監視。

 追い出そうという魂胆だろう。意地を張っても仕方ない。

 ただっ広いホワイエ。

 天井から星が吊る下がってる。きらきら。眩しくて眼を擦る。

 一気に飲み干した。

 味なんかわからない。記憶で照合。いつもの味だ。

 もう一本、と思って見回す。自販機を。

 売り切れ。

 どうしてこう。タイミングの悪さには自信がある。

 ソファに戻ると。見覚えしかないデザインの。

 捨て忘れたか、と思ったが。持ってみて、重い。中身が入ってる。未開封。

 誰だ。

 監視は探偵と一緒にホールにいるはずだから。

 龍華の顔がよぎったが、絶対にそれはない。あいつは俺が嫌いだ。第一、与えられた仕事を放り出して大嫌いな上司の好物を差し入れするなどと。

「飲みますか」中榧ともるだった。

 まだいたのか。違う。

 帰すわけにいかない。

「間違って押したんです。動揺してるみたいで」

「そうか」

 それは。

 そうだろう。眼の前であんな。

「気の毒だったな」

「なんでそんなこと言うんですか」中榧ともるが言う。

「なんでって」俺のせいだから。俺がちゃんと見張ってれば。

「あなたが殺したんですか?」

「そんなようなもんだよ」

「殺したんですか?」実際に手を下したのか。彼はそう訊いている。

 首を振る。

「一曲も聴けなかった」

 俺を引っ掛ける餌だったかもしれない。

 缶コーヒーを置いて、籠を仕掛ける。つっかえ棒を引っ張ると、飲んでいる間は動けない。罠にかかる。俺ほいほい。

「ケーサツの方ですか」中榧ともるが言う。

「絶対に捕まえる」

「どんな悪いことをしたんですか?」

 誰が。

「悪いことですか?」中榧ともるが言う。

 直感。

 探偵に考えるな、と注意される理由はここにある。

 わからないのだ。わかったことが。

 わかったと気づいたときにはすでに。

 わかるわからないの領域の外に。

「似てるんです」中榧ともるが言う。

 誰が。

 誰に。

「でも似てるだけでした。違った。あれは、よかったんですけど」

「悪いが、わかるように」

「わかりませんか?」中榧ともるが言う。

 ほら、もう。

 わかるわからないの領域の外に追いやられて。

 さっき観たことも、あのとき聴いたことも。

 全部同じカテゴリに。

 時系列の概念が消える。さも昔から知っているかのような。

 意識できるのはいま、だけ。

 いま、を過ぎるとすべて同等。過去もずっと前の過去も未来もずっと先の未来も。

 探偵は、それを時系列に並び替えてくれる。便利な。

「わからない振りをしてるだけに見えますが」中榧ともるが言う。

 考えるな。

 考えては。しかし、それはあまりにも。

 盲点?

「なんていうんですか名前」中榧ともるが言う。

 探偵と監視が袖にいたとき。亜州甫かなまがステージに向かおうとしたとき。

 中間にいたニンゲン。

 それが、中榧ともる。

 動機が見当たらない。

「訊いてどうする」

「探偵の人の」名前。

「そんなの本人に」

「来月までに片付けておいてください。ここで」

 弾きたい。

 探偵には左の。

 知ってるのは。

「殺し損ねた? はあ?」探偵が怪訝な顔をする。

「寸前で知ったのかもしれない。お前の」

 中指の。

 欠損。

「なんで殺さなかった? まだ三本目だ」法則は崩れないんじゃ。

「欠番か、後回しだろうな。思いつくのは」探偵が言う。

「んでそこまでわかっててむざむざ」

「曜日は崩さない。だからまた」

 次は木曜。来週。

 来月は。土曜。

「どの程度確かなんですか?」なんだその疑り深い眼は龍華。

「全員聞いたんだろうな」

「いまご自分で無意味だと仰りましたよ」

 聴衆は目撃者でしかない。

 ステージ上で血を撒き散らしたのは確かに。

「あれ?尊敬してたんじゃ。嫉妬でしょうかね?」監視が適当なことを言う。

 言うもんだから。

「なにに?」イラっときた。

「なにって。才能とか。あ、社長からの期待?」

「まともに考える気がないのなら黙ってくれないか」

「ちょっと、そんな言い方」よくわかってるじゃないか龍華。役割を。「サキさんすみません。警部きっと気が立ってて」

 どうした?探偵が小声で気遣う。柄になく。

 そんなの俺が訊きたい。

「なんか食うか」

 空腹のせいではない。探偵は監視に気を遣っている。

 腹立たしい。

 むしゃくしゃする。当てこすり。自分の無力さを棚に上げて。

「すみません。私、あっちの様子」視る必要はない。お前はその事件の担当ではない。お前の担当は。

 ここにいる。

 俺を見なくて何を。

 監視が消えてから話を振る。「調べたか」

「ビンゴとだけ」龍華が肩を竦める。

 左第二指。言い直したのも聞こえた。

「でもそれがなんだっていうんですか。下手な小芝居打ってまで。隠してるわけじゃないんでしょうに」

 結佐がいた大学病院。

 監視はそこで看護師をしていた。

 繋がった。なにが繋がったかはこれからこいつらが。

「そう簡単に吐かねえと思うがな」探偵が鼻で笑う。

「譲る」

 俺は、取調べが苦手なんだ。


      5


 鬼立を見張ってる女は、緒仁和嵜オニワサキという。名字が長たらしいうえにゴツいのを嫌っており、サキと呼んでほしいとのこと。

 呼ぶ機会があるかどうか。

「デートだったら喋りますよ」取調べなら黙秘する、ということだ。「私を尋問する権利はないはずですが」

「んじゃデートでいいや」

 どうも調子が狂う。結佐とは違う意味で。えんでとも違う。

 他ならぬ鬼立の直感だ。

「デートにしては殺風景なとこチョイスしますね。まあいいですけど。デートなんかどこ行ったっておんなじですよ。誰と行くかが重要であって。入院されてたことがあったんです。ご存知ですよね? 私が担当でした」

 随分とまあ、直球で。

 ボールこぼしたじゃないか。せっかくのストライクが。

 塁に出てしまう。

 ランナを出すな。叱責が飛ぶ。

 わーってる。

 まだまだ序盤。試合は始まったばっか。

「憶えてますよ。すっごく大きな人が来た、て大騒ぎでした。みんなで小窓かじりついて。知ってます?もしものときのために。もしも、て何だって感じですけどね。保護室のモニタだって、死んでたって寝てたってわかりませんよ」

「そっちじゃない。主治医の」

 結佐。

「主治医じゃありませんよ。あのときは、て、いまも違いますっけ。そう望んでたみたいですけど、若かったんで。いきなり困難事例は、てことなんでしょうね。私はそもそもそれが間違ってたと思います。あのとき、拒絶せず主治医になってれば」えんでは死ななくて済んだ。

 そうだろうか。

「元気ですか?」患者のことだ。

「元気の定義は」

「幸せですか」

「そいつは俺に判断できることじゃねえわな」

 そうですか。消え入りそうな音声。

 相変わらずだねサキは。

「元気だとよ」

 そうですか。息と一緒に吐く。

「志願したんだろ」鬼立の監視役を。

「あなたに会いたかった。文句を言いに」

「言ってみろ」

「もういいです。元気なら、それで」

 ノック。

 そんな律儀なことするのは龍華だろう。

 カップが二つ。盆に載せて。

 サキの前と。

 そのまま横流しした。俺がコーヒー嫌いなの知ってるだろうに。

「ご注文は以上でお揃いでしょうか。ごゆっくり」龍華が言う。

「なんだ。転職希望か」鬼立がここぞとばかりに嫌味を言う。

「警部がいる間は我慢します。パワハラにも耐えてみせますので」

「美味しい。本当に転職したら?」サキはすでに半分以上飲んでいる。

「冗談やめてくださいよ。結構繊細に出来てますんで」

 鬼立が飲み終わるまで待った。泥水じゃねえぞ、と皮肉ろうかと思ったが。

 毒盛って。

 ないか。それはない。いくら龍華が鬼立を憎んでても。

「検死結果とか」龍華が腰掛ける。サキの隣に。

「いい。殺った奴わかってんだから」

 わからないから解剖するのだ。わかってたら必要ない。無意味。捜査も推理も。

 未然に防ぐには。

 動機もないのかもしれない。その方向からでは止められない。

「今回のはそうだとして、一件目と二件目なんですけど」龍華がモニタから眼を離す。鬼立と話すときもそうしてやれ。

「それもそいつが」ちゃっかり鬼立が拾う。

 亜州甫ではなく。

 中榧ともるがやった。

「不可能なんですよ」龍華がわざと目線を落とす。「一件目の死亡推定時刻に彼、ステージにいたんです。しかもフランスの。二件目も」

「ステージじゃないだろうな」

「惜しいですね警部。客席です。証言取れてます。抜け出して、なんてことも不可能ですね。こっちはドイツだったかなあ。あ、そうですね。ピアノの」

 モニタ表示。

 フランスのリサイタル。ドイツのコンサート。

「どういうことだ?」鬼立が俺を見る。

「他にいるってこと?」サキも俺を見る。

「どうです?」龍華も俺を。

 見る場所がありゃしない。

「探偵じゃねえぞ」

「言ってませんよ。おわかりなんじゃないかと」龍華が眼を輝かせる。

「おんなじだ」

「わかりやすく言え」わかってるくせに。鬼立。

 サキへのサービスか。媚売り?

 いい加減、出世の道は諦めたらどうだよ。

 上に行ったって、下で燻ってたって。どうせ変わりはしない。

 カネ。名誉。地位。

 生憎どれもあの世に持ってけない。

 そうじゃないこともわかってる。

 正義。

 そいつも持ってけないってのに。

「んだから、一つ目と二つ目が」

 亜州甫。

 三件目でお役ご免になった。「引き継いだんだろうな」

 Heir後継者。

 そうゆう意味か?

 そう採ってもいいし。偶然でもいいよ。

「どうして、そんな」サキはあっち側か。んじゃあわからない。

 よかったな。正常で。

 そう。正常なんだよサキは。

 部屋に窓がない。腕時計を確認したが体内時計が異を唱える。

 鬼立は懲りずに泥水を買いに行った。これから会議を主催するので補給しておくのだろう。サキは報告がどうだとかで退室。

「なくなった指なんですけど」龍華が顔を上げる。

「見つからねえよ」

 喰っちまったんだから。

「出てきたそうですよ。さっき言い損ねてて」

「どこから」

 だから喰ったんだって。

「言いづらいんですけど、あ、それで言えなかったんですよ。サキさんもいましたし」

「どこだって?」

 木曜。

 指なし死体が発見される。

「来週じゃなかったのか」戻ってきた鬼立が眉を寄せる。

「俺に言ったとこで」

 どうした。見落としたか。

 なにを。

 それが何かわからないから。

 また、ですよ。

 龍華が耳元で呟く。俺が座ってるときを狙ったわけだが。身長差。

 まずいな。ともるは金曜に殺されるかもしれない。

 明日じゃない。

 来月の。

 切った指を死体の肛門に挿れる。ような奴はひとりしか。

 えんで。

 お前が。


      D


 研究のため。

 正気の沙汰じゃない、という捨て台詞だけ聞こえた。姿はばっちり。

 私が降りたエレベータに飛び乗ったのだから。

「だ、そうです」彼はどうでもよさそうに言う。

「さあ。私にはね、とーんと」

「でもケーサツ沙汰でしょう。地獄の沙汰は」カネですけど。彼は笑う。

 楽しかったわけじゃない。

 思考が乱れた、という自嘲の笑いだ。

 コーヒーが運ばれてきたが丁重にお断りする。「すぐに去りますのでね」

「どうぞ、しっぽりと」美人秘書には私たちの関係がそう映るのだろうか。訂正するほど間違ってもいないのだが。

 彼はしきりにエレベータのほうを気にしているようだった。誰かが上がってきたらまた話が中断してしまう。それを厭うている。

「外部から邪魔が入るとは思ってなかった」

「おや、被害届は出ていないのでは」

「噂流したくらいで取り調べられたら堪ったものじゃないよ。潮時かな。月曜付けで謝罪文掲示しよう」

 今日付けでないところが彼らしい。今週一杯は放置する気だ。

「感づかれてますよ」彼が嫌味を言う。

「でしょうねえ、ええ。とびきりの、はい。美人でしたし」

 美人。の部分をわざと強調した。

 予想通りの反応が。

 私が予想していることを読んで、その反応をなぞってくれたのだろう。

 なんとも優しい。

 冷たい眼。

 凍らないのは私くらいのものだろう。と自惚れてみる。

「キモチワルイ」

「いつでしたっけねえ」彼の唯一の親友とやらが帰ってくる日は。

 わざと話を逸らした。

 逸らせるなら何の話題だって構わない。

「帰国を止められたんだ。まずい病気でももらったんじゃない?」

「これはこれは。どこぞの精神科医のようですねえ。ははは」

「そんなヘマしないくせに」彼は、美人刑事が置いていった参考資料とやらをザッピングする。

 手付きからして丸きし興味がなさそうだった。訪問ですら想像の範疇内。

 彼は、自らの思考を超越してくれるものを歓迎する。

 反対に、自らの思考を超越しないものは黙殺する。

 ではなぜ、

 予想の範疇内だった美人刑事の訪問を許したのか。

 当然知っているであろう訪問のアポをわざと告げずに、突然の訪問だったと。美人秘書の演出が気に入ったのだろう。

「これなら講義のほうがマシだった」彼は怨み事を述べる。

「私がお相手すればよかったですねえ。ええ、次は是非」

「さっさと何とかしてきてよ」彼はこれ以上、予想の範疇内の訪問客が続くのを危惧している。

 そもそも貴方が傍迷惑な実験なんか思いつくから。

「一人しか思い当たりませんね」

 ゆびきりさん。

 エイヘンえんでの亡霊。

 成仏できていないのだ。

 私と添い遂げられなかったという心残りが。怨みつらみも妬みも嫉みも。

「だったらそう言ってきてって」彼が言う。

「私の告げ口じゃあ、どうでしょうねえ。身内みたいなものですしねえ」

「愛してるんじゃないの?」

「政府推奨のあのお徳用パッケージが馴染まなかっただけですよ」結婚。

 別れろといっておいて。

 別れていってしまった。

 別れ損ではないか。別れた妻には悪いことを。

「いっそ先生がやったってのも面白そうだけど」彼が言う。

「ご冗談を」

「おかしいな。真っ先に狙われたっていいのに」

 この人は。

 本当に。似ても焼いてもなんのその。

「持ってかれたら真っ先に教えてくださいね」彼が言う。

 そんな呪いを掛けずとも私の指は全部。

 あげると約束してある。条件付きで。

 私が死んだら。

 欲しかったんじゃなかったのか。要らなくなったのか。

 私より先に。

 全部の指を切り落としていなくなって。

 狂気の展示物。

 しかと眼に焼き付けました。あなたの、最期の。

 作品。

 燃やしてしまったのが悔やまれます。

 残りかすは土の下。掘り起こすのが面倒なので大人しく眠っていてください。

 確かに土の下。埋めたのを見ていなかったから。

 きちんと生死を確認しないから。

 駆けつける。

「来てくれたんだ」楽屋。

 そう。

 亜州甫君がいれば別に。

「お呼ばれされましたからね」

 着替え前でよかったようなそうでないような。

 期待してなくはなかったのだが。場所が場所だけに。

「こーふんする?」

「鍵をおかけになったんでしょうね、ええと、その」もしくは、ドンドディスタブ。そんな気の利いたカードはないのかもしれない。

 邪魔をされてばかりいる。

 人生ごと。

 音がして腰を引く。鍵盤に触ってしまったらしい。

「いいね、これ。そうゆうヒトいたよね」

「さしずめ解剖台がピアノですかね。ミシンと蝙蝠傘、どちらが」

 痙攣する。

 意識を超えたような錯覚。あの音を聴いたときに似ている。

 自我が崩壊する。

 ぬらぬらだらだら。その奥の押さえつけた何かが溢れてくる。

 心地いい。放してしまうには勿体ない。まだ、

 譜面に収めるにはあまりに。

 高音域と低音域が。

 ピアノでない音が聞こえた。ああ、だから。

 密室にしてほしいと。

「なあに?」亜州甫君は、私の肩に顎を乗せる。

 角度的には見えていないだろう。とは思うが、何をやっていたかは一目瞭然で。私には訪問客の顔が。

 見えない。見えなくてよかったような。

 お知り合い。

 うん、まあね。息だけの会話。

 抱いてる相手の顔だって。

「見たいの?」亜州甫君が言う。いじわる。

「すみません。失礼します」

 誰だ。

 私の知らない音。

「嫉妬しないでね」亜州甫君がアポなし訪問客に言う。

 どういう意味だろう。まさか、いや。

 それは。

 なんとも。

「僕は先生のものだから」

「素晴らしい演奏を楽しみにしてます」なんという腹の据わった受け答え。

 振り返るだけの価値があるかもしれない。

 黒い。

 残像が。レンズにこびりついて。

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