幸せの記憶
マークとミナセが見つめ合う。
それを見ながら、フェリシアは笑おうとしていた。
その腕に、ミアがしがみついた。
マークとミナセが微笑みを交わす。
それを見ながら、リリアが涙を拭いた。
その手をシンシアが強く握った。
愛しさと切なさの溢れるその空間で、静かにヒューリが夜空を見上げる。
その目に映るのは、たくさんの輝き。少し早めの羽化を終えた、たくさんの星屑アゲハ。
その輝きが、少しずつ範囲を広げていった。
光が散り始める。光の密度が低くなっていき、やがて周囲が暗くなった。
同時に、みんなの感情も落ち着きを取り戻していった。
ミナセに支えられて、マークが立ち上がる。
「みんな、すまなかった」
恥ずかしそうに目を泳がせる。
「その、何というか、こんなことになるとは……」
小さな声でそう言って、マークは黙ってしまった。
その隣では、ミナセが赤い顔をしてうつむいている。ミナセの性格では、マークのフォローなどできるはずもない。
気まずい沈黙が続いた。
その沈黙を、誰もが持て余していた。
これまで何度も場を和ませてきたミアでさえ、何も言わずに黙っていた。
その時。
『あなたは、死ぬことを望みますか?』
突然、声ならぬ声がした。
その声を、そこにいる全員が聞いた。
ミナセが慌てて周囲を探る。
ヒューリが剣に手を掛け、フェリシアが魔力反応に集中する。
目を見開くリリアの隣で、シンシアが耳を澄ます。
ミアは、目をまん丸くして驚いていた。
そこに、マークの声が響く。
「イシュタル!」
その言葉で、みんなは声の正体を知った。
あなたがイシュタル……
社長を苦しめた張本人……
ほんとにいやがった!
声が大きい……
どこにいるの!?
凄い、凄い!
一斉に社員たちが反応する。
そのすべてがイシュタルに聞こえたのだろう。イシュタルが苦笑を浮かべた、ような気がした。
『突然話し掛けてしまってすみませんでした』
イシュタルがみんなに謝る。
『失礼ながら、先ほどのやり取りを聞かせていただきました』
途端、ミナセの顔が真っ赤に染まった。
恥ずかしい……
ちょっと、ひどくないですか!
いつからいたんだよ
盗み聞き?
私の話も!?
凄い、凄い!
またもや社員たちが反応する。時に神とも呼ばれる存在に対して、社員たちは遠慮がない。
それぞれの表情から察したのだろう。今度はマークが苦笑した。
そして、イシュタルに話し掛ける。
「あなたは、ずっとそばにいてくれたのですか?」
イシュタルが答えた。
『時々、というところでしょうか。ただ、この世界に生きる知的生命体の中で、私が一番気にしているのがマークさんだということは、間違いのない事実です』
声が微笑む。
『さて、先ほどの質問ですが』
その声が引き締まった。
『あなたは、死ぬことを望みますか?』
イシュタルが聞いた。
マークが、宙を睨んだまま黙った。
社員たちが息を呑む。
ミナセが、心配そうにマークを見つめる。
マークが目を閉じた。
何かを思いながら、大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出していく。
マークが、目を開いてミナセを見た。
揺れる黒い瞳を見つめ、視線を落として、マークが優しくミナセの手を握る。
驚くミナセをもう一度見つめ、どこかにいるイシュタルに向かってマークが言った。
「俺は、死ぬことを望みます」
短い沈黙の後、イシュタルが答えた。
『分かりました』
湖面を撫でるように、柔らかな風が吹く。
始まったばかりの物語が唐突に終わり、そして、また新しい物語が始まろうとしていた。
「おい、聞いたか?」
「決まってんだろ。町中その話で持ち切りなんだから」
「たしか来週だっけ?」
「そう、来週だ。しかも俺の聞いた話じゃあ、とんでもない場所でやるって聞いたぜ」
「とんでもない場所?」
「ああ、そうさ。それが何でも……」
街角や井戸端が盛り上がる。
食堂や酒場が盛り上がる。
アルミナの町全体が浮ついていた。一部、涙を流して残念がる人たちもいたが、ほとんどの人がそれを聞いて喜び、その日が来るのを心待ちにしている。
その盛り上がりは、貴族や王宮にまで広がっていた。
「エレーヌ様、お聞きになりました?」
「えぇ、まあ」
「エレーヌ様は、あの者たちとお親しいのでしょう? 何とかよいお席を取れないものでしょうか?」
「お席とおっしゃるけれど、そういうものは、たぶんないのでは……」
毎日のように押し掛けてくる婦人たちに、エレーヌが閉口する。
「国を挙げて行うべきだと、わしは思うがな」
「そうですな。武術大会以上の税収増加が見込めるでことしょう」
「いや、そういう類いのものではないかと……」
勝手なことを言う王とアウル公爵を、ロダン公爵が必死に押さえ込む。
噂がアルミナの町からイルカナ国内に溢れていった。それは国境を越えて、他国にまで広がっていく。
使者や商人が行き交い、波紋が波紋を呼んでいった。
大陸の中央がにわかに騒がしくなっていった。
そして、その日が来た。
かろうじて宿屋がやっているだけで、ほとんどの店が臨時休業。修理や工事も休み、もの作りも農作業もすべて止めて、町は晴れの日を迎える。
広場の真ん中に、大きな雛壇があった。
その周りを、たくさんの人が囲んでいた。
イルカナ王とアウル公爵の姿があった。
ロダン公爵とエレーヌ、ロイとその妹もいた。
惣菜屋のミゼット夫婦がいた。雑貨屋の主人と床屋のおやじもいた。
ファルマン商事のご隠居と社長がいた。傭兵団の団長シュルツもいた。
サーカス一座の団員たちがいた。シャールの肩を抱く団長がいた。
もと漆黒の獣の兵士たちがいた。カイルとアランがいた。
アルミナ教会のシスターと子供たち、そしてフローラがいた。
杖をついたゴートと、隣に寄り添うサラがいた。
ウロルの冒険者パーティー、マシューたちがいた。
衛兵本署の署長と署員たちがいた。
カサールの裏家業の集団のお頭がいた。
ダイエット支援最初の顧客セシルが、次男坊改め夫と共にいた。
シンシアにお菓子作りを教えてくれたお菓子屋の店長がいた。
森の戦士ターラがいた。
ウロルの化け物サイラスがいた。
カサールの狂犬リスティもいた。その隣には、そっと微笑む女がいた。
小柄な老人が、トボケた顔で笑っていた。
次期エルドア国王のアルバートがいた。その後ろには、クロエと剣士と魔術師が控えていた。
少し離れた目立たないところに、ダナンとクレアの姿もあった。
アルミナの町の人たち。
エム商会と関わった様々な人たち。
たくさんの人が見つめる祭壇の上には、社員たちがいる。
リリア、ヒューリ、シンシア、フェリシア、ミア。
その五人が見つめる祭壇の中央。そこに、アルミナ教会の院長がいた。
「病める時も、健やかなる時も、あなたはこの者を敬い、慈しみ、生涯愛することを誓いますか」
「はい、誓います」
男が答えた。
「病める時も、健やかなる時も、あなたはこの者を敬い、慈しみ、生涯愛することを誓いますか」
「はい、誓います」
女が答えた。
「神の御名において、ここに二人が夫婦となることを宣言します」
院長が嬉しそうに笑う。
「では、誓いのキスを」
男が、恥ずかしそうに女を見た。
女が、恥ずかしそうに男を見た。
男が、真っ白なベールをそっと持ち上げる。
美しい顔が、喜びと恥じらいで紅色に染まっていく。
男がそっと顔を近付けた。
女がそっと目を閉じた。
震える唇が、震える唇と重なる。
黒い瞳から、一筋の涙がこぼれる。
リリアの目からも涙がこぼれた。
ヒューリは微笑んでいた。
シンシアが、自分のことのように顔を赤くしていた。
フェリシアが、吹っ切れたように笑っていた。
ミアが万歳していた。
広場に詰め掛けた人たちも、通りすがりの旅人も、空も鳥も、風も花も、それを見て微笑む。
厳かで穏やかな光景。
人々の心に深く刻まれた幸せの記憶。
暖かい気持ちに満たされた人たちが、全方位から二人を祝福していた。
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