マーク

『なぜなら、あなたには、他者や大気に含まれるエネルギーを自身の体に取り込むことのできる、特殊な経路が開かれているのですから』


 イシュタルによると、男には、この大陸を破壊しようとしている個体と同じ特徴があるとのことだった。

 男の持つ”気”、この世界で言う”マナ”は、それほど大きくなかった。しかし、それは訓練次第で増やすことができる。そして、男の持つ特殊な能力も、訓練をすることでその力を高めることができた。

 つまり、この世界で修行を積み、強くなった上でその個体と戦ってほしいというのがイシュタルの依頼だったのだ。


『あなたには、この村で言葉を学び、この世界の暮らしに慣れていただきます。その後、先ほど説明した種族のもとへ行き、修行をしていただきます』


 イシュタルの言葉を、男が呆然と聞く。


『現在あの個体は、ここから遠く離れた場所にいます。あなたの準備が整う前に、その個体と出会うことはありませんので安心して下さい』


 安心してと言われても……


 男の思考に、今度はイシュタルは反応しない。


『あなたがなるべく困ることのないよう、私は”神”として行く先々であなたを支援します。しかし、直接あなたを助けることはできません。また、あの個体の監視のために、私は時々あなたのそばを離れます。あなたにも、それ相応の努力をしていただく必要はあるでしょう』


 まあ、そうですよね


『私と話がしたい時は、私の名を強く念じて下さい。私が近くにいれば、すぐに返事をいたします』


 近くにいなければ?


『私にあなたの声は届きません。その場合は諦めてください』


 ……分かりました


『あなたにはまだ多くの疑問があるのでしょうが、こうしている間も、あの個体は多くの命を奪い続けているのです。無理は承知でお願いします。どうか、この大陸を救ってください』


 こうして男は、見知らぬ世界の危機を救うため、その世界で暮らし始めたのだった。



 男は、自分のことを”マーク”と名乗ることにした。男の本名は、この世界では発音しにくかったからだ。

 村の人たちと一緒に暮らし、言葉を覚え、そこでの生活に慣れてきた頃、イシュタルが声を掛けてきた。

 男は、親しくなった村人たちに別れを告げて旅に出る。イシュタルに導かれ、男は、ついにあの個体と同じ希少種族が住む場所に辿り着いた。

 イシュタルの”神の力”によって、男はそこで新たな暮らしを始める。同時に男は、その種族の戦士から戦い方を学んでいった。


 戦いにまるで縁がなく、ましてやマナなど意識したことのない男にとって、修行は苦痛以外の何物でもなかった。遅々として成長しない男に、戦いを教える戦士も困り果てていた。

 それでも。


 五年、十年、十五年……。

 男は修行に励む。


 二十年、三十年、四十年……。

 男は少しずつ成長していく。


 五十年、八十年、そして百年。

 男は、ついに至高の境地に辿り着いた。他者や、大気に含まれるエネルギーをも自身の体に取り込むことのできる特異な能力を使いこなし、その種族の中にあっても無敵の地位を確立したのだった。


『時は来ました』


 イシュタルが言う。


『今のあなたなら、あの個体と対等に戦うことができるに違いありません』


 男が覚悟を決める。


『あの個体は、大陸の果ての荒野にいます。さあ、共に旅立ちましょう』


 こうして男は、百年間住み続けた場所を離れ、大陸の果てへと向かった。


 一ヶ月、半年、一年……。

 長い長い旅の末、男はついに大陸の果てへと辿り着く。

 そこで男は、あの個体と出会った。


 自分と同じ能力を持つ男の出現を、その個体は心の底から喜んだ。

 百年以上に渡って破壊の限りを尽くしてきたその個体は、狂喜の声を上げて男に襲い掛かっていった。


 一時間、二時間、三時間……。

 戦いは続く。


 四時間、五時間、そして、六時間。

 周囲の景色が一変するほどの激しい戦いが繰り広げられる。


 やがて、戦いが終わった。

 最後に立っていたのは、男だった。

 歪んだ笑みを浮かべる死体の前で、男は、天を仰いで泣いた。


 男は役割を果たした。

 世界に平和が訪れた。

 人々は、恐怖の魔王がいなくなったことを喜び、そして復興の道を歩き始めた。


 それでも、男が元の世界に戻れる訳ではなかった。それはイシュタルでさえも不可能なこと。極めて稀な現象と、本物の奇跡が重なることでしか実現できない願いなのだ。


『私にできることであれば、何でもいたします。どのようなことでもおっしゃってください』


 イシュタルに言われて、男は答えた。


「お願いすることはありません。俺は、この世界で、自分の力で生きていきます」


 イシュタルに別れを告げ、男は当てのない旅に出た。

 世界を救った英雄としてではなく、ただの一人の男として旅を続けていく。

 老いることのない男は、一つの場所に長く留まることができない。男は大陸中を巡り歩いた。様々な場所で様々な人と出会い、様々な知識や技術を学んでいった。


 ある時男は、一人の女性と出会い、そして恋に落ちた。

 男は、自分が不老であることを隠したまま、その女性と結婚した。

 しかし、残念ながらその結婚はうまくいかなかった。


 どうしてあなたは、昔のままで変わらないの?


 妻に問われて、男は黙った。

 答えない夫を、妻は責めた。


 二人には子供がいなかった。

 夫婦をつなぐものは、互いを思い合う気持ち。

 その思いが壊れていく。


 まったく年を取らない夫を、妻は気味悪がった。

 会話もなくなった。互いに顔を見ることも少なくなった。

 やがて男は、真実を告げないまま、逃げるように妻のもとを立ち去った。


 男は彷徨った。何かから逃れるように、ただただ歩き続けた。

 時に男は、あえて戦いの場へと足を踏み入れた。戦っている間だけは何も考えなくて済む。己の罪と向き合わなくて済む。

 次第に男は、自ら戦いを求めるようになっていった。


 戦えば男は無敵だった。相手が何人いようとも、常に男は敵を圧倒した。

 そんな男に、とある国の王が目を付ける。


「お前にふさわしい仕事を与えてやろう」


 男は、王の誘いに乗った。男は、その国の軍隊に入ったのだった。

 そこで集団での戦い方を学び、より大規模な戦いに身を投じていく。


 男は戦いを求めた。

 己の存在意義を求めていた。


 男の力で、その国は強大な国へと変貌を遂げていく。次々と領土を広げていき、魔王のいる国として恐れられた。

 ある時男は、周辺諸国連合の大軍と戦うことになる。その軍の兵士たちは、悲壮な覚悟で戦場に立っていた。侵略者から自分の国を守るため、一歩も引かない覚悟で挑んできた。

 倒しても倒しても、後から後から兵士たちは男に向かってくる。

 仲間の死体を踏み越え、何かを叫びながら兵士たちは向かってきた。

 その状況に、男は逆上した。己の力のすべてを使って、敵の兵士を全滅させた。

 大地を埋め尽くす無数の死体を見た時、男は気が付いた。


 今の俺は、あの個体と同じだ


 後悔と、巨大な罪悪感。

 居たたまれなくなった男は、百年ぶりにその名を叫んだ。


「イシュタル!」


 返事は、すぐに返ってきた。


『ここにいます』


 男は、イシュタルに懺悔をした。

 地面にへたり込んで、男は泣き続けた。


 やがてイシュタルが言った。


『ここではない別の土地で、新たな人生を歩んでみてはいかがでしょう』


 別の土地。

 それは、イシュタルの生まれた場所。海を隔てたもう一つの大陸。


『私が導きます。航海に最良の季節もお教えしましょう』


 イシュタルの提案に、男は頷いた。

 強い力を封印し、男は再び大陸の果てを目指す。そして、海辺の町でまじめに働いて船を買った。

 漁師も船乗りも、大陸間を移動する航海術など知らなかった。しかし、その海を渡ったことのあるイシュタルが、風向きや潮の流れを教えてくれた。

 男は、たった一人で海に出た。

 イシュタルに導かれながら、大海原を越えていく。


 そして男は辿り着いた。

 イシュタルや、ほかの意識体の生まれ故郷。

 精霊と魔法の世界。


 大陸の東に位置するその国で言葉と文化を学び、男は新たな旅に出た。

 見知らぬ大陸を男は彷徨う。

 老いることのない男は、一つの場所に長く留まることができない。


 それでいいと、男は思った。

 罪を背負った自分には、人と深く関わることなど許されないのだから。


 だが。


 いつしか男は、耐えられなくなった。

 いつしか男は、孤独に耐えられなくなってしまった。


 やがて男は決意した。

 偶然辿り着いた大きな町。その片隅で小さな会社を作って、誰かの役に立つための仕事を始めた。

 大陸の中央に位置する王国、イルカナ。その王都アルミナで、男は、何でも屋”エム商会”を立ち上げたのだった。

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