別の世界

「俺はすでに、三百年以上生きている」


 その言葉を、即座に理解できた者はいなかった。頭の中で、みんながその言葉を繰り返す。

 しかし、やはりそれは、納得することも、頷くこともできない言葉だった。


「いつかは話さなければいけないと思っていたんだ。それが、今なんだと思う」


 社員たちが混乱と困惑に包まれる。


「少し長くなるが、聞いて欲しい。俺が”この世界に来た”時の話と、その後の話だ」


 目を見開くみんなを一人一人見渡し、最後にミナセに視線を止めて、マークが語り始めた。



 遠く離れた異国の地。魔法のかわりに”科学”が発達した国。そこに、一人の男が住んでいた。

 ある日男は、仕事に向かう途中で、突然視覚に違和感を感じる。


 景色が奇妙に歪み始めた。

 周囲が奇妙に瞬き始めた。


 何かがおかしい。そう思った瞬間、男の体はどこかへと吸い込まれていった。


 気付いた時には、草地に横たわっていた。

 濃い緑の匂いがする。その匂いに、気持ち悪い匂いが混じっていた。

 それは、錆びた鉄のような匂い。


 ……血の匂い?


 そう思った瞬間、男は全身に激痛を感じた。


 首を動かすこともできない。

 足にはまるで力が入らない。

 左腕は、痛みで動かすことができなかった。

 唯一動かすことのできた右腕は、肘から先が、男の意思についてこなかった。


 男がパニックを起こす。

 悲鳴のかわりに口から血が溢れ出す。


 男は悟った。


 これは死ぬな


 同時に、どうでもいいことが頭をよぎる。


 無断欠勤したら、部長怒るだろうなぁ


 そんなことを考えた自分に苦笑する。

 家族の顔、友人たちの顔を思い浮かべ、そして男は、静かに目を閉じた。

 その時。


『あなたは、生きることを望みますか?』


 頭の中に声が聞こえた。

 声ならぬ声。それは、まさに天上から聞こえてくるかのよう。

 だが、天のお迎えにしてはおかしな言葉だ。


『あなたは、生きることを望みますか?』


 もう一度聞かれて、男は答える。

 声は出せそうもないので、頭の中で、少し投げやりに答えた。


 そりゃあ、生きたいですよ


 仕事にも慣れて、だんだん面白くなってきた。

 週末には友達との約束もあった。

 恋人はいないけれど、何となく気になるくらいの人はいた。

 家族にだって、このまま黙って逝くのは申し訳なさ過ぎる。


 そんなことを考えながら、男は返事を待った。

 すると。


『私なら、あなたを助けるできます。そのかわり、私を願いを聞いてくださいますか?』


 まさかの交換条件。

 男の意識はすでに朦朧とし始めていた。ほとんど本能のままに、男は答えた。


 何でもします。だから、助けてください


 沈みゆく意識の中で、男は聞いた。


『ありがとう』



 気付いた時には、ベッドに横たわっていた。

 草の匂いも、血の匂いもしない。

 そして。


 ……痛くない


 恐る恐る、首を左右に振ってみる。左には扉、右には祭壇らしきものが見えた。

 恐る恐る、足を動かしてみる。両足とも、無事に膝を曲げることができた。

 恐る恐る、左腕を動かしてみる。左腕は、ちゃんと動いてくれた。

 最後に男は、右腕を持ち上げてみる。視界の中に右腕が見えた。肘から先も、ちゃんとあった。


 助かった、というより、生き返ったのか?


 視界の中の右腕は、見慣れた自分のものだった。血はついておらず、着ていたスーツがなくなっている。

 やっぱり何が起きたのか分からない。

 とりあえず、ここがどこなのか確かめるために、男は体を起こそうとした。

 すると。


『そのままで聞いてください』


 あの声がした。

 驚きながらも、男は再び体を横たえて耳を澄ます。


『ここは、あなたの住んでいた世界ではありません』


 相変わらず意味が分からない。

 疑問に答えるように声は続く。


『あなたは、次元の割れ目に落ちてこの世界にやってきました。それはまったくの偶然ですが、割れ目を通ってなお命を保っていたのは、本当に奇跡的なことなのです』


 どこかで読んだ小説のような話だ。

 まるで現実感がない。


「あなたは誰なのですか?」


 男が聞いた。

 声に出してみたが、答えはやはり頭の中で聞こえる。


『あなたの世界を、私は知りません。ゆえに、あなたに理解できるかどうか分からないのですが』


 少し間を開けてから、声が言った。


『私は”意識体”、あるいは、時に”神”と呼ばれる存在です』


 意識体、あるいは神……


 男はいろいろなものを思い浮かべた。天使や幽霊、絵画に描かれる神々しい姿や、その反対の禍々しい姿。

 それを読み取ったのか、声が言った。


『やはり、あなたの知識に当てはまるものはないようですね』


 声が笑った。


『私のことは、仮に”イシュタル”と呼んでください。私が初めて接触した知的生命体の名です』


 混乱する男に、イシュタルが説明を始めた。


 生命の形態も、物理法則も異なる二つの世界。

 本来つながるはずのないその世界は、しかし、極めて稀にその一部が重なり合うことがある。

 そこにできた次元の割れ目に、男が落ちた。

 割れ目に落ちたものは、生命体であろうと無機物であろうと、形状を維持できずに破壊される。普通なら、男の体は原形すらとどめていないはずだった。

 それが、瀕死の状態とは言え、生きたまま割れ目を通過した。加えて、男が生存可能な場所に落ちてきた。それはイシュタルの言う通り、まさに奇跡的な出来事だったのだ。


 突然降ってきた男を、イシュタルが偶然見付けた。その奇跡を驚くと同時に、イシュタルは、男が特殊な体質の持ち主であることに気が付いた。

 逡巡の後、イシュタルは、男の命を救うことを決断する。

 そうして男は助かった。

 同時に男は、多くの生物が当然のように持つ、ある特徴を失った。



『あなたの中にある、体を形作るための情報を一部書き換えさせていただきました」


 体を形作る情報を書き換えた?

 遺伝子操作ってやつか?


『あなたの世界では、そう言うのかもしれませんね』


 驚く男にイシュタルが言う。


『今後あなたの体は、一切老いることがありません。それは、私の願いを叶えていただくために必要な措置なのです』


 男が思い出す。イシュタルの願いを聞くこと、それが助けてもらうための条件だった。

 男の混乱を放置して、イシュタルの話は続く。


『我々意識体は、基本的に他の生命体に干渉することはありません。数も非常に少ないので、我々の存在を知る生命体はほとんどいないと言っていいでしょう』


 聞きたいこととはまるで違う話だったが、とりあえず男は頷いた。


『しかし我々は、この世界のあらゆること、特に、他の生命体の活動にとても興味を持っています。そして、時折知能の高い生命体と、思念を介して会話をすることがあります』


 まさにそれが今の状況なのだろう。


『目に見えない我々の声は、多くの生命体にとって神秘的なものに感じるようです。ゆえに私たちは、神と呼ばれることがあるのです』


 たしかに、こうして頭の中に直接話し掛けられたら、それは超自然的な存在だと感じるに違いない。


『ですが』


 声が、沈んだ。


『私たちは、全能ではありません。あなた方と同じように、様々なことを経験し、少しずつ成長していくのです』


 なるほど、と男が心の中で頷く。

 姿形は違えど、知能を持つ生命体であればそれが自然だ。


『ゆえに、私は間違いを犯しました。今から五十年ほど前に、一人の知的生命体と接触し、その体を強靱なものに作り替えてしまったのです』


 ほかの生命体に干渉しないと言いながら、十分干渉してるじゃないか


 心の中で男がつぶやくが、それはイシュタルに筒抜けだ。


『そうですね。申し訳ないとしか言いようがありません』


 イシュタルが詫びた。

 男が慌てる。


『話を続けますね』


 顔を赤くする男を笑って、イシュタルが続けた。


『この世界には、すべての生きとし生けるもの、植物や、私のような生命体さえもが持っている、特殊なエネルギーが存在しています』


 東洋医学でいう”気”のようなものだろうか?


『そうですね。それに近いものかもしれません』


 男の描いたイメージを読み取って、イシュタルが答える。


『それは、生命体のみならず、大気の中にも含まれる、この世界にとっては普遍のエネルギーなのです』


 男が頷く。


『多くの生命体は、それを意識することはありません。そのようなエネルギーが存在していることさえ知らない者がほとんどです。しかし、そのエネルギーを感知し、それを利用することのできる稀少種族がこの世界にはいます。その種族の中のある個体が、現在非常に大きな問題を引き起こしているのです』


 イシュタルの語りは続いた。



 目に見えないが、この世界のどこにでも存在している普遍のエネルギー。その種族において、それは”マナ”と呼ばれた。

 マナは、その種族にとって身近なもの。マナの流れを調べることで、体調の善し悪しや病気の有無を知ることもできた。医者は、例外なくマナの調整方法を学び、薬と併用して病気やケガの治療を行うことが普通だった。


 そしてマナには、もう一つの利用方法があった。

 それは、戦いでの利用。マナを練り上げ、強靱な盾として使う、あるいは波動としてそれを放つ戦闘術。

 自身が持つマナは、訓練次第で増やすことができた。大きなマナを持つ者ほど、戦闘では大きな戦力となった。保有するマナの量は、好戦的なその種族において、社会的地位を決定付けるほど重要な要素だったのだ。


 その種族の中でも、さらに特異な存在。他者や、大気に含まれるマナを自身の体に取り込むことのできる、恐ろしく特殊な経路を持った個体がいた。

 だが、その個体は病弱だった。

 戦えば強かった。しかし、その体力はすぐに底をつき、戦いの後は数日間ベッドの上で過ごさなければならなかった。

 さらにその個体は、好戦的な種族にあって、強く平和を望んでいた。


 強い力と弱い体。

 特殊な能力と異端の思想。


 その個体は、同族から憐れまれ、あるいは馬鹿にされ、あるいは疎まれた。

 その個体は、己の体を呪った。己の思想を嘆いた。己の無力を思い知った。


 ある日その個体は、自ら命を絶つことを決めた。

 ベッドに横たわり、ナイフを首筋に当てて目を閉じる。


 これですべてが終わる


 安堵と同時に、悔しさが湧き上がってくる。


 どうして自分が……


 理不尽な世界。

 愚かな選択。

 様々な思いが頭の中をよぎっていった。

 と、その時。


『あなたは、生きることを望みますか?』


 頭の中に声が聞こえた。

 声ならぬ声。それは、まさに天上から聞こえてくるかのよう。

 その個体は驚き、躊躇い、そして答える。


「はい、生きたいです」


 死を望んでいたはずなのに、その個体は、声に向かって強く答えていた。

 短い沈黙の後、再び声がする。


『分かりました。あなたに、強い体を与えましょう』


 次の瞬間、その個体の意識は深い水の底へと沈んでいった。

 

 気が付いた時、その個体はやはりベッドの上にいた。

 そして、己の体の変化に気が付いた。

 気だるさや疲労を感じない。それどころか、全身に力が漲っている。

 その個体は確信した。自分は生まれ変わったのだと。


 その個体は、同族と同じように暮らし始めた。

 その個体は、同族と同じように体を鍛え始めた。

 修行と戦いの中で、己の力を磨き上げていく。より多くのマナを集め、より大きな波動を放てるようになっていく。

 戦えば必ず勝った。勝つほどにその個体は強くなり、やがては他者を寄せ付けないほどの圧倒的な力を身に付けた。


 平和を望んでいたはずのその個体は、いつしか平和という言葉を忘れていった。

 己の強さに酔い、強さによって人々を支配していく。


 そして、その個体は孤独になった。


 やがてその個体は、支配していた場所を捨て、強い相手を求めて彷徨い始めた。

 その個体は戦った。

 相手が一人でも、数万の軍隊でも、その個体に勝てる者はいなかった。

 その個体が去った後には、何も残っていなかった。

 世界が恐怖した。世界が、壊されていった。



『私は、その個体が平和のために働くことを期待したのです。しかし、結果はその逆でした。強大な力を手に入れたその個体は、私の声にも耳を貸さず、それまでの鬱屈を晴らすように他者を蹂躙し、世界を壊していったのです』


 イシュタルの語りは続いた。


『もともと、その種族は非常な長寿でした。その上その個体は、己のマナの流れを制御することで、さらなる長命を手に入れたのです』


 それは大変だ、と、他人事のように男は思う。


『今や、その個体のいる土地、あなた方の世界で言う”大陸”は、滅びの危機に瀕しています』


 苦しそうに語るイシュタルに、男が聞いた。


 あなたが、その個体を止めることはできないのですか?


 その個体の体を作り替えたのはイシュタルなのだ。その力を使ってその個体を止める、すなわち、命を奪うことはできるのではないだろうか。

 男の疑問に、だがイシュタルは残念そうに言った。


『私たちがあなた方の体に与えることのできる影響は、じつは大きくないのです』


 そんなはずはないだろう。

 現に男は、瀕死の状態から助かった。不老の体まで手に入れた。

 それなのに。


『あなたを治療したのは、この神殿のある村の医師です』


 神殿?

 医師?


 男が改めて周囲を見回す。言われてみれば、たしかにこの建物は、神殿と呼ぶにふさわしかった。


『村人たちは、私を神と崇めています。村人たちに頼んであなたを神殿に運び、命をつなぎ止めるための治療を施してもらいながら、並行して、時間を掛けて私があなたの体を変えていきました』


 時間を掛けて?

 一体どれくらい?


『あなたが落ちてきたのは夏草が生い茂る頃でしたが、今はそれがもう枯れ始めています』


 つまり、季節が夏から秋に移る程度の期間ということか


『私がその個体の体を変えるのにも、同じように時間が掛かっています。相手が私たちを受け入れて、長い時間私たちに体を委ねてくれない限り、私たちは何もすることができないのです』


 イシュタルが、さらに続ける。


『もともと私は、この大陸とは違う、別の大陸で生まれました。そこには、私たち意識体の原形とも言える、”幼生体”がいます。その大陸において、それは”精霊”と呼ばれていました』


 精霊。そんな言葉を聞いても、すでに男は疑問を持つこともない。

 男は現実を受け入れ始めていた。


『幼生体が長い年月を掛けて成長すると、意識を持つようになります。さらに、それが数百年の時を経て成長すると、私たち意識体となるのです』


 年月の単位がいちいち天文学的な長さだ。


『幼生体の頃は、己の意思を持たないかわりに、人の意識に反応して様々な現象を起こすことができます。人を治療することも、人を傷付けることもできるのです』


 まるで魔法だな


 男が思った。


『そうですね。その大陸では、幼生体が引き起こす現象を、まさしく”魔法”と呼んでいました』


 イシュタルが答えた。


『しかし、成長して意識を持ち始めると、現象を起こす力は弱まっていきます。反面、知識を使って高度なことができるようになるのですが、何をするにも時間が掛かってしまいます。知性を持つ代償といったところなのでしょう』


 それで、俺の体を作り替えるのにも時間が掛かったってことか


『その通りです』


 イシュタルがすぐに反応する。

 男が顔をしかめた。話が早くて助かるのだが、思考がすべて読まれてしまうのは、さすがに気分がよくない。

 と思ったことさえも、イシュタルには筒抜けだ。

 イシュタルが黙ってしまった。

 慌てて男が言う。


「あ、あの、すみません。どうぞ続けてください」


 男は、声に出してそれを言った。


『私は未熟者ですね』


 神妙な声がする。

 しばしの沈黙の後、イシュタルが再び話し出した。


『あなたにはまだ知りたいことがあるとは思いますが、そろそろ本題に入らせていただきたいと思います』


 本題。

 そう言えば、イシュタルが男を助けたのには理由があるのだった。

 男が気持ちを引き締める。


『私があなたに望むこと。それは、この大陸で破壊の限りを尽くしている、先ほど話した個体を倒してもらうことです』


 男が目を丸くした。


「いやいやいや、それはいくら何でも……」


 咄嗟に言葉が口から漏れる。

 マナとかいうエネルギーと、それを操る稀少種族。その中でも、さらに特殊な能力を持った個体。しかも、その個体はほとんど無敵とも言える力を持っている。

 そんな相手に、自分ができることなどあるはずが……。


『いいえ、できるのです』


 イシュタルの声に、男が目を見開く。


『なぜなら、あなたには、他者や大気に含まれるエネルギーを自身の体に取り込むことのできる、特殊な経路が開かれているのですから』


 ……はい?


 男の思考が固まった。

 イシュタルが、”本題”を話し始めた。

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