ミレー湖

 事務所の中は静まり返っている。

 ミナセとヒューリは、じっとテーブルを睨んだまま動かない。

 リリアも、シンシアの肩を抱いてうつむいている。

 ミアは、ソファに背を預けてぼうっと天井を眺めていた。


 今日は土曜日。仕事を持っている社員はいなかったが、休もうとする社員もいなかった。


「みんな疲れているだろう? 気になるとは思うけど、交代で寝てくれ」


 マークが気遣うが、それに答える者はいない。

 かわりに、ヒューリがぽつりと言った。


「あいつ、もう帰ってこないつもりなのかな?」

「そんなことありません!」


 ガバッと体を起こして、ミアが大きな声で反論する。

 その目は、ちょっと怒っているようだった。


「でも、突然いなくなっちゃったし、シンシアの追跡を想定して細工もしてたんだろう?」

「それは、そうですけど……」


 冷静な言葉に、ミアの勢いがしぼんでいった。

 またもや沈黙が訪れる。誰もが黙って何かを見つめている。

 ふと、マークが問い掛けた。


「昨日も聞いたけど、フェリシアがいなくなるような原因を、誰か思い付かないか?」


 フェリシアが戻らなかった昨日の夜、マークは同じ質問をしていた。その時みんなは、曖昧に首を振るだけだった。

 しかし、ここ数日のおかしな空気を考えれば、みんなが何かを知っていることは明らかだ。それなのに、誰も何も言い出さない。

 マークは、怒っているのではなかった。

 マークの顔は、寂しげで、悲しげだった。

 みんながさらにうつむく中、ミナセが両手をぎゅっと握る。

 ミナセが顔を上げた。ミナセがマークを見た。ミナセの唇が、動いた。

 その時。


「ミレー湖」


 リリアが小さくつぶやいた。


「何だって?」


 あまりに小さなその声は、マークにほとんど届いていない。

 聞き返されたリリアが、今度ははっきりと言った。


「もしかしたら、フェリシアさんはミレー湖にいるかもしれません」

「どうしてそう思うんだ?」


 唐突な言葉にマークが首を傾げる。

 しかし、社員たちは大きく反応した。


「たしかにな」

「そうだ、きっとそうだ」

「間違いない」

「間違いないです!」


 驚くマークにミナセが言う。


「すみません、理由は後でお話しします。でも、たぶんフェリシアはそこにいます」


 黒い瞳を見つめ返して、マークが頷いた。


「分かった。ミナセとヒューリは馬車の手配を。リリアとシンシアとミアは、食べる物を用意してくれ」


 素早くマークが指示を出す。

 社員たちが動き出す。


「頼む」


 掠れるほど小さなマークの声を、聞き取れた社員は誰もいなかった。



「その先を右です!」

「了解!」


 六人を乗せた馬車が街道を疾走する。手綱を握るのはヒューリ、道案内をするのはリリアだ。

 ミレー湖は、星屑アゲハの群生地として有名な観光地だ。

 星屑アゲハは、蝶にしては珍しく夜行性で、羽が美しく発光することで知られている。輝きをまき散らすようにキラキラと舞う姿からその名があった。

 観光というものに縁のない社員ばかりで、そこに行ったことのある者は一人もいない。

 食堂で働いていた頃、客から話を聞いたことがあるというリリアが、途中で買った地図とにらめっこしながら御者台に座っていた。


「暗くなってきたな。ミア、そろそろ頼む」

「お任せください!」


 マークの声に、気合いの入った声が答える。


「マジックライト!」

「うわっ!」


 叫び声が重なった。


「ミア、強過ぎだ!」

「すみません!」


 ミナセに言われて、ミアが慌てて魔力を絞る。

 太陽が間近に出現したかのような眩しさに、ミア本人も目を眩ませていた。


「こ、これくらいでいかがでしょうか?」

「ああ、大丈夫だ」


 そっと目を開けながら、ミナセが答える。

 馬車は、山道へと差し掛かっていた。山の日暮れは早い。すでに道の先が見えなくなっている。

 だが、マジックライトのおかげで、かなりの速さで走っているにも関わらず道を外れることはなさそうだった。


「こんなに明るいと、フェリシアに見付かってしまうかもしれませんね」


 ミナセが心配する。

 すると、マークが言った。


「明かりは消せば何とでもなるが、魔力反応だけは消せないな」

「たしかに」


 ミナセが難しい顔をする。


「シンシア。フェリシアの索敵魔法を打ち消すことはできるか?」

「できない。ごめんなさい」


 マークに聞かれて、シンシアがうなだれた。

 索敵魔法を打ち消すことは、精霊使いであれば可能なはずだった。ザナンとダナンの兄弟がそれを証明している。

 しかし、目に見えない索敵魔法を打ち消すというイメージは、簡単にできるものではない。これまで必要なかったこともあって、シンシアは一度も訓練をしたことがなかった。

 マークが、シンシアの頭をポンと叩く。


「気にするな。どのみち、フェリシアに本気で逃げられたら誰も追い付けないんだから」


 シンシアが、申し訳なさそうに頷いた。


 山肌を縫うように道は続く。

 急な登りは馬車を押し、馬を時々休ませながら、みんなはミレー湖へと急いだ。

 峠を越えたところで、リリアが大きな声を上げる。


「見えました!」


 針葉樹の森に囲まれた小さな湖。月光に輝く鏡面のような水面。

 リリアの指さす方向に、目指すミレー湖が姿を見せた。


「フェリシア」


 マークが小さく名を呼ぶ。


「やぁっ!」


 掛け声と共に、ヒューリが馬に鞭を入れた。



 道の終着点、湖のほとりに馬車は到着した。


「ミア、明かりを消してくれ」

「はい」


 マークに言われて、ミアがマジックライトを止める。

 暗さに目を慣らしながら、みんなが辺りを見渡した。


 ミレー湖は小さな湖だ。歩いても、一時間あれば一周できてしまうだろう。

 時刻は日付が変わる頃。道の袂には小さな宿屋があったが、門灯の明かりが灯るのみで、部屋の明かりは一つも点いていない。

 この湖が賑わうのは、星屑アゲハが羽化を始める頃だ。それには少しだけ時期が早い。宿に泊まっている客も少ないのだろう。


 みんなが湖を見渡す。

 月明かりのおかげで、湖の対岸まで見通すことができた。湖畔を歩くのにも支障はない。

 問題は……。


「どうやってフェリシアを見付けるかだな」

「それと、どうやってフェリシアに近付くかだ」


 ミナセとヒューリのやり取りに、みんなが深刻な顔で頷いた。

 反則級の索敵魔法と、超強力な隠密魔法の使い手。加えて、大陸屈指のフライの達人。

 味方にすれば百人力だが、相手にするとなると、これほど厄介な存在はいない。見付けることも、近付くことも、それは至難の業に違いなかった。

 勢いでここまで来たものの、社員たちは途方に暮れていた。


「とにかく、湖畔を回ってみよう」


 湖の周りには、水辺に沿って遊歩道がある。マークの言葉に頷いて、みんなは遊歩道を歩き始めた。

 今夜は穏やかな晴天だ。風もなく、草木が揺れる音もしない。抑えているはずのみんなの足音がやけに大きく聞こえる。

 しばらく歩いた頃、先頭を行くマークがふいに言った。


「ミナセ。フェリシアがここにいると思った理由を、教えてくれないか」


 ミナセの顔が強張った。言葉がすぐに出てこない。


「ミナセも、ほかのみんなも知っているんだろう?」


 みんなも体を硬くした。答えることを避けるように、マークから目をそらす。


「言いにくいことなんだろうとは思う。それを聞いたところで、フェリシアが見付かる訳じゃないだろうことも分かってる。だけど」


 マークがうつむいた。


「俺は、フェリシアのことを大切に思っている。フェリシアのことも、みんなのことも守りたいと思っている」


 歩く速度を緩めて、足下をじっと見つめる。


「俺は、みんなに幸せになって欲しい。そのためなら何だってしたいって、本気で思っているんだ」


 マークの声は、震えていた。

 そんな声は、今まで一度も聞いたことがなかった。


「もしも俺がいない方がいいのなら……」

「社長!」


 ミナセが堪らず声を上げた。

 ずっと見つめてきた背中。その背中が、泣いていた。


「社長は悪くありません!」


 叫ぶようにミナセが言った。


「フェリシアがいなくなったのは、私たちのせいなんです。フェリシアを追い詰めたのは、私たちなんです」


 ミナセの声は泣きそうだ。


「社長が責任を感じることなんてありません。悪いのは、全部私たちなんです」

「だとしても、俺には話せないんだよな」

「それは……」


 いつもは冷静な二人が、感情の波に呑まれていた。

 リリアもヒューリも、シンシアもミアも、何もできないまま二人を見つめている。


「少なくとも、俺はここにいない方がいいんだ。フェリシアを見付けたとしても、俺がいたんじゃあ話ができないんだろう?」


 ミナセは答えられない。


「正直に言おう。俺は、会社の経営なんて今までしたことがなかった。だから、何もかもが試行錯誤だった」


 突然始まったマークの告白。

 全員が驚いてマークを見る。


「優秀な社員が集まって、俺は嬉しかった。みんなが互いに助け合い、それぞれが成長していった。みんなは、本当に俺の自慢の社員だった」


 誇らしい話のはずなのに、声はその真逆。

 まるで怒っているかのように、マークの話は続く。


「でも、俺は不安だった。俺なんかが社長をやっていていいのかって、いつも思ってた。だから、ヒューリが会社を辞めると言った時には、本当に動揺した」


 ヒューリが目を丸くした。


「結局ヒューリは辞めなかったが、あんな強引な引き止め方しかできかったことに、俺は自分を情けなく思ったんだ」

「そんな! 私は社長の言葉で……」


 驚いてヒューリが何かを言い掛けるが、マークはそれを遮った。


「いや、いいんだ。結果的には問題なかった。だが、そもそもヒューリにあんなことを言わせたのは、俺の責任だ。ヒューリが仕事でミスをした時に、俺が強く言い過ぎたんだ」

「社長……」


 これほど弱気なマークは見たことがない。

 ヒューリも、どう返事をしていいのか分からなくなっていた。


「そんな事があっても、みんなは俺についてきてくれた。みんなのおかげで、仕事はどんどん増えていった」


 うつむきながら、マークが話す。


「そしてついには、国家レベルの依頼がくるようにもなった。それをみんなは、見事に成し遂げてくれた」


 小さくマークが微笑む。

 その顔が、歪んだ。


「でも、俺は何もしていない。日常業務も、国を救う偉業も、実際に働いたのはみんなだ。俺は指示をするだけだった」

「そんなことは」

「いや、そうなんだ!」


 激しく振り向いて、マークは睨むようにミナセを見た。


 社長はどうかしている


 ミナセだけでなく、みんながそう思った。

 だが、マークの感情を鎮める方法が分からない。


 悲しそうに、ミナセが視線を外す。

 マークも視線を外した。

 勢いを落として、それでもマークの言葉は続いた。


「俺は、みんなの幸せを願うと言いながら、何度もみんなを危険に晒してきた。そのせいで、リリアやシンシア、ミアには、謝っても謝り切れないほどの嫌な思いをさせてしまった」


 嫌な思い。

 それはおそらく、人と戦うことを三人に求めたことだろう。


「そんなことは……」


 リリアが小さな声で言うが、マークは寂しげに笑うだけだ。


「俺は、もっともらしいことを言って、みんなに無理をさせてきた。俺の決断は正しい、そう思い込むことで、自分を正当化してきたんだ」


 上に立つ者の孤独。

 決断を迫られる者の苦しみ。


 それが言葉となって溢れ出す。

 社員たちの知らなかったマークの弱さ。それに初めて触れて、社員たちは呆然としていた。


「俺には、人の上に立つことなんてできなかったんだ」


 告白は続く。


「俺は、社長になんてなってはいけなかったんだ」


 泣きそうな声でマークが言う。


「俺みたいな人間が、人と関わってはいけなかったんだ!」


 マークが叫んだ。

 目を見開くみんなの前で、マークの感情が迸った。


 その時。


「もー、うるさいわね!」


 突然大きな声がした。


「せっかく人が感傷に浸ってるのに、何で静かにしてくれないのよ!」


 葦の茂みから、人が姿を現す。


「悪いのは全部私よ! 私が勝手に盛り上がって、私が勝手に逃げ出したんじゃない!」


 月光に浮かび上がる美しい女性。

 みんなが必死に探していた人物、フェリシアが、そこにいた。

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