母親
「慎重に検討した結果、今回のご依頼は、シンシアが担当させていただくことになりました」
リリアがきっぱりと言った。
「そう、ですか」
残念そうに、依頼主の男が肩を落とした。
それでも、依頼を受けてもらえたことでホッとしたのだろう。表情を緩めて、リリアの隣に座るシンシアに向き直る。
「シンシアさん、よろしくお願いします」
男がきちんと頭を下げた。
シンシアが、それに答える。
「よろしく、お願いします」
一時的とは言え、恋人を演じる相手。シンシアは男を直視できず、恥ずかしそうに目を伏せた。
顔を上げた男が、そんなシンシアをじっと見る。
その目が、だんだんと垂れていった。
エム商会のシンシア。
さらさら揺れる空色の髪と、透き通るようなブルーの瞳。
月明かりを連想させる、神秘的な空気をまとった美少女。
町で噂の、守ってあげたい候補ナンバーワン。
もしくは、妹にしたい候補ナンバーワン。
「可愛い……」
男が無意識につぶやいた。
自分の声に驚いて、男が正気を取り戻す。そして、慌てたように鞄から何かを取り出した。
「よ、よろしければ、これ召し上がってください。俺が焼いたクッキーです」
リボンで括られた小さな袋。それを両手で差し出す。
ほのかに漂う甘い香りに、シンシアが顔を上げた。
「いいの?」
可憐な声がした。
「どうぞ!」
男が全力で答えた。
「ありがとう。私、嬉しい」
シンシアが、嬉しそうに微笑んだ。
町で耳にするシンシアの噂。
物静かな少女が時折見せる微笑みは、衝撃的なまでに可愛らしい。
「俺、幸せです」
天国に行ってしまった男を、シンシアは見ていない。
シンシアの興味は、当然のごとくクッキーに向いていた。
顔が溶けてしまいそうな男に向かって、リリアが事務的に言った。
「では、早速打ち合わせを」
それから三日後、母親がアルミナにやってきた。
息子に町を案内してもらい、その途中で職場の菓子工房を訪ねる。息子の師匠と挨拶を交わし、息子がまじめに働いていることを確認すると、安心したように笑って工房を出た。
その日は息子のアパートに泊まった。雑然とした部屋にため息をつき、息子を叱り付けて掃除を始める。それが終わると、息子の好きな料理を作って、久し振りに母子で夕食を共にした。
そして、翌日。
「こ、こちら、シンシアさん。俺の、こ、恋人、です」
小さな食堂の窓際の席。
真っ赤な顔で息子が紹介する。
「はじめまして。お会いできて、嬉しいです」
微笑みながら、落ち着いた声でシンシアが挨拶をした。
「なんて可愛らしい子なの!」
二人の前に座る母親が目を輝かせる。
「本当にこの子があなたの恋人なの?」
「そ、そうだよ」
鼻の頭をポリポリと掻きながら、息子が答えた。
母親が息子を見つめる。短い沈黙が訪れる。
やがて、母親が笑顔で聞いた。
「シンシアさんは、どんなお仕事をしているんですか?」
笑顔ではあるが、その目は探るようにシンシアを見ている。
お腹にぐっと力を込め、だが表情は微笑みのままで、シンシアが答えた。
「エム商会という会社で、何でも屋をしています」
「エム商会ですって!? この国を救ってくれた!?」
「国を救ったのは、兵士の皆さんです。私たちは、少しお手伝いをしただけ」
「まあ、謙虚なのね。でも、社員の皆さんは凄い人たちばかりなのでしょう?」
「社員は、みんな普通の人です。私も、特別な人間じゃありません」
フェリシアから受けたレクチャーと、事前に行ったリハーサルを思い出しながら、慎重にシンシアが答えていった。
「いい、シンシア。母親にとって、息子は可愛いものなの。だからね、息子を奪った相手には厳しい目を向けるわ。笑顔の裏で、母親は常にあなたの粗を探しているのよ」
フェリシアの言葉に、シンシアが目を見開く。
「息子の幸せを願いながら、息子の恋人に嫉妬する。母親って言うのは、矛盾した存在なの」
母親になったことはなくとも、生々しい感情にはたくさん触れてきた。
その経験は若干特殊である気がしなくもないのだが、それでも、フェリシアの言葉には重みがあった。
「いい印象を与えるためには、常に控え目にすること。常に依頼主である息子さんを立てること。ただし、息子さんよりも母親を立てること。それが大切よ」
「分かった」
真剣に頷くシンシアに、フェリシアがいきなりダメ出しをする。
「分かった、じゃないわ。分かりました、よ。初めて会うお客様と接するみたいに、言葉遣いは丁寧に」
「わ……分かりました」
ぎごちない返事を聞いて、さらにダメ出しが飛ぶ。
「そんな顔してたらダメよ。冷たい表情は、相手を見下している印象を与えてしまうわ。はい、笑って」
「うぅ……」
「笑って!」
フェリシア教官のスパルタ指導に、シンシアが泣きそうになっている。
「やっぱり、リリアの方がよかったんじゃないか」
「今さら言うな」
つぶやくヒューリを、ミナセが睨んでいた。
母親の質問は続く。
シンシアが答えていく。
「そう……。シンシアさんは、大変な苦労をされてきたのね」
「全部、昔の話です。いろいろありましたけど、今は、とても充実しています」
儚げな印象の美少女。
その少女が、じつはいくつもの試練を乗り越えてきたことを知って、母親が目に涙を浮かべた。
シンシアの隣で、息子は大泣きしている。
「こんなにしっかりした人に巡り会えて、うちの息子は幸せだわ」
母親が微笑んだ。
その目には、優しさが溢れていた。
その目を見て、シンシアがそっと息を吐き出す。どうやら、シンシアは合格できたらしい。
「ところで」
今度は、息子に向かって母親が問う。
「あんた、貯金はいくらあるの?」
「えっ、貯金!?」
思い掛けない質問をされて、息子が驚いた。
「えっと、まあ、それなりに」
「具体的に答えなさい。あんた、いくら貯金しているの?」
さっきまで穏やかだった目が、嘘のように険しくなっている。とてもはぐらかせるような雰囲気ではない。
「いやあ、じつは、貯金はほとんど……ありません」
息子が白状した。
間髪入れずに母親が責め立てる。
「まあそうでしょうね。昨日あんたの部屋を見て分かったわ。無駄な物が多過ぎる。とくに服。クローゼットに入りきらないほどあったけど、あれを全部着ることなんて絶対ないわよね」
「そ、そんなことは……」
「嘘おっしゃい。ほとんどが新品同様で、着ている様子なんて感じなかったわよ」
「うっ」
母親の観察力はなかなか鋭い。
「だいたい今日着てる服だって、あんたに全然似合ってないのよ。無理してカッコつけてる田舎者って雰囲気がよく出ているわ」
「な、な……」
歯に衣着せぬ言葉に、息子は言葉を失った。
「菓子職人としては筋がいいって、お師匠さんがおっしゃっていた。まじめに働いていることも分かった。そこは母さんも認める。でもね、自分で店を持とうと思っている人間が、全然貯金をしていないっていうのは、情けないを通り越して呆れるわ」
口をパクパクさせる息子に、母親の説教は続く。
「仮に、お店を持つのはもう少し先だとしても、将来を誓い合った人がいるっていうのに、貯金もしないで浪費ばっかりしてるなんて、私からすればあり得ないわよ」
息子がうつむいた。言い訳ができる状況でないことは明白だった。
「それとね、これが一番気に入らなかったことだけど」
母親が言った。
「恋人がいるだなんて、嘘を言うもんじゃないわ」
息子の顔が真っ青になった。
シンシアの顔からも、血の気が引いていった。
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