妻と夫

 カツ、カツ、カツ……


 冷たい空間に堅い靴音が響く。

 しかし、男は動かない。


 ガチャガチャ


 鉄格子の鍵が音を立てる。

 男は動かない。


 ギギギ……


 鉄格子が開いた。同時に、看守の声がする。


「明日の朝、迎えに来る」


 その声に、思い掛けない声が答えた。


「ありがとうございます」


 男がピクリと反応した。

 鉄格子が閉じる。鍵の閉まる音がする。

 男が腰掛ける堅いベッド。その隣に、甘い香りがふわりと落ちた。

 床を見つめたまま、男が問う。


「なぜ、ここに来た?」


 落ち着いた声が答えた。


「わたくしが、あなたの妻だからです」


 思わず男が顔を上げる。そして、妻の顔をじっと見つめた。


「わたくし、何かおかしな事を申し上げましたでしょうか?」


 平然と言う妻を見て、男が笑った。


「いや、その通りだ」


 何日振りかの、いや、何ヶ月振りかの笑顔。

 妻も笑った。何日振りかの、いや、ミアを見送って以来の笑顔。


「イザベラ、お前は変わったな」


 カミュ公爵が、少し眩しそうに目を細める。

 娘の結婚式の少し前から、イザベラはきれいになっていった。式の後に行われたパーティで、配下の貴族に言われて、初めてそれに気が付いた。

 間近で妻の顔を見るのは本当に久し振りだ。改めて見るその顔を、公爵は美しいと思った。


「あなたも変わりましたよ」


 イザベラの言葉に、公爵が驚く。


「わしは、変わってなどおらぬ」

「いいえ、変わりました。あなたは、結婚した時よりもだいぶ太ってしまいました」


 笑顔のまま言われて、公爵が言葉を失う。

 ふいに公爵は、結婚前のイザベラの姿を思い出した。


 イザベラは、とてもよく笑う娘だった。

 イザベラは、とても楽しそうに踊る娘だった。


 公爵は、そんなイザベラに恋をした。

 そして公爵は、イザベラから笑顔を奪った。

 家の力を使った強引な婚約。

 イザベラに想い人がいると分かっていて、公爵はイザベラと結婚した。


「お前は、わしを恨んでいるか?」


 視線を外して公爵が聞く。

 聞いてから、公爵は気が付いた。その問いの意味は、おそらくイザベラに通じない。

 予想通り、聞きたい答えとは違うことをイザベラが言った。


「どうして反乱を起こしたのですか?」


 フッ……


 複雑な笑みを浮かべ、それでも公爵は答えた。


「それは、王が無能だったからだ」


 驚くイザベラに、カミュ公爵は、反乱を決意するまでの経緯を語った。



 十年前の戦争。そのさらに半年ほど前。

 北西の軍事国家ウロルがイルカナを狙っていることを、当時の三公爵の一人だった、カミュ公爵の父が掴んだ。

 当然それは王に伝えられ、対策が話し合われることになる。

 イルカナは経済重視の国。軍隊の規模はウロルに大きく劣る。だから、王は平和的な解決策を模索した。

 だが、それにカミュ公爵の父は強く反対する。ウロルの野望は、取引などでは抑えられない。仮に交渉がうまくいったとしても、それは一時的な平穏でしかない。

 その主張は、しかし王に受け入れられることはなかった。王は外交団を派遣して、ウロルと友好条約を結ぼうとした。

 そして交渉は失敗した。正確には、最初から交渉の余地などなかった。

 外交団の団長だった男は、首だけになって戻ってきた。それを見た国王は、青ざめた顔で軍の強化を指示した。


 予想通りの結果に唇を噛んだカミュ公爵の父は、それでも、国を守るための策をいくつか上奏する。

 一つは、国を出てコメリアの森で戦うこと。

 戦力で劣るイルカナ軍が、平原での大規模戦闘で勝てるはずがない。地形を利用した奇襲や各個撃破の戦略を立てたのだ。

 もう一つは、コメリアの森の住人をあらかじめ避難させること。

 森の住人を守り、極力森との関係を維持する。それが、戦後のイルカナにとって重要であると考えた。

 防衛計画は、それらの案を柱に作成された。


 やがて、ウロルが森に侵攻してくる。

 イルカナがそれを迎え撃つ。

 一年にも及ぶ戦いの末、イルカナはウロルを撃退することに成功したのだった。


 しかし、戦争で失ったものは大きかった。

 多くの将兵が死んだ。

 有能な人物たちが死んでいった。

 その中には、カミュ公爵の父もいた。



「あの戦争では、死ぬ必要のない者までが死んだ。父も、わしの兄弟たちも、そしてお前の兄も死んでしまった」


 力なく公爵が言った。


「お前の兄を外交団の団長に指名したのは、あの王だ。わしの父や兄弟の戦死は、納得はいかぬが、仕方がないと諦めもつく。だが、お前の兄は……」


 カミュ公爵の友。そして、イザベラが兄弟の中で最も慕っていた兄。知らせを受けた時のイザベラの慟哭を、カミュ公爵は忘れることができなかった。


「森の住人を避難させる時も、我が一門が汚れ役を買って出た。住人からの恨みをすべて引き受けて、強引に避難を完了させた。無能な王にかわって、戦うための土台を作ったのは我が一門なのだ」


 悔しそうに、カミュ公爵が拳を握る。

 その手に、イザベラがそっと手を重ねた。


 古来より、森との交渉を担当してきたのはロダン公爵の一門だった。森とロダン公爵の一門は、長い間良好な関係を保っていた。

 ゆえに、カミュ公爵の一門が恨みを引き受け、ロダン公爵の一門が森をなだめる。その方法を提示したのは、カミュ公爵の父だ。一門は、不満をぐっと飲み込んで、当主の指示に従った。


 現三公爵の一人、ロダン公爵の活躍で戦争に勝利したのは、誰もが認める事実。しかし、その裏で戦いを支え、戦後のことまで考えて奔走したのは、カミュ公爵の父だったのだ。

 終戦を期に、三公爵は揃って息子たちに代替わりをした。王を中心に、新体制のもとでイルカナは復興の道を歩み始める。


「戦いは、我が国の勝利で終わった。だが、失う物はあっても、得る物など何もない。軍は力を失い、衛兵組織も機能しない。国は乱れ、治安は悪化した」


 戦力で勝るウロルを撃退するために、イルカナは総力を注ぎ込んだ。

 何もかもが疲弊していた。

 人の心も、疲弊していた。


「それまで友好的だった東のカサールまでもが、我が国に触手を伸ばそうとしていた。早急に国を立て直さなければならない。それなのに、王から具体的な指示は何もない。わしは、王に絶望した。あの王を戴くこの国に、わしは絶望したのだ。そんなある日、あの男が現れた」


 話し続けていた公爵が、口を閉ざした。

 手を重ねたまま、イザベラが続きを待った。

 やがて。


「仮面の男。奴は、わしにこう言った」


 あなたは、この国を救いたい

 私は、自由な研究環境を手に入れたい

 あなたと私が手を結べば、二人の願いを共に叶えることができましょう


 仮面の男が持ち掛けた計画は、キルグ帝国を利用するという壮大なものだった。

 版図拡大のためと称して、キルグに次の案を示す。

 すなわち。


 エルドアを内部から崩壊させる。

 イルカナに内通者を作り出す。

 魔物生成の研究を完成させる。


 それらが整った後、キルグがエルドアに侵攻してこれを奪う。

 同時に、内通者が反乱を起こしてイルカナを奪い、キルグに恭順を誓う。


 エルドアとイルカナを手に入れれば、カサールの攻略は容易だ。

 一気に三つの国を手に入れて、キルグは大陸中央の覇権を握ることができる。


 そうキルグには言っておいて、しかし、本当の狙いはそうではない。


 キルグが落としたエルドアを、仮面の男が奪って自分のものにする。

 反乱を起こした内通者、すなわちカミュ公爵が、王としてイルカナを治める。


 真の目的はそれだった。

 そんなことをされては、当然キルグが黙っていないだろう。だが、仮面の男は不敵に笑った。


 魔物はいくらでも生成が可能です

 その大軍を攻め込ませれば、キルグを黙らせるのは簡単でしょう


「奴は、わしをエルドアとの国境に連れて行き、そこで小型の魔物を作ってみせた。完全とは言えないまでも、それはたしかに魔物だった。それを見て、わしは奴の計画が夢物語ではないと確信した」


 魔物を人の手で生成する。

 信じられないような話だが、それはたしかに現実となった。


「わしなら、あの王よりうまく国を治めることができる。わしはずっとそう思っていた。だから、奴の計画に乗ったのだ」


 驚くイザベラをちらりと見て、公爵が続きを語った。



 仮面の男は、公爵に話した通りに計画を遂行していった。キルグを説得し、見事キルグを動かすことに成功したのだ。

 キルグは、エルドアに内紛の種を蒔くとともに、カサールに戦争を仕掛けた。イルカナの内通者、すなわちカミュ公爵に、キルグが本気だと示すためだ。

 カサールは、イルカナ侵攻どころではなくなった。カミュ公爵の思惑通り、イルカナはカサールの侵攻を免れたのだ。


 それでも、イルカナの復興は茨の道だった。生きるため悪に手を染める民が続出し、治安は大いに乱れた。

 それを解決するために、公爵は、悪党たちと手を組むことを決断する。犯罪行為に目を瞑るかわりに、公爵が把握できる範囲でのみ悪事を働くよう約束させたのだ。

 同時に公爵は、治安維持を担う貴族や、衛兵の署長たちを抱き込んでいった。


 邪道。


 カミュ公爵の選んだ道は、まさに邪道だった。

 しかし、それでもイルカナは落ち着きを取り戻す。腹に悪を抱えながら、イルカナは再び発展を始めたのだった。



「わしのやり方が正しかったなどと、わしも思ってはおらぬ。だが、結果としてこの国は復興を果たした。一定の犠牲者を出すかわりに、この国は大陸でも有数の経済大国になることができたのだ」


 力強く公爵は言い切った。

 直後、イザベラの声がした。


「そうだとしても、ロイ様に毒を盛る必要はなかったのではないですか?」


 ビクッ!


 公爵の肩が大きく跳ねる。


「なぜそれを……」


 公爵が、恐る恐るイザベラを見た。

 手を重ねたままで、イザベラが言った。


「わたくしが、あなたのノートを盗み見たからです」


 公爵の目が限界まで広がる。

 語り続けていた公爵にかわって、今度は、イザベラがゆっくりと話し始めた。

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