正念場
「いやはや、今日もやられてしまったのぉ。ワイバーンを倒すのに網を使うなど、わしには到底思い付かんぞ」
魔物たちを眺めながら仮面が言う。
「まさか、大型種や飛竜の対策も万全ということはあるまいな。だとすると、少し困ったことになるが」
困ったと言いながら、しかしその声は、相変わらず困っているようには聞こえない。
「何にせよ、明日は約束の日だ。あの男の悲願成就は、わしの計画の一部でもある。わしも精一杯頑張ってみるとするか」
星が瞬く北の空を見上げながら、仮面が笑った。
「死者は三十、負傷者は二百、うち重傷者は五十人ほどです」
「敵の損害は?」
「倒したワイバーンはおよそ二百、地上の魔物は千から二千と思われます」
「そうか」
部下の報告に公爵が頷いた。
ワイバーンの大群三百体に、猛者とはほど遠い普通の兵士が立ち向かって見事に撃退したのだ。かすみ網を使ったワイバーン対策は成功だったと言っていい。
それでも、ついに死者が出た。
ワイバーンとの戦いでさえこれなのだ。犠牲覚悟で攻めなければならない大型種や飛竜との戦いでは、どれほどの兵士が命を落とすことになるのか。
「アルミナに増援を要請したほうが……」
進言とも弱音とも取れる部下の声に、公爵がはっきりと答える。
「王都の守備や他国への備えなど、この戦場以外にも兵士が果たすべき勤めはある。ここは我々だけで守らなければならぬのだ」
「はっ!」
「将の顔色一つで兵の士気は変わる。弱気を見せるなよ」
「申し訳ありませんでした!」
頭を下げる士官を見て、ほかの部下たちも表情を引き締める。
「今が訓練の成果を見せる時だ。明日も魔物を蹴散らしてみせようぞ」
「おぉっ!」
気迫のこもった公爵の声に部下たちが答えた。
軍議が終わり、それぞれが引き上げていく。部下たちの背中を見ながら、公爵は、心の中で詫びていた。
すまぬ、増援要請は出せんのだ……
翌朝。
「今朝は霧が濃いな」
真っ白な景色を見ながら兵士が言った。
正面にあるはずの土塁や壕がよく見えない。この辺りにしては珍しいくらいの濃霧だった。
「これじゃあ、魔物が来ても分からんな」
「哨兵が何も言わないんだ。少なくとも百メートル以内に魔物はいないよ」
陣地の前後左右には、百メートルの索敵範囲を持つ優秀な兵士が配置されている。魔物が接近してくれば、即座に声を上げるだろう。
「やつら、今日はどんな攻め方でくると思う?」
「何をしてこようと関係ないさ。所詮は魔物、人間様の敵じゃねぇ」
十万という数に圧倒されていた兵士たちも、この二日の戦闘で自信をつけていた。多少の被害は出たものの、地上からの攻撃も、空からの攻撃も見事に撃退している。
魔物の軍勢は、そのほとんどが地上タイプ。塹壕地帯と泥地がこれからも有効に機能するだろう。
「お、霧が晴れてきたぞ」
「そうだな。さてと、今日も気合い入れて……」
兵士が兜をかぶり直した、その時。
「土塁と壕が消えている!」
すぐ近くから叫ぶ声がした。
直後、陣地の左右からも別の声が聞こえてくる。
「泥地が乾いています!」
陣地の中が一斉に騒がしくなった。
「そんなバカな話があるか!」
「もう一度よく確認しろ!」
将校たちが怒鳴り、部下が走り出す。
「うそだろ」
前線の兵士たちは、呆然としていた。
塹壕地帯も泥地も、数日を掛けて、三万の兵士が総出で作り上げたものなのだ。陣地構築に長けた工兵が指揮を執り、魔術師たちが魔法を駆使し、一般兵が鋤や鍬を振るって必死に作り上げたのだ。
それが、誰も気付かぬうちに、たったの一晩で更地になる。そんなことがあるはずなかった。
しかし。
「確認しました! 塹壕地帯、泥地、共に消滅しています!」
それを聞いて、ロダン公爵が声を張り上げる。
「弓兵と魔術兵を前線に配置、魔物の襲来に備えよ!」
あり得ない事態を素早く受け入れて、ロダン公爵が指示を飛ばした。だが、さすがの公爵もこの後の手が思い浮かばない。
兵士たちが右往左往する。将校たちの怒号が聞こえる。
やがて霧が晴れた。
陣地の周囲が見えてきた。
兵士の一人が、掠れた声でつぶやいた。
「魔物……」
陣地の南に魔物がいた。
陣地の西に魔物がいた。
陣地の東に魔物がいた。
陣地の北にも魔物がいた。
「囲まれた……」
目を見開く部下と同じく、公爵も大きく目を見開いていた。
魔物たちは、索敵範囲のぎりぎり外、およそ百メートルの位置から陣地をじっと見つめている。人型や獣型の後方には、大型種の姿も見えた。
西にベヒモス、東にヒュドラ。南の地竜と、そして北の飛竜。いずれも数は多くないが、一体を倒すのに、相当数の兵士が決死の覚悟で向かっていく必要がある。特に飛竜は、苦戦必至の難敵だ。
「陣を出て戦うか?」
「死を恐れない相手に、それは避けるべきだろう」
「ではどうすればいいと言うのだ」
「陣地の柵を盾にして、近付く魔物を……」
「大型種がいるんだぞ。やつらが来れば、柵など意味を成さん」
「戦う以外の選択肢もあるのでは? 一点突破なら、退却も可能かと」
「戦う前に何を弱気な」
「無謀な戦いを仕掛けるのは蛮勇というものです」
「何だと!」
塹壕も泥地もない陣地は丸裸も同然だ。猛然と突っ込んでくる魔物が柵に取り付くのを防ぐのは難しいだろう。四方から一斉に魔物がくれば、なおさら難しくなる。空から攻めて来られれば、それはもう防ぐことなど不可能だ。
部下たちの目は血走っている。絶望的な状況に、冷静な者など一人もいなかった。
腕を組み、一言も発せず議論を聞いていたロダン公爵が、動いた。
「みな、聞いてほしい」
腕組みを解き、背筋を伸ばして部下たちを見た。
「エルドアとの国境付近に現れるようになった魔物たちは、一定以上に北上することはなかった」
部下たちが、口をつぐんで公爵を見る。
「数も一定以上には増えず、種類もほとんど変わらない。ゆえに、我々は魔物について深く考えることをしてこなかった」
何度倒しても湧いて出てきた魔物たち。だが、不思議なことに、町や村が被害にあうことはなかった。
「しかし、魔物は徐々に賢くなっていった。数種間前には、軍隊のような動きを見せるようにもなっていた。そして今、魔物たちは大軍となって我々の前に現れた」
公爵が、全員の目を見る。
「あの魔物たちは、間違いなく誰かの意志によって作られ、誰かの意志によって操られている。その目的は分からぬが、操っている者に、慈悲や憐れみの心があるとは到底思えぬ」
ここより南の町や村は、全滅していた。動けなくなった者も、助けを求めた者も、例外なく魔物によって殺されている。
部下の一人が、ごくりと唾を飲み込んだ。
「あの軍団がこのまま北上すれば、どれほどの命が奪われることになるか、諸君にも想像がつくだろう」
皆が心に描いたのは、地獄絵図。飛び散る血潮、泣き叫ぶ子供、地面に転がる無惨な骸。
そこにいる誰もが、誰かを想い、そして拳を握る。
「この戦いには、停戦も休戦もない。降伏という終わり方すらない。生か死か、それしかない」
部下たちが、硬い表情で頷いた。
「敵には謎が多い。一晩で塹壕や泥地を更地にしてしまう、強力な力も持っている。それでも、我々はここで退く訳にはいかぬのだ」
公爵の瞳が光を帯びる。
「我々は、国を守る兵士である」
公爵の声が、耳を打つ。
「我々は、国に命を捧げた武人である」
公爵の声が、胸を打つ。
「我々は、魔物と戦うのだ。一体でも多くの魔物を倒し、一人でも多くの民の命を守るのだ」
公爵が立ち上がった。
部下たちも立ち上がった。
「ここがイルカナにとっての正念場。皆の者、気合いを入れよ!」
「はっ!」
イルカナの英雄、ロダン公爵。その槍は衰えども、その覇気はいまだ健在。
放たれた眼光が、部下の心を貫いた。強烈な意志が、場の空気を一変させた。
兵士は人だ。死を恐れるし、会いたい人だっている。
それでも、部下たちは覚悟を決めた。
ここは逃げてはならぬ
気迫のこもった表情の部下たちを、公爵が見る。
「魔物が攻めてきたら、陣から百メートル付近に魔法の矢を集中させよ。そこを抜けた魔物は、騎馬隊が踏み潰せ。それでも生き残って陣に近付く魔物がいれば、魔法で狙い撃つ」
迷いのない指示が飛ぶ。
「大型種には、種類に合わせて隊を編成して向かわせよ。飛竜には大弓で対抗。ブレスの射程はせいぜい十メートルだ。その距離まで接近しなければ、やつらに攻撃の手段はない。十分に引き付けて仕留めるのだ」
力強い言葉が響く。
「大型種を除けば、魔物一体一体は強くない。怯むことなく戦えば、必ず勝てる」
公爵が拳を振り上げた。
「魔物と、魔物を操る愚かな人間に、イルカナ兵の強さを見せつけてやれ!」
「おおっ!」
心に火がついた。士気が一気に高まっていった。
動き出した部下たちを見ながら、心の中で、公爵が言った。
陛下、あとはお任せいたします
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