拭えない不安

「人間の軍隊を甘く見ておったわ」


 戦場から南に数キロ下った平原。そこで待機している魔物たちを、仮面が眺める。


「三万近くはやられたかのう。いやあ、これは予想外の被害だぞ」


 残念そうなその言葉は、しかしやけに軽い。


「まあ、改良の成果は確認できたからな。子供たちの仕上がりも、命令を伝える魔道具の出来もなかなかのものだ」


 満足そうに頷く。


「さて、明日はまた違う攻め方をしてみるか。人間たちに油断されては困るからな」


 謎の言葉をつぶやいて、仮面が不気味に笑った。



「今日の戦果に浮かれてはならぬ」


 軍議の場で、ロダン公爵が厳しい声を上げた。


「敵の被害は約三万。だが、それが明日には補充されている可能性もあるのだ」


 部下たちは目を見開き、そして表情を引き締めた。

 エルドア国境付近の魔物は、何度討伐をしてもまた現れた。今日姿を見せた以外にも、魔物がいる可能性は十分あるのだ。


「加えて」


 公爵が、低い声で言う。


「今日の魔物たちは、またも賢くなっておった」

「何ですと!?」


 部下の一人が叫ぶ。

 その目を見ながら、公爵が言った。


「カイルの報告にあった、隊を組む魔物たち。その時の戦いでは、隊長と思われる魔物を倒すことで、敵を混乱させることができた。よって、指揮系統を叩くことが有効だという結論に至った訳だ」


 頷く部下に、公爵が続ける。


「今日の戦では、ダイアウルフやホブゴブリンを集中的に倒したはずだった。しかし、魔物たちの混乱は限定的だった。小隊や分隊という単位ではない、新たな指揮系統を魔物が獲得した可能性が高い」


 公爵の表情は変わらない。

 しかし、部下たちの顔は明らかに青ざめていった。


「塹壕と泥地の補修、魔法の矢の補充を急げ。魔術師部隊は、明日に備えてしっかり休ませるのだ」

「はっ!」


 険しい顔で答えて部下たちが動き出す。

 腕を組んだまま、公爵は動かない。

 部下には言わなかったが、魔物の変化は、じつはもう一つあった。


 魔物が撤退した。

 そんなことは、これまで一度もなかった。


 逃げない魔物たち。

 全滅するまで向かってくる魔物たち。


 これまでの魔物たちは、どれほど賢くなろうとも、逃げることだけは絶対にしなかった。明らかに魔物の動きが変わった。


 魔物に指示を出す人間が、何かを企んでいるのか?


 影の老人が言っていた謎の人物。

 カイルが見たという、仮面をつけた人間。


 やはり、その人間を倒すことが必要か


 変わらない表情の裏で、公爵は次の手を考え始めていた。



「魔物が来ます! 地上ではなく、空!」

「来たか」


 公爵が立ち上がる。


「飛竜か?」

「いえ、ワイバーンです」

「よし、かすみ網用意」

「はっ、かすみ網用意!」


 兵士たちが、二本一組の長い棒を陣地のあちこちに運び始めた。


「敵は攻め方を変えてきた。油断するなよ」


 部下たちに声を掛けて、公爵が南を睨む。どこかにいるはずの、魔物を操っている人間を探す。

 昨夜、公爵は数人の偵察兵を放っていた。その偵察兵が、一人として戻って来なかった。


 魔物にやられたのか、それとも……


 十年前のウロルとの戦争以来、公爵は情報収集に力を注いできた。軍事国家とは言えないイルカナの強力な武器、優秀な偵察兵たち。

 鍛え抜かれたその兵士たちが、一人も戻ってこないなど考えられないことだ。


 エルドアの影の老人が言っていた、魔物の大量発生に関わっていると思われる謎の人物。

 その人物に近付いたエルドアの諜報員も、一人として戻らなかったという。


 一体何者なのだ


 陣地内を走り回る部下を見ながら、公爵は強く拳を握り締めていた。



「ワイバーン、およそ三百!」

「通常の矢で牽制しろ。当たらなくても構わん!」


 弓兵たちが、空に向かって一斉に矢を放つ。その矢を、ワイバーンがことごとくかわしていく。

 ワイバーンの動きは素早い。矢にしても魔法にしても、至近距離から狙わなければ当てることは難しい。

 そんなことは承知の上で、兵士たちは弓を射続けた。ワイバーンがそれをかわす。ワイバーンの群が、大きくばらけていく。

 互いの間隔が広く空いたその状態で、ワイバーンたちが陣地に襲い掛かってきた。

 そのワイバーンの前に、二人一組の兵士たちが立ちふさがる。


「からめ取れ!」


 バッ!


 兵士たちが一斉に網を広げた。

 その網に、ワイバーンが突っ込む。


「ギャアァ!」


 網に絡まって動きが取れなくなったワイバーンに、兵士たちが群がっていった。


 かすみ網は、もともと鳥を捕まえるために用いる罠だ。それをロダン公爵は、対ワイバーン用に改良して大量に用意していた。

 国境付近に現れる魔物の中に、ワイバーンはいなかった。しかし、エム商会の情報から、いずれワイバーンと戦う日が来ることを公爵は予測していた。


「弓兵、手を休めるな! ワイバーンを密集させてはならん!」


 次々とやってくるワイバーンに、次々と矢が放たれる。

 かすみ網は、一組で一体しか捉えられない。特定の場所にワイバーンが集まってしまっては、対処が間に合わない。

 網の中でもがくワイバーンが、槍でメッタ刺しにされて、あっという間に魔石に姿を変える。

 魔石には目もくれず、兵士たちが網を持ち直して次の攻撃に備える。

 ランクBの冒険者でも戦うことを躊躇うほどの難敵。それを、兵士たちが一体一体確実に屠っていく。弓兵と歩兵の見事な連携で、ワイバーンは確実にその数を減らしていった。

 しかし。


「魔物が来ます! 今度は地上!」


 哨兵が叫ぶ。


「やはり甘くはないか」


 公爵が眉をひそめた。


「魔術師部隊を前へ!」


 ワイバーンと戦う兵士の間を縫って、魔術師たちが移動を始める。


「魔物接近!」

「まだ撃つな!」


 魔術師部隊の指揮官が叫んだ。

 矢に比べて、魔法の射程距離は圧倒的に短い。しかも、今は弓兵の支援も期待できない。有限の魔力を、無駄なく効率的に使う必要がある。


「魔物が塹壕地帯に侵入しました!」

「よし、今だ。撃てー!」


 ファイヤーボルトが、アイスボルトが、幾筋もの光となって魔物に向かった。

 壕から這い上がった魔物が悲鳴を上げる。

 土塁の上から魔物が転がり落ちる。

 塹壕地帯で勢いの止まった魔物たちを、魔術師たちが正確に倒していった。


 地上の魔物たちは、陣地の目前まで迫りながらそれ以上進めずにいる。


 昨日のように左右に回り込むか?


 有利な戦況にも気を緩めることなく、ロダン公爵は魔物の動きを注視していた。

 すると。


「魔物が撤退していきます!」

「よっしゃー!」


 背中を向ける魔物たちを見て、兵士が雄叫びを上げた。

 生き残ったワイバーンたちも、南の空へと逃げていった。


「うまくいきましたな」


 微笑む部下に、だが公爵は笑うことなく指示を出す。


「負傷者の手当を急がせよ。被害状況の把握、急げ」

「はっ!」


 慌てて動き出す部下を見ながら、公爵は小さくつぶやいていた。


「昨日よりも撤退の判断が早い。魔物の補充が難しいということなのか? それとも」


 ここを落とすことが目的ではないのか?


 口を結んで、公爵が拳を握る。

 人間相手とはまるで勝手の違う戦いに、公爵は言いようのない不安を拭い去ることができなかった。

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