幕間-逆さまの子熊-
逆さまの子熊
逆さまの子熊が、仲直りしたいと旗を振る
ミアが持ってきたイザベラの手紙。それをもう一度読み返して、エレーヌは、すっかり日の落ちた窓の外を見る。
「私、ちゃんと覚えているかしら?」
そうつぶやきながら、机の上に用意した懐かしい品々を確認していった。
二本の旗と、望遠鏡と、懐中電灯。いずれも、子供の頃毎日のように使っていたとても大切な物だった。
「昨日が私の誕生日。だから、日は間違っていないわ。時刻はよく覚えていないけれど、たしか、もうそろそろだったような……」
その時。
ピカッ、ピカッ!
窓の外、数百メートル先の建物に、明滅する明かりを見付けた。
エレーヌが慌てて懐中電灯を持つ。それを窓に向け、一定の間隔で明滅させた。
それを合図に、正面の明滅が止む。かわりに、明滅していた辺りがぼうっと明るくなった。
懐中電灯を置いて、エレーヌが望遠鏡を覗き込む。丸い視界の真ん中に、あの日と同じく、逆さまになった子熊がいた。
子熊は、実際には逆さまになっているのではない。望遠鏡で見る世界がすべて逆さまに見えるだけだ。
そして、子熊はぬいぐるみ。そのぬいぐるみを抱えているのは……。
「あの子、ずいぶん痩せたわね」
直接会ったのは、もうずいぶん前のことだ。当時の記憶と比べると、そのシルエットはずいぶんほっそりとしていた。
丸い視界の中で、子熊が小さく手を振る。
「あの時は子熊に旗を持たせていたけれど、さすがに今日は違うのね」
あの時。
それは、まだエレーヌが子供だった頃。エレーヌと、そして現カミュ公爵婦人のイザベラは、とても仲の良い友達だった。
幼馴染みだった二人は、揃ってお転婆な娘だった。二人で一緒に走り回り、二人で一緒にいたずらをして回る。叱られるのは日常茶飯事で、時には、お仕置きのために丸一日部屋に閉じこめられることさえあった。
それぞれの家のそれぞれの部屋で、誰に会うこともできずにじっとしている。それは、二人にとってかなり厳しいお仕置きだったに違いない。
「次にいたずらをしたら、また部屋に閉じこめますからね!」
目を吊り上げる母親に、エレーヌがうつむく。
「ちゃんと勉強をしないと、またお部屋に籠もっていただくことになりますよ」
教育係の冷たい言葉に、イザベラが黙る。
部屋に閉じこめると言えば、しぶしぶながらも、二人は大人の言葉に従った。二人の両親も、二人の教育係も、魔法の言葉を手に入れたと思って喜んでいた。
ところが。
いつの頃からか、二人に魔法の言葉が通用しなくなった。
いつの間にか、二人はそれぞれの部屋にいながらにして、互いにおしゃべりをする方法を編み出してしまったのだった。
互いの部屋からは、相手の部屋が遠くに見えた。肉眼では分からなくても、望遠鏡を使えば、相手が手を振っていることくらいは分かる。
そこで二人が目を付けたのが、手旗信号だ。イザベラが書庫で見付けた軍の教本をもとにして、二人だけの信号を作り上げた。
赤と白の旗が一本ずつ。そして望遠鏡。それさえあれば、離れていても、二人は自由にお話ができた。一日中部屋に閉じこめられても、ぜんぜん退屈なんてしなかった。
お仕置きの日も、そうでない日も、二人はたくさんお話をした。たとえ昼間会えなくても、夕食が終わった頃、窓の外に向かって懐中電灯をピカピカすればいい。向こうからもピカピカが返ってくれば、それでおしゃべりが始まる。
二人は本当に仲のよい友達だった。二人は、いつでも一緒だった。
そんな二人が、ある時喧嘩をした。それは、エレーヌが十才になる誕生日の前日。イザベラが、二人だけの誕生日会をしたいと言い出したのだ。
だが、エレーヌは貴族の子女。その日も、そして当日も、朝から晩まで誕生日の行事でいっぱいだ。さすがのお転婆娘も、弁えるべきところは弁えていた。
だからエレーヌは、イザベラの申し出を断った。
イザベラも貴族の子女だ。当然事情は分かるはず。エレーヌはそう思っていた。
それなのに。
もしかしたら、エレーヌの断り方が悪かったのかもしれない。
もしかしたら、イザベラにイヤな出来事が続いていたのかもしれない。
エレーヌがびっくりするくらい、イザベラは不機嫌になった。
そんなイザベラを見て、エレーヌもびっくりするくらい不機嫌になった。
いつも仲良しの二人が、初めて大喧嘩をした。
モヤモヤしながら、エレーヌの誕生日はやってきた。
モヤモヤしながら、エレーヌの誕生日は過ぎていった。
そして、次の日の夜。
ピカッ、ピカッ!
窓の向こうに光が見えた。
いつもの合図。しかし、エレーヌは頬を膨らませたまま動かない。
ピカッ、ピカッ!
また合図。
エレーヌが、半分だけカーテンを閉める。
ピカッ、ピカッ!
ついにエレーヌは、懐中電灯を手に取った。
そして。
ピカッ、ピカッ!
カーテンを開け、頬を膨らませたまま返事をして、望遠鏡を覗き込んだ。
すると。
「なにそれ!」
エレーヌが思わず声を上げる。
丸い視界の真ん中。そこに、逆さまになった子熊がいた。それは、イザベラがいつも一緒に寝ているぬいぐるみ。子熊の両手には、一本ずつ旗が括り付けてある。その両手を、小さな両手が恥ずかしそうに操っていた。
ご・め・ん・な・さ・い
そう言って、子熊がペコリと頭を下げる。
ま・た・あ・い・た・い
そう言って、子熊がじっとエレーヌを見つめる。
「なにそれ!」
エレーヌがまた声を上げた。
子熊が持つ旗は、両方とも下がったままだ。つまり、子熊は返事を待っている。
「もう!」
望遠鏡を乱暴に脇に置き、やっぱり頬を膨らませながら、エレーヌが旗を持った。
「わたし、怒ってるんだからね!」
そう言って、窓の向こうに旗を突きつける。
くるりと後ろを向いて、二、三度地団駄を踏み、振り返って、エレーヌが旗を振った。
ぷ・れ・ぜ・ん・と・よ・こ・し・な・さ・い・よ
すかさず望遠鏡を覗き込み、子熊の反応を待つ。
すると。
ま・っ・て・て
直後、子熊が視界の中から消えた。
しばらくすると、視界の中に女の子が現れる。その手には、小さな包み。それを持って、女の子はニコニコと笑っていた。
「仕方ないわね」
そう言って、エレーヌは懐中電灯をピカピカさせる。
そしてエレーヌは、恥ずかしそうに、旗を振った。
ご・め・ん・な・さ・い
初めての喧嘩。
初めての仲直り。
二人は、また一緒に遊ぶようになった。
二人のおしゃべりは、イザベラが結婚して実家を離れるまで続いたのだった。
丸い視界の中で、イザベラが子熊を置いた。そして、自分の両手に旗を一本ずつ持つ。
「あの子、いったい何を」
エレーヌが、緊張しながら言葉を待った。
イザベラが、寂しそうに笑って、旗を振り始めた。
イザベラの話はとても長かった。
話が進むにつれて、エレーヌの顔がこわばっていった。
すべてを伝え終えたイザベラが、二つの旗を静かに下ろす。それを脇に置いて、躊躇いながら、望遠鏡を覗き込んだ。
イザベラが覗く、丸い視界の中。その真ん中で、エレーヌが、肩を震わせて泣いていた。
「ごめんなさい」
イザベラがつぶやく。
子熊を強く抱き締める。
ずっと我慢していたもの。それが、イザベラの目からも溢れ出した。
離れた場所で、二人は泣いた。
抱き締められた子熊が、とても悲しそうにうつむいていた。
逆さまの子熊 了
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