援軍

 わずかに残る朝靄の中に、無数の不気味な影が見える。ぴくりとも動かないその姿は、まるで趣味の悪い彫像のようだ。

 二万の影。二万の魔物。

 その後方の高台には、昨日と同様キルグの本隊がいた。昨日と違うのは、金色の旗が、中軍ではなく中央最前列に据えられていることだ。魔物が砦を押し潰す場面を、まさに高みから見物しようというのだろう。


「大将が最前線に出てくるとはのぉ。まあ、我々にとっては都合がよいが」

「はい。おかげで位置がはっきりと分かります」


 父子の狙いはただ一つ。金色の旗の下にいる敵将の命。

 二人は、戦場が見渡せる砦の南側で、砦の司令官とは異なる作戦の指揮を取っていた。


「やはり、鎧を着ておりますな」


 魔法で強化した視力を使って、息子が旗の下を見る。


「顔が若い。軍を率いているのは、皇帝ではなく皇太子でしょう」

「そうか。どちらにせよ、今のままでは暗殺は不可能ということじゃな」


 静かに老人が答える。


「ぎりぎりまで見極めます」

「作戦責任者はおぬしだ。任せる」

「はい」


 暗殺が不可能と判断すれば、影の一族は、即時撤退して次の機会に備えることになっている。いくつもの事態を想定済みの二人に迷いはない。


「何があろうとも、おぬしは生きてアルバート様のもとに向かうのだ。エルドアの血を絶やしてはならぬ」

「はい」


 父の言葉に、息子が頷いた。

 頷く息子を、父は見なかった。


 神の鎧が出てきた以上、エルドアに勝ち目はない


 決して口には出さないが、二人はそう思っていた。

 決して顔には出さないが、二人は悲壮な決意を固めていた。



「殿下、もう少し下がってください」


 床几にどっかりと腰を下ろし、敵の砦を睨む皇太子に参謀が言った。

 砦を睨んだまま、皇太子が答える。


「あの魔物たちがどこまで役に立つのか、わしはこの目で確かめねばならぬのだ。戦が終わるまではここを動かぬ」

「……かしこまりました」


 強い言葉に、参謀はそれ以上諫めることをやめた。

 皇太子のいる位置は、本隊の最前列。敵の兵士からは、鮮やかな金色の旗と、黄金色に輝く美しい鎧が見えていることだろう。

 軍の総司令官、ましてや大国の皇太子がそんな場所にいるなど普通はあり得ない。しかし、キルグの軍では時々見られる光景だ。


 どんな物理攻撃も、どんな魔法攻撃も跳ね返す絶対防御。

 神の鎧を傷付けることは、何人たりともできはしない。

 鎧がそこにあるだけで、味方の士気が高まっていく。


「まあ、仕方がない」


 小さく言って、参謀は皇太子のもとを離れた。

 この作戦は、キルグにとって非常に大きな意味を持つ。それを任された皇太子が、気負ってしまうのは仕方のないことだろう。


「それにしても、気持ち悪いほど順調だな」


 眼下の魔物と、その先にある敵の砦を見ながら参謀がつぶやいた。


 作戦はすべて予定通りに進んでいる。エルドア南部はすでに教団の意のままで、兵糧の調達も問題ない。だからこそ、補給路の確保を考えずに広大な荒野を越えて侵攻することができたのだ。

 この後の本格的な戦闘で、魔物が本当に戦力になるのであれば、本隊は無傷のままエルドアを征服することもできるに違いない。


「これで”もう一つの作戦”も成功すれば、一気に二つの国を手に入れることができる。そうなれば、カサールは落ちたも同然だ。インサニアを使ったカサール攪乱には失敗したが、そんな小細工は最初から必要なかったのかもしれぬな」


 会議の場で見苦しい言い訳をしていた諜報部長官の姿を思い出して、参謀が肩をすくめた。


「大陸中央の三国を版図に加えることができれば、帝国の国力は一気に高まる。間違いなく、キルグは大陸最強の国となるだろう」


 にやりと参謀がほくそ笑む。


「朝靄が上がれば作戦開始だ。魔術師たちに最後の確認をしておくか」


 そう言うと参謀は、魔物部隊に混じって待機している、数十名の魔術師のもとに向かって台地を下りていった。



 太陽が昇り、気温が上がってきた。同時に、朝靄が嘘のように晴れていく。


「間もなく敵がやってくる。準備はできているか!」

「準備完了であります!」

「ベヒモスとヒュドラに攻撃を集中、砦に近付けさせるな。マンティスは、飛べなくすればそれでよい。小型の魔物は全部無視だ!」

「はっ!」


 司令官の顔は、鬼気迫る表情だった。

 兵士たちの顔は、悲壮感に満ちていた。


 キルグの本隊が動く気配はない。最初に動くのは、やはり魔物部隊のようだ。その魔物の中に、人間がいた。数十名の人間が、魔物部隊の中のあちこちで、何かを待っているかのように立っていた。

 その様子を父子が観察している。


「魔物部隊の小隊長たちと言ったところかの」

「そうかもしれませんな」


 父に答えた息子が、ふと砦の内側を見る。


「あの者たちは、後方に送るべきだったのでは?」


 視線の先には、数名の兵士がいた。


 真っ青な顔で虚空を睨む者。

 ガタガタと震える者。

 頭を抱えてしゃがみ込む者。


 いずれも、前線から逃げてきた兵士たちだ。

 いずれも、魔物の恐ろしさを目の当たりにしてきた兵士たちだった。


 恐怖は伝播する。

 すでに、周囲の兵士たちが落ち着きをなくしていた。


 ここも長くはもたぬな


 そっと息を吐いた息子の耳に、突然銅鑼の音が飛び込んできた。


 ジャーン! ジャーン!


 正面の台地で旗が振られた。同時に、魔物に混じっていた人間たちが詠唱を始める。


「呪文で魔物を操っているのか?」


 父子は耳を澄ますが、さすがに聞き取れる距離ではない。

 やがて、詠唱を終えた人間たちが何かを叫んだ。そしてすぐさま高台へと下がっていく。


「来るぞ!」


 司令官が叫んだ、直後。


「助けてくれ!」


 突然、塀の内側にいた兵士の一人が逃げ出した。


「そいつを取り押さえろ!」


 司令官が怒鳴った。

 逃げた兵士に数人が飛び掛かり、暴れる兵士を押さえ付ける。


「俺はいやだ! 死にたくない!」


 兵士の悲鳴が軍の士気を奪っていく。

 砦に動揺が広がっていく。


 まずいな


 息子が唇を噛んだ。

 こんな状態では戦いになどならない。


 暴れ続ける兵士に、司令官が駆け寄った。


「貴様、黙らんか!」


 血走った目で兵士を睨む。


「黙らなければ、わしがこの手で貴様を斬る!」


 司令官が、剣を抜いてそれを兵士に突きつけた。


「ひえぇっ!」


 鋭利な切っ先を見て、兵士がますます暴れ出す。


「このっ!」


 司令官が剣を振り上げた。

 周りの兵士が息を呑む。


「いやだ! 殺さないでくれ!」


 パニック状態の兵士が叫んだ。

 司令官の目に、殺気が宿った。


「許せ!」


 ついに、剣が振り下ろされた。

 周りの兵士が顔を背ける。

 息子が静かに目を閉じた。


 その時。


「数頭の騎影、真っ直ぐこちらに向かって来ます!」


 ピタッ


 剣が、止まった。


「何だと?」


 司令官が声の方向を見る。それは戦場と反対側。声は、北を見張る兵士のものだ。

 司令官が急速に冷静さを取り戻していく。剣を引き、震える兵士をちらりと見てから、大きな声で聞いた。


「旗印は何か!」

「旗はありません!」


 即座に答えが返ってくる。

 旗はなくとも、北から来るのであればおそらく味方だ。しかし、援軍にしては早過ぎる。


 王都からの使者か?


 司令官が次の報告を待つ。

 兵士たちが耳を澄ませる。

 そこに、見張りの兵の声が響いた。


「先頭に黒髪の男! 後ろには……女!?」


 瞬間。


「者ども聞け!」


 突然、途方もなく大きな声がした。


「数万の軍にも勝る援軍が到着した! この戦、間違いなく我らの勝利じゃ!」


 塀の上に立ち、両手を広げて、影の老人が叫んでいた。


「援軍?」

「勝利?」


 ざわめきが広がっていく。


「何が来たって?」


 兵士たちが、背伸びをしながら北を見る。

 恐怖の波動が薄らいでいった。兵士たちが、期待の眼差しを北に向ける。


 五百と二千の視線の先。

 そこに、四頭の馬が現れた。


 先頭には、黒髪の男。

 右後ろには、赤い髪と金色の髪。

 左後ろには、空色の髪と紫の髪。

 最後尾には、黒い髪と栗色の髪。


 一人の男に率いられた、六人の美しい女たち。

 その姿を確認した老人が、塀の上を野猿のように駆ける。そして、七人に向かって声を張り上げた。


「魔物が二万、キルグ本隊が五万、中央に神の鎧がいる!」


 先頭の男が頷いた。

 金色の髪が手を振った。


 四頭の馬と七人が、砦の脇を駆け抜ける。

 そのまま砦と魔物の間に割って入った七人は、紫の髪の女の指示で、魔物に向かって右へと移動し、そこで止まった。


「七人だけ?」

「これが援軍?」


 落胆というより、兵士たちは呆然としている。

 父を追ってきた息子が小声で聞いた。


「あれが、父上のおっしゃっていた者たちですか?」


 老人が、力強い声で答えた。


「そうじゃ」


 息子がまた聞いた。


「女ばかりのようですが、本当にあれで奇跡を?」


 老人が、強く頷いた。


「そうじゃ」


 それ以上老人は言わなかった。

 それ以上息子は問わなかった。


 睨むように七人を見下ろしながら、老人が、祈るようにつぶやいた。


「頼むぞ、マーク殿」

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