トロス砦
馬車の中は緊張感に満ちていた。
床に広げた地図を指でさしながら、男が説明をする。
「馬車で移動するのは、この町までです。そこから先は馬で移動していただきます。砦の位置は、ここ。途中数カ所に替え馬も用意してあります」
ガタガタと揺れる馬車の中で、社員たちは這いつくばるようにしてそれを見ていた。
「敵の兵力は?」
「分かっているだけで三万ですが、おそらくはそれ以上。それに加えて、一万以上の異形の軍勢が確認されています」
「異形の軍勢?」
「はい。私も半信半疑ではありますが、伝令の言葉をそのまま信じるならば、それは、魔物の軍勢です」
「なるほど」
マークが頷く。
「味方の兵力は?」
驚くこともなく、平然とマークが質問を続けた。
魔物の軍勢。
そんなものが存在すること自体あり得ない。人が魔物を自在に操ることなどできはしない。
それなのに、マークだけでなく、社員たちも眉間にしわを寄せる程度の反応しか示さなかった。
男は首を傾げるが、そこにこだわることなく質問に答える。
「砦の兵力は、約三百。周辺から逃げてきた兵のうち、戦える者は約二百。そこに、援軍の先遣隊として二千の兵が向かっています」
「五百と、二千……」
それにはマークも唸ってしまった。
数万の軍勢に対して二千五百の兵。あまりに兵力差があり過ぎる。
「近くにエルドアの兵はいないのですか?」
「南東地域は、もともと他国からの侵略を想定していません。数少ない拠点のほとんどは破棄されていて、近くの兵力は、すべてこの砦に集まりつつあります」
「その状態で、五百ということですか?」
「そうです」
男はエルドアの人間ではない。それでも、マークの質問に答えるその顔は苦渋に満ちていた。
「影の一族も、王の指示で砦に向かっています。本格的な援軍もすぐ編成されると思いますが、今のエルドアの状況を考えると、果たしていかほどの兵が出せるのか……」
「私だけでも先行しますか?」
ふとフェリシアが言った。
その顔をじっと見つめ、だが、マークは首を横に振る。
「いや、だめだ」
この件には間違いなくダナンの兄が関係している。未知なる戦いに、フェリシアだけを向かわせるのは危険だった。
その後もマークが質問を重ね、知る限りのことを男が答えていく。そんなやり取りをしているうちに、馬車は目的の町に着いた。
素早く馬車を降りた七人は、宿屋に繋いであった数頭の馬に分乗すると、男に軽く頭を下げる。
「では、行ってきます」
「よろしく頼みます」
挨拶もそこそこに、七人は南に向かって走り出した。
残った男がつぶやく。
「老人に言われた通り、エム商会に伝えはしたが」
小さくなっていく背中を心配そうに見つめる。
「たった七人に、一体何ができるっていうんだ?」
ロダン公爵にはすでに伝令が飛んでいた。しかし、イルカナの援軍が間に合うとは到底思えないし、そもそも援軍を派遣することさえ難しいだろう。
「残念ながら、エルドアは終わりだな。アルバート様と石を国外に逃がしたのは、結果的に正解だったのだろう」
諦めたように、男がため息をついた。
それでも。
「無敵のエム商会。頼むから、奇跡を起こしてくれよ」
淡い願いを込めて南を見つめ、やがて男は踵を返した。
エルドアの東に広がる荒野。水の確保が難しいその地域は、古来より住む人もほとんどおらず、商人でさえも足を踏み入れることは滅多にない。
荒野のはるか先にはキルグ帝国があるが、国土拡張を進めるキルグでさえ、その荒野に軍を進めることはなかった。
その、はずだった。
「右翼が壊滅! 左翼も突破されました!」
「あり得ない……」
報告を聞きながら、指揮官が呆然とつぶやく。
「中央にヒュドラ! 戦線維持できません!」
部下の声に、指揮官が拳を握った。
「陣地を破棄する。全軍引け!」
銅鑼の音を合図に、兵士たちが一斉に撤退を始めた。
「なんでこの場所にキルグが来るんだよ!」
「知るか!」
逃げながら兵士が叫ぶ。
「魔物の軍なんて聞いたことねぇぞ!」
「俺だってねぇよ!」
叫びながら、兵士たちは走った。
風になびくキルグの軍旗。
その手前に群なす異形の軍勢。
「トロス砦に集結せよとの命令だ。急げ!」
声を枯らす上官も、事態が飲み込めている訳ではない。
混乱の中、兵士たちは、トロス砦に向かって必死に逃げていった。
突然現れた、キルグの軍と異形の軍。
最初に攻めてきたのは、魔物たちだった。
それらは、魔物とは思えない統率の取れた動きをしていた。
粗末な棍棒しか持たないはずのゴブリンが、小型の盾を構えて、密集隊形で迫ってきた。
真っ直ぐ突っ込むことしかしないはずのウルフが、隊列を組んで左右に回り込み、槍のように陣を切り裂いていった。
大型の魔物が柵を薙ぎ倒し、混乱した兵士たちにナーガの剣が襲い掛かる。
国境守備隊は、魔物軍の前になす術なく、一日とたたずに壊滅したのだった。
残った兵士は、南東地域最大の軍事拠点、トロス砦へと向かった。だが、数千人いた兵士のうち、砦に辿り着いたのはたったの五百人ほど。そのうち、戦える者は半分にも満たない。
「これしか残らなかったのか」
砦の司令官が顔を歪めた。
普通の軍隊が相手なら、投降すれば命だけは助かっただろう。しかし、相手は魔物。動けなくなった者も、戦意をなくした者も、等しく魔物によって命を奪われていた。
おそらくは、周辺の町や村も……
ところが。
「町や村に、被害がない?」
「はい」
逃げてきた将校の報告に、司令官が首を傾げる。
「目撃した兵の話では、ちょうどこの地域を巡行していた教団の教祖が駆け付けて、何かの呪文で魔物たちをおとなしくさせたとか。その上教祖は、攻めてきたキルグの将校に交渉をして、町や村を略奪から守ったとのことです」
「教団の教祖が?」
司令官が目を見開いた。
魔物をおとなしくさせたというのも驚きだったが、キルグに略奪を止めさせたというのも驚きだ。
魔物たちはともかく、広大な荒野を越えてきた軍にとって、攻め取った土地から糧食を奪うのは必要なことだ。そうでなくても、勝者の力を敗者に見せ付けるため、あるいは自軍の兵士の士気を高めるために、侵略した側が略奪を行うことは当然というのが、この世界の常識だった。
それが、敵国の教団の説得に応じて略奪を思いとどまるなど、普通は考えられない。
「周辺の町や村は、教祖様の偉大なお力のおかげだと大騒ぎだったようです」
「うーむ」
唸りながら、司令官が腕を組む。
その司令官に、突然話し掛ける者がいた。
「お取り込み中失礼する。あなたが司令官殿ですかな?」
司令官が声の主を見た。
そこには、不思議な空気を纏う老人がいた。
「わしは、影の一族のもと頭領。微力ながら、援軍として参りました」
「影の一族!?」
影の一族といえば、その名の通り影で王家を支える、エルドア建国当時から続く一族だ。その姿を知る者はほとんどおらず、地方の軍人などにはまるで縁のない存在だ。
それが、顔を晒してまで援軍としてやってきた。
「王の命令で、一族のほとんどを引き連れて来ております。前線に偵察の手練れを向かわせましたので、じきに敵の状況も分かりましょう」
「それは助かる」
驚きを収めて、司令官が礼を言った。
「すでに王都から援軍も出発しているはず。それとは別に、強力な援軍も呼んでおります。この砦を死守して、共にエルドアを守りましょうぞ」
「うむ、そうだな」
力強い老人の言葉に、司令官も強く頷いた。
作戦室に集まった将校たちが、緊張した面持ちでテーブルを囲んでいる。その面々に向かって、偵察から戻った影の一族の男が言った。
「キルグの兵は、およそ五万。加えて、魔物の軍がおよそ二万。計七万の軍が、南よりこの砦に向かっています」
「七万……」
作戦室にどよめきが広がる。
「さらに、もう一つご報告が」
男が、低い声で言った。
「敵の中軍に、金色の大きな旗がありました」
「金色の旗だと!?」
その報告に、部屋の中が静まり返った。
国によって、軍旗には様々な意味がある。キルグにおいて、金色の旗は非常に特別な意味を持っていた。
「間違いなく、キルグ帝国の皇帝か、その直系の者がそこにいるものと思われます」
「馬鹿な!」
司令官が大きな声を上げた。
「キルグ皇帝の、親征……」
絶望の声が聞こえた。
キルグ軍における金色の旗は、そこに”神の鎧”があるという意味になる。鎧を着けることのできるのは、皇帝とその後嗣のみ。すなわち敵の軍勢は、皇帝自身か、あるいは皇太子が率いているということだ。
神の鎧あるところに負け戦なし
それは、兵士の士気を鼓舞するために帝国が作った宣伝文句ではない。
それは、事実。キルグ帝国建国以来、神の鎧が出陣して、戦に負けたことは一度たりともなかった。
重い空気の中で、影の老人が小さくつぶやく。
「神の鎧が相手では、あの者たちでもさすがに……」
静かに目を閉じる老人の眉間には、深いしわが刻まれていた。
王都からの援軍二千は、思ったよりも早く到着した。キルグの軍勢が砦の南に姿を見せたのは、その日の午後遅く。どうにか迎撃の体制は整った。
砦の既存兵と、逃げてきた兵のうち戦える者を合わせて五百。これに援軍の二千を加えて、二千五百。
この兵力で、七万の軍を迎え撃つことになる。
「明朝から戦いになるだろう。一日でも長く持ちこたえろ。そうすれば、必ず大規模な援軍がやって来る!」
司令官が、配置についた部下たちを激励して回る。
「はっ!」
兵士たちが大きな声で答えた。だが、ここを最後まで守り切れると思っている者は、おそらくほとんどいない。
砦の正面、普段は見事な緑に染まる草原は、異形の者たちで埋め尽くされていた。
魔物の軍勢、およそ二万。
その先に目をやれば、一段高くなった台地に幾筋もの軍旗が翻っている。キルグの本隊およそ五万。中軍には、報告にあった金色の旗も見えた。
「ゴブリンにウルフ、オークにガーゴイルにナーガ。じつに多彩なものじゃな」
「マンティスにベヒモス、ヒュドラもおりますな」
二人の男が言葉を交わす。
「生息地などまるで無視。低位の魔物から上位の魔物まで、よくもここまで揃ったものじゃ」
「父上、呑気なことおっしゃっている場合ではないと思いますが」
手をかざして敵を眺める老人に、息子が言った。
影の一族の現頭領。王の側を離れるはずのないその男が、二千の援軍と共にこの砦にやってきていた。
「夜行性の魔物は少ない。司令官の言う通り、戦いは明日の朝からになるだろう」
老人の言葉に息子が頷く。
「ところで、手筈はどうじゃ?」
「整っております。しかし、神の鎧は想定外でした。もともと高くはなかった成功率が、さらに下がったと言わざるを得ないでしょう」
「まあ、そうじゃな」
現地にいる兵士だけでなく、王都の高官も、そして王も、この砦が守り切れるとは考えていなかった。
というより、キルグの軍勢に南東から侵入された時点で、王都のある北東部以外の防衛は諦めざるを得なかった。
ゆえに王は、影の一族を戦場に派遣した。
砦が落ちた後、勝ち鬨を上げる敵軍の隙をついて、キルグの司令官を暗殺せよ
なりふり構わない作戦。それを成功させるために、頭領が派遣されてきたのだった。
しかし、謀略渦巻くキルグにおいて、暗殺は日常茶飯事。要人の警備は非常に厳しい。加えて、当初の情報にはなかった神の鎧の存在。もはや成功の確率はゼロに等しかった。
互いを見ることなく、父子の会話は続く。
「さきほど父上がおっしゃっていた、エム商会とかいう者たち。その者たちが来れば、形勢は逆転できるのでしょうか」
「その可能性は、あると思うがな」
「たったの七人で? 七万の軍勢を相手に?」
問われて、老人は目を閉じる。
やがて目を開けて、老人が言った。
「そうじゃ。あの者たちならば、必ずや奇跡を起こしてくれるじゃろう」
「……」
言い切った父を、息子が見つめる。
その顔を見て、息子は、父が何かを覚悟していることを知った。
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