クラン城

 翌朝二人は、日が昇る前に山を下りた。道を避け、人の気配を避けて移動を続ける。

 ヒューリの顔は、ここでは知られ過ぎていた。フード付きのマントは着ていたが、顔見知りに出会ってしまえば、おそらく気付かれてしまうだろう。

 二人が目指すのはクラン城だ。しかし、そこに向かうのは夜になる。山を下りた二人は、町に近付くことをせず、農地の外れの茂みの中で身を潜めていた。


 そして、夜。


「静かだな」


 周囲を見回してヒューリがつぶやく。

 ここはクラン城の裏手。様々な店が並ぶ町の繁華街だ。


「この時刻なら、まだ結構賑やかだったんだけど」


 人々が寝静まるには早い時刻。ヒューリがいた頃は、この辺りを遅くまで酔っぱらいたちが歩き回っていた。

 ロダン公爵の情報によると、町には夜間外出禁止令が出ているらしい。ほかにも、クランの民の生活には様々な制限が掛けられているようだった。

 人がいないおかげでここまではすんなり来ることができたが、問題はここからだ。


「隠し通路とか、ないの?」

「城に住んでた訳じゃないから分からないけど、たぶんないだろうな」


 シンシアに聞かれてヒューリが答えた。


「クランの防壁は、周囲の山々なんだ。そこを最終防衛線としてクラン軍は戦ってきた。山の内側は、すぐ町になる。町を戦場にしてまで国を守るっていう発想が、この国にはない。つまり、山を越えられた時点で降伏するってことだ」


 シンシアが目を丸くする。


「籠城することがないんだから、脱出用の通路なんて城にはない。堀も、高い塀さえもクラン城にはないのさ」


 ヒューリの説明を聞きながら、シンシアは改めて目の前の城を見た。

 等間隔に設置された魔石の街灯が、周囲を囲む塀を照らしている。塀の高さは二メートルほど。ヒューリやシンシアなら、乗り越えるのに何の支障もない。

 定期的に兵士が巡回しているが、隙を見て飛び出せば、敷地内に忍び込むのは簡単だろう。


「問題は、伯父上がどこに囚われているかだな」


 シンシアと一緒に城を見ながら、ヒューリがつぶやく。

 イルカナの王宮やカサールの王城に比べれば、その規模は非常に小さい。それでも、城は城だ。人を閉じこめておけるような部屋はいくつもある。

 だが。


「クラン城には地下牢がない。だから、人を閉じこめておくならたぶん……」


 そう言ってヒューリは、塀の向こうに見える尖塔を見上げた。東西に二つある尖塔の片方。東の尖塔よりもやや低い、西側にそびえる塔の上部の小さなバルコニーと、その奥の窓に目を凝らす。


「とりあえずは偵察だ。塀を越えるぞ」

「分かった」


 シンシアが頷いた瞬間、ヒューリが走り出した。遅れることなくシンシアも続く。

 巡回が途切れたわずかな隙を逃すことなく、二人は軽々と塀を越えていった。


 塀の内側に飛び降りた二人は、物影から物影へと移動しながら敷地内を見て回る。兵士はもちろん、トラップにも気を付けながら、二人は偵察を続けていった。

 敷地内にいるのはキルグの兵士だ。しかし、その数は意外と少ない。ヒューリがいた頃と比べると、警備体制はかなり緩かった。

 しかも、兵士たちの士気が低い。あくびをする兵士やお喋りに夢中の兵士、挙げ句の果てには、立ったまま寝ている者までいる。


「こんな警備、クランの兵士がその気になれば……」


 悔しそうにつぶやくヒューリの背中に、シンシアが触れた。


「分かってる、大丈夫だ」


 振り返ることなくそう言って、ヒューリはまた移動を始めた。

 建物の西側へと回り込み、尖塔の周囲を確認して、上を見上げる。外から尖塔に入るには、上部にあるバルコニーまで行くしかない。バルコニーまでは、それなりに高さがあった。フライにしてもロープを使うにしても、登っている途中で見付かる可能性が高い。

 しばらくそこに留まっていた二人は、再び移動を開始して正面に回る。そこで二人は動きを止めた。

 城の大手門の内側、館の正面玄関の前の庭を、ヒューリがじっと見つめている。

 かがり火に照らされた数人の兵士といくつかの小屋。ここにいる兵士も、士気はあまり高くない。つまりはこれまでと似たような光景。ヒューリが何を見つめているのか、シンシアにはよく分からなかった。

 ふと。


「あれは使える」


 そう言って、ヒューリがにやりと笑う。


「一旦引き上げるぞ」

「?」


 城の裏手へと戻り始めたヒューリを、シンシアが慌てて追い掛けていった。



 のち、深夜。


「もう見張りなんていらんだろ」

「まあそう言うな」


 文句を言う同僚をなだめて、しかし、その兵士もこっそりあくびを噛み殺していた。


「冷えてきたな」

「いつものことさ」


 かがり火に手をかざしながら交わす会話は、眠気覚ましだ。何か話していないと瞼が重くて仕方がない。


「最近は反乱もないし、もっと見張りの数を減らしたって……」


 言っても仕方のない愚痴を兵士がこぼしたその時。


 ヒュー!


 冷たい風が吹いた。


「うえぇ、夜はいつも……」


 兵士の一人が上着の襟を立てた、次の瞬間。


 ゴオオオォッ!


 もの凄い突風が吹き抜けた。


「ひえぇっ!」


 兵士たちが、襟を押さえて身体を丸める。


「まったく、夜の見張りはこれだから……」


 閉じた目を開き、また愚痴を言い掛けた兵士が、直後慌てて走り出した。


「やばい!」


 風で足ごと吹き飛ばされたかがり火が、物置小屋の脇にあった薪に燃え移っていた。

 止まない風にあおられて、火が燃え広がっていく。


「水を掛けろ!」

「くそっ、間に合わねぇ!」


 魔法の水で消火を試みるが、そんなものは焼け石に水だった。


「火事だー!」


 兵士が叫ぶ。


「なにっ!?」


 あちこちから兵士が駆け付ける。

 城の庭が騒然となった。


 それをじっと見ていた小柄な影が、くるりと向きを変えて走り出す。暗闇を駆け抜け、西の尖塔の下まで来ると、そこで得意げに親指を立てた。


「作戦通り」


 待っていたもう一つの影が大きく頷く。そして、吐き捨てるように言った。


「かがり火なんて使うからそうなるんだよ」


 クランの町は盆地にある。空気が乾燥している上に、夜になると、時折強い山風が吹く。

 だから、クランでは昔から、屋外で明かりを取るのに火を使わなかった。多少暗くても、魔石のランプや魔法の明かりを利用していた。

 かがり火を、しかも薪の近くで焚くなどということを、クランの兵士ならするはずがなかったのだ。


「よし、次だ」

「分かった」


 続けて。


「お願い」


 小柄な影が上昇を始めた。

 壁に沿って昇っていくその姿は周囲から丸見えだ。しかし、兵士たちは消火に必死でそれどころではない。

 尖塔上部のバルコニーに到達した影は、鞄から長いロープを取り出すと、自分の身体に片方を巻き付け、もう片方を下へと投げ落として足を踏ん張った。

 そのロープがピンと張ったかと思うと、驚くほど短い時間でもう一つの影が登ってきた。


「重い」

「うるさい!」


 軽い応酬の後、登ってきた影が、窓から内側を窺う。

 そして。


 コンコンコン


 そっとガラスを叩いた。

 反応はない。


 もう一度。


 コンコンコン


 今度は反応があった。ゆっくりと人影が近付いてくる。

 窓が慎重に開いていった。

 窓から顔を覗かせた人物が、息を呑む。

 これ以上ないというほど大きく開いた赤い瞳が、バルコニーを見つめた。

 その瞳に向かって、影が言った。


「ご無沙汰しております」


 にこりと笑いながら、ヒューリが言った。


「ご無事で何よりです、伯父上」

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