叶えられた願い
カサール王国の王都は、イルカナの王都アルミナに比べるとその規模はやや小さい。それでも、行き交う人々の熱気はアルミナに決して引けを取らなかった。
その王都の郊外にある小さな一軒家に、三人は到着した。
「ここで待っていろ」
馬をつなぐと、そう言い残してリスティが扉の中へと消えていく。
「あいつ、結局ずっと無言だったな」
「ちょっと、かわいい」
「お前の感性がまるで分からん」
楽しそうなシンシアを、ヒューリが呆れながら見る。
「ま、どのみちあいつに会う必要があったんだから、ちょうどよかったけどな」
「うん、ちょうどよかった」
馬の首を撫でながら二人がそんなことを話していると、それほど時間を置かずに扉が開いた。
出てきたのは、女。
「突然のお誘いにも関わらず、お越し下さいましてありがとうございました」
丁寧に頭を下げる女を見て、ヒューリが声を上げた。
「あ、毒味役の……はうっ!」
シンシアが、ヒューリのわき腹に肘打ちを食らわせる。
顔を歪めるヒューリと、頭を下げるシンシアに向かって、静かに女が言った。
「大したおもてなしもできませんが、どうぞ中へ」
こじんまりとしたダイニングルーム。その四人掛けのテーブルに二人は座っている。
リスティは、馬の世話をしてくると言って外に出て行ってしまった。女は、お茶とクッキーを二人の前に置くと、そのまま台所に消えていった。
手持ち無沙汰のヒューリは、カップを持ったまま部屋の中を見渡している。シンシアは、クッキーをしげしげと眺めた後、それをかじって味や食感を確かめていた。
外から見たままの小さな家。客間はないらしく、一階にはダイニングと台所、そしてリビングがあるだけだ。二階の間取りは分からなかったが、二部屋か、せいぜい三部屋しかないだろう。
二人がいるダイニングルームに、絵画や装飾品の類は一切ない。そのかわりということではないのだろうが、テーブルクロスにはなかなかに見事な刺繍が施されていた。
クッキーの分析を終えたシンシアが、それを見てつぶやく。
「さっきのタオルにも、刺繍があった」
「そう言えばそうだな」
クロスの刺繍を突っつきながらヒューリが答える。たしかに、手を洗った時に借りたタオルにも小さな刺繍がされていた。
「しっかし、あいつの行動は謎だらけだな。私たちを置いて外に行っちゃうし、家に呼んだ理由も分からないまんまだし」
ヒューリの声に、シンシアも頷く。
「そもそも、何であいつがイルカナの国境にいたんだ? 私のことを知ってたってことは、南東の国境警備をしてたんだろ? っていうか、あいつ軍の仕事はしないんじゃなかったのか?」
立て続けにヒューリが疑問を並べるが、シンシアには答えようがない。
「だけど軍服は着てたな。しかも、あの階級章は、たしか士官クラスの……」
そこまで言った時、台所から女が出てきた。
「お待たせして申し訳ございませんでした」
静かに頭を下げて、テーブルの横に立つ。
夕飯にはまだ早い時刻だが、台所からはいい匂いがしていた。女は夕飯の下準備をしていたのだろう。
「リスティ、さんは?」
カップを置いて、ヒューリが聞いた。
「旦那様は、夕飯まで外にいらっしゃると思います。時間になりましたら、私がお呼びしてまいります」
何でもないことのように女が答えた。
「ここは、リスティさんの家なんですよね?」
「はい、左様でございます」
「そろそろ馬の世話は終わる頃だと思うんですけど、中には、その、入ってこないんですか?」
「はい、旦那様はそういうお方です」
不思議な答えだが、何となく二人には納得できた。
「もしよかったら、お座りになりませんか?」
「お気遣いありがとうございます。しかし、私は使用人でございます。このテーブルに座ることはできません」
ヒューリの勧めを、女は柔らかくもはっきり断った。
何となく落ち着かなかったが、さすがに無理強いもできない。立ったままの女を見つめるヒューリが、遠慮がちに質問を始めた。
「差し支えなければでいいんですけど、えっと、いくつか聞きたいことが……」
ヒューリは、検問所以降の出来事を伝え、いくつかの疑問をぶつけてみる。
それをじっと聞いていた女が、静かに頭を下げた。
「旦那様が、無理にお誘いしたのですね。申し訳ございませんでした」
「あ、いや、それはぜんぜん問題ないんですけど」
ちょっと慌てるヒューリに、女がもう一度頭を下げる。
「重ねてのお気遣いありがとうございます。では、私が分かる範囲でご質問にお答えいたします」
丁寧な態度とちぐはぐな、ほとんど表情のない顔で女が説明を始めた。
武術大会から帰国したリスティは、国が主催する慰労パーティーに”出席”した。
それまでリスティは、国王主催のイベントですら参加してこなかった。上官も、断られることを前提に声を掛けた。答えを聞いた上官が何度もリスティに確認するほど、それは想定外の返答だった。
パーティーの後、リスティは、軍の仕事がしたいと申し出た。やはり驚いた上官は、慌てて上層部と相談をする。検討の結果、リスティは憲兵隊への配属が決まった。軍内部の規律を維持する仕事である。
リスティに協調性を求めることは困難だ。と言うよりも、リスティがいるだけで仲間の兵士が怯えてしまう。ならば、それを規律の維持に利用しようという訳だ。
その狙いは、今のところ成功している。
リスティが、駐屯地や砦を訪れて状況を確認する。それだけで、その部隊の緊張感は戦時中並に高まった。その上、意外なほどリスティは頭が切れた。説明の矛盾を見抜き、ごまかしを見破る。配属されて間がないというのに、リスティは、すでにいくつかの不正や規律違反を発見していた。
リスティがクランやヒューリに関する情報を知ったのは、南東の国境警備隊の査察をした時だ。そこから順次国境の部隊を見て回り、ちょうどイルカナとの国境の検問所を訪れていた時に、たまたまヒューリとシンシアが拘束されていたのだった。
「なるほど。よく分かりました」
ヒューリが、かなり驚きながら女に言った。
一緒にピクニックに行ったこともあって、リスティが狂犬と呼ばれるほどに凶暴でないとは感じていた。しかし、自分から仕事がしたいと言ったり、まじめに仕事をこなしたりする男だとも思っていなかった。
「だけど、どうしてあいつ……いや、リスティさんは、私たちを自宅に招いてくれたんでしょう。どう考えてもそんなキャラじゃない……はうっ!」
わき腹を押さえてヒューリが悶える。
ヒューリをシンシアが睨む。
そんな二人を見て、少しだけ目を見開いた女が、やはり静かに答えた。
「それは、私がお願いをしたから、だと思います」
「お、お願い?」
苦しい息の中で、どうにかヒューリが相づちを打った。
答えた女がうつむく。ほとんど表情を見せなかったその顔が、なぜかほんのり色付いていった。
「皆様とピクニックに行ってから、旦那様は変わりました」
うつむいたまま、女が話す。
「変わるということは、旦那様にとってとても大変なことのようでした。それでも旦那様は、変わる努力をお続けになりました」
シンシアが、頷きながら聞いている。
「少しずつ、本当に少しずつ旦那様は変わっていきました。小さな変化とたくさんの努力。その積み重ねが、旦那様を大きく変えたのだと私は思っています」
人はすぐには変われない。マークもよくそう言っている。
女の話にヒューリも大きく頷いた。
「新しい仕事で功績を上げて、旦那様が国から報奨金をいただいた時のことです。旦那様が、私に、何か欲しい物はあるかとお聞きになりました」
シンシアが身を乗り出す。
表情の少なさでは女に引けを取らないシンシアが、とても嬉しそうな顔をしている。
「聞かれた私は、旦那様にお願いをしました。ならば、エム商会の皆様にお礼を申し上げてくださいと。そして、もし皆様がカサールにいらっしゃることがあったなら、私にもお礼を言わせてくださいと」
ヒューリが驚く。
シンシアの目が輝く。
「その時、旦那様は何も答えてくださいませんでした。でも」
見れば、女の頬は明らかな紅色。
その顔には、明らかな微笑み。
「旦那様は、ちゃんと覚えていてくださいました。皆様を、ちゃんと家に連れてきてくださいました」
微笑みが、嬉しそうな笑顔へと変わっていく。
シンシアも嬉しそうに笑っている。
「皆様には、いくら感謝をしても足りないほどの恩を感じております。この場をお借りして、心からお礼を申し上げます」
一歩下がって、女がヒューリを見た。隣のシンシアをしっかりと見た。
そして。
「本当に、本当に、ありがとうございました」
女が頭を下げた。
深く、深く頭を下げた。
心からの感謝。心からの喜び。そして、心からの涙。
シンシアが立ち上がる。頭を下げ続ける女の前に立つ。
女が顔を上げた。涙に濡れるその頬を、シンシアが包み込む。
「あの人が変われたのは、きっと、あなたのおかげ」
女の目が大きく開く。
「あなたは頑張った」
シンシアが言った。
「あなたは、えらい」
シンシアが笑った。
女が泣いた。
くるりとヒューリが向きを変える。
ゴシゴシと袖で目をこする。
腕を下ろしたヒューリが、ふと見付けた。ダイニングの入り口の床に映る影。
その影が、そっとその場を離れていく。
「お前、ほんと不器用だな」
つぶやいて、ヒューリが小さく微笑んだ。
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